帽子屋の新作

「へえ、一日じゅう仕事らしい仕事せずにうろうろしてる社員がいても、誰も気づかないんだ」


 ある平日の夜。仕事を終えたチェシャ猫は『和心茶房ありす』を訪れていた。閉店後の今は、愛莉がおらず、静かである。

 シロは帰ってきたチェシャ猫を労い、軽食のサンドイッチと和紅茶を差し出した。


「まさにレイシーが紛れ込みそうな環境じゃないか。顔も名前も他人から興味を持たれないのは、外を歩く群衆と同じ条件だものね」


 シロは盆を胸に抱き、チェシャ猫の前の椅子に座った。


「なにか気になるものはあった?」


「まだ深くは調べられてない。指紋認証システムにやきもきさせられる。俺の権限のレベルだと、入れる範囲が狭い」


 チェシャ猫は和紅茶を手に取り、ひと口飲んだ。

 それから彼は、ひとつ呼吸を置いて、言った。


「なあシロさん。近々、巡に会ってくんねえか」


「ん。どうしたの?」


 巡――チェシャ猫の妹の名である。そして、チェシャ猫が狩人の仕事をする、最大の理由だ。

 彼女は交通事故で顔が半分溶ける火傷を負い、失明した。その妹の手術費をシロに肩代わりしてもらったため、そして継続的に養うため、チェシャ猫には金が必要なのである。


「ポイソンにいる間に、巡の住んでる福祉施設から連絡が入ってた。折り返したら、……この頃、少し手足の痺れを訴えるようになったと」


 巡の怪我は、顔の火傷だけではない。脳の神経にも衝撃が加わっている。だから彼女は、長くは生きられない。体に痺れが出はじめたのは、時間差で麻痺が始まった症状と見られた。


「できるだけ多くの人と会って話して、外部から刺激を受けた方がいい、らしい。巡はシロさんとは面識あるし、あんたが来たら喜ぶと思う」


 落ち着いて話すチェシャ猫を前にして、盆を抱くシロの指に、きゅっと力が入った。声色を変えないだけで、本当はどんな気持ちか、容易に想像できる。シロは椅子から立ち上がって、カウンターへ向かった。


「あら。それじゃ巡ちゃんも不安だろうね。マメに会いに行ってあげて。もちろん、僕も許される限り行く」


「助かる」


「大丈夫。きっと一時的なものだよ。すぐにまた、元気になる」


 カウンターに戻ったシロが、根拠のない励ましの言葉を口にする。しかし根拠のない言葉であると分かっているチェシャ猫は、返事をしなかった。

 シロはひとつため息をついて、話を変えた。


「ところで、山根さんが言うには、ポイソンさんの社食、まずいらしいね」


「そうなのか?」


 チェシャ猫はこの日の昼食に社食は利用せず、コンビニで買って持ち込んでいた。山根との付き合いが長いシロは、かねてから山根から聞いていた話を思い出していた。シロがカウンターに腕を乗せて、前のめりになる。


「紙粘土を噛んでるみたいとか、工業油の味がするとか、嫌な比喩ばかり聞くよ。そんなもの食べたくないでしょ? 僕がお弁当作ってあげようか」


 冗談なのか本気なのか、シロがご機嫌な声で提案する。と、そこで、扉がドンドンドンと激しく叩かれ、鈴が揺れた。シロが怪訝な顔で立ち上がり、扉を開ける。

 同時に、外から大声が飛び込んできた。


「ハローハロー! 閉店後にジャジャジャジャーン!」


 キャップ帽にカラフルなパーカー、脱色した白い髪。元気に手を振り上げるその男の騒がしさに、チェシャ猫は眉を寄せた。


「うるさ……」


 店に入ってきた彼は、チェシャ猫を見るなり、わお、と声をかけた。


「ハローハロー、世にも物騒なチェシャキャット! まさか君もいるとは、俺ちゃんラッキーだなー」


 ネジの外れたおもちゃのように大仰に手を振る。肩には、服同様にカラフルな飾りをたくさんつけた、大きなバッグを引っ掛けている。シロは彼に、にこっと笑いかけた。


「いらっしゃい、羽鳥くん。閉店後に来るなんて、どうしたの?」


 名前を呼ばれ、彼――羽鳥恭介は、元気よく敬礼した。


「大学に篭ってたら、すっかりお空がとっぷり真っ暗くら! でもおかげですんごいのできちゃった」


 羽鳥恭介は、この辺りの大学生である。ただし年齢は二十四歳、チェシャ猫と同じだ。十八歳で大学に進学し、そのまま留年して、今に至る。頭のネジが外れたような言動、派手ないたずら、授業をサボって妙な発明品を作るなどの数々の奇人行動のせいで、全然卒業できないのである。

 彼もこの『和心茶房ありす』に訪れる客のひとりで、シロともチェシャ猫とも顔馴染みである。

 シロは羽鳥を招き入れ、彼の脱色した髪を目で追った。


「大学に篭って……あれ、卒業式の時期はもう過ぎたよね。君まさか今年も……」


「イエスイエース! 青春延長、ボーナスステージ!」


 満面の笑みでピースサインする羽鳥に、シロは項垂れた。


「そんな気はしてたけど、ついに三回目か……。このままじゃ退学になっちゃうよ」


 シロに呆れられても、自由人な羽鳥は気にしない。


「それよか、大学に篭って作ったこいつを、シロちゃんに届けたくてね。でもジャストミートでチェシャ猫本人がいるから、託す必要なくなったわ。チェシャ猫、スタンダップリーズ!」


 静かに和紅茶を飲みたいチェシャ猫は、うんざりした顔で羽鳥を一瞥する。しかし遅い時間にわざわざ訪ねてくるような用事なのだ、チェシャ猫は素直に椅子を立つ。

 羽鳥は彼に駆け寄り、大きな鞄を床に置くと、大袈裟な仕草でファスナーを引っ張った。そして中からずるりと、ベルトらしきものを取り出す。


「じゃじゃーん。こんなの作っちゃった!」


 腰に巻きつける黒いベルトに、ポーチのような入れ物がぶら下がっている。普段からそれを自身の腰につけているチェシャ猫には、すぐになにか分かった。


「ホルスター、作ったのか」


 留年大学生、羽鳥は、ただの留年大学生ではない。レイシーに精通した神社を実家に持つ、狩人の協力者だ。

 大学をサボって発明しているのは、単なるおもちゃだけではない。その延長で、対レイシー用の武器も開発している。チェシャ猫の拳銃も、羽鳥が作ったものだ。銃声や閃光を極限まで抑えた、銀の弾丸の銃である。

 そんな彼はこの頃、チェシャ猫の拳銃携帯に関わるホルスターにも、気をかけていた。


「去年、春から秋にかけて、チェシャ猫、イライラしてたからね。これ、かなりスマートに隠せるよ」


 にんまり笑う羽鳥に、チェシャ猫はなんだか悩みを見透かされたような、複雑な気分になった。無意識に、ジャケットの裾を握る。


 狩人としてレイシー駆除に出向くチェシャ猫は、腰にガンベルトを装備し、丈の長いモッズコートで隠している。コートの内ポケットには、予備の武器としてナイフも仕込んでいた。

 しかし冬が明けて暖かくなってくると、厚い上着は着られなくなる。

 去年は、春と秋は薄手のコート、夏はパーカーで誤魔化しきった。とはいえ生地が薄ければ上手く隠せないし、暑くても脱げないしで、チェシャ猫はすこぶる機嫌が悪かったのだ。


 そんな彼の憂鬱を見通し、羽鳥は新しいホルスターを携えてやってきた。

 チェシャ猫のジャケットを引っ掴み、強引に引っ張る。チェシャ猫は促されるままジャケットを脱いだ。シロがカウンターから眺めて、感心する。


「羽鳥くんはすごいなあ。機械だけじゃなくて、こういうのも作るんだね」


「なんか急に作りたくなったー!」


 羽鳥が楽しそうに返す。

 彼は、上着の厚さ問題に直面していた去年のチェシャ猫には、全く興味を示さなかった。しかし今年になって唐突に気が向き、作ったそれをチェシャ猫に装備させてみたくなった。

 チェシャ猫を助けるために作った、というより、思いついただけで、そしてそれを試したいだけなのだ。


 ポイソンに出社していた今日のチェシャ猫は、レイシー駆除の予定がなく、ガンベルトをつけていない。ワイシャツ姿のチェシャ猫の上半身に、羽鳥の手がベルトを当てる。


「まずは試着ー」


 チェシャ猫は、ん、と短く返事をし、慣れた手付きでホルスターを体に取りつけはじめた。チェシャ猫に取りつけたベルトを羽鳥が弄り、締めたり緩めたり、なにやらメモをしたりと調整している。羽鳥が徐ろに尋ねた。


「つけ心地はどう? 重くナッシング? 痛くナッシング?」


「かなり軽いな。締めすぎてもいないし、動きも制限されない」


「でしょ。できる限り軽量化して、目立たない太さに調節してあるんだよん。これはまだ試作段階だから、こっから改良してチェシャ猫の体との密着度をさらにアップアップ」


 羽鳥の手が、チェシャ猫の体にホルスターを押し付ける。先程まで羽鳥を鬱陶しげにしていたチェシャ猫も、大人しく羽鳥にされるがままになっていた。


「じゃ、もう少しホルスターの位置、下げられるか。あ、もしかしてここ、ナイフ入るようになってるのか?」


「ザッツライト! 君、ナイフも使いこなせるようになったってシロちゃんから聞いたからね! いくら鞘に入れてるったってコートの内ポケットじゃ不便じゃろがーい」


「あんた、変な奴だけど気が利くな」


 羽鳥は変人だし、大学では問題を起こし倒しているが、仕事はできる。チェシャ猫も、彼のこういうところは信頼を置いていた。

 シロも、ふたりのやりとりを眺めてほっこりしていた。チェシャ猫は悩みが解消され、羽鳥は自分の発明品が役に立って面白い。友達にはならなそうなタイプの違うふたりだが、互いの需要と供給がきれいに噛み合っているのだ。


 ホルスターのベルトを調節した手を、羽鳥はツツッと下に滑らせる。腕を僅かに浮かせているチェシャ猫の腰に、羽鳥の指が向かう。そして、チェシャ猫の脇腹を、指先でこしょこしょと擽った。


「うりゃ」


 羽鳥の攻撃に、チェシャ猫は微動だにしなかった。ただ普段どおりの無愛想な顔で、羽鳥を見ている。羽鳥はもう五、六秒チェシャ猫を擽ってみたが、反応がないのが分かると、つまらなそうに手を引っ込めた。


「お前、あだ名がチェシャ猫のくせにマジで笑わんなー。脇腹で笑わないなら首? 足の裏?」


「もういいか?」


 仕事面で信頼し、大人しくしていたチェシャ猫だが、羽鳥の戯れに付き合うつもりはない。

 羽鳥はむっと唇を尖らせ、チェシャ猫に巻いたショルダーホルスターを取り外した。


「折角ホルスター作ったのにー。いつかチェシャ猫を赤子のようにキャッキャさせてやるからな」


「ホルスターは感謝する。けど、それとこれとは話が別だ」


「むー。言っとくけど、これだけじゃないぞ。もひとつすげえもん、持ってきてるからにゃ」


 羽鳥はホルスターをくるんと丸めて放り投げ、床に落ちたそれを拾いもせず、開けっ放しの鞄に再び手を突っ込んだ。シロがカウンターから覗き込む。


「他にもあるの? 太っ腹だね」


「うん。授業なんも出ずに作ったった! 出席日数足りなすぎて笑う」


「だから卒業できないんだよ」


 シロは複雑そうに返した。羽鳥という男は、褒めた途端に叱るところが出てくる。

 鞄の中から新たに、別の発明品が出てきた。


「プレゼントフォーユー」


 羽鳥の手に握られていたのは、シンプルな黒い腕時計らしきものだった。羽鳥自身のカラフルな色使いの格好には馴染まないそれは、羽鳥の手の中でやけに浮いて見える。


「言ってみれば、レイシー探知機。受け取れーい」


 彼はその腕時計を、チェシャ猫に向かって放り投げた。チェシャ猫はやや的がずれて飛んできたそれを、追いかけてキャッチした。

 黒いベルトの、デジタル時計に見える。しかし表示されている数字は、二十二・五十四とある。

 一瞬チェシャ猫は、二十二時五十四分かと認識した。しかし今の時刻はまだ、九時過ぎである。

 羽鳥は放り投げたホルスターを拾い、鞄に詰めた。


「これは左の数字が気温、右が湿度だよん!」


 チェシャ猫は改めて、探知機なるそれに目をやる。表示された数字がそれぞれ左右で気温と湿度を表すのなら、二十二度、五十四パーセントとなる。

 羽鳥がこれまた大袈裟な所作で、鞄のファスナーを閉めた。


「レイシーの種類によっては、周囲の温度や湿度を急激に変動させるものがいるでしょー。それを発見できるのが、その装置さ。サイドボタンの操作で、体温計やライトにも切り替わる。体温のない奴や、光を貫通する奴も、それで見抜けるのだ! 因みに、普通の時計機能はない」


 狩人がレイシーを発見しやすくする、それだけのための装置だ。地道な調査をするチェシャ猫にとっては、なかなかありがたい代物である。これにはシロも目を輝かせた。


「すごーい! 周辺がやけに寒いレイシーは結構よくいるパターンだから、これは便利だ」


「それもまだ試作段階だけんね。試しに何日か、装備してみてくんない? 実際に役に立つかチェックしたい」


 羽鳥が鞄を肩にかけ、ニッと笑う。


「本当は俺ちゃん好みのカラフルでハッピーなデザインにしたかったんだけど、地味で存在感のないチェシャ猫には似合わないじゃんな。だからチェシャ猫に馴染むデザインにしてやったんだ。作ったものは、使ってほしいからね」

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