酔っ払いの神隠し
明くる日の夕方、窓際のテーブル席で書面を眺めるチェシャ猫に、愛莉が駆け寄ってきた。
「チェシャくん、なに見てるの?」
「役所から送られてきた資料。あんたには関係ない」
にべもなく突き放されても、愛莉はめげない。横から覗き込んで、チェシャ猫の耳元で大声を出した。
「地図だ! ここ知ってる。繁華街の裏通りの辺りだよね。居酒屋さんいっぱいあるとこ」
チェシャ猫が手に持っている地図には、三つの赤いバツ印が記されている。いずれも、居酒屋が密集するエリアだ。
シロがカウンターで和紅茶ときなこミルクティーを作る。
「この前話してた、グループ飲み会からひとり忽然と消える件の資料だよ。僕がお客さんから聞いた以外にも、同じパターンが起きてるみたい」
チェシャ猫は前日に引き続き、ポイソン社内を調査し、定時後にこの店を訪れた。彼は今、ポイソンのレイシー疑惑と飲み屋街の怪事件、両方を追いかけている。
愛莉は今日はバイトとしてここにいるのだが、客が他にいないので、チェシャ猫にべったりである。
シロは和紅茶で作ったミルクティーに、きなこを振りかけた。
「似た状況で、警察に捜索願が出ていたって。一件だけだったけどね。これも翌朝、駅前のベンチで見つかってる」
飲み会からふらっといなくなっただけで、翌朝には発見される。酔っ払いの行動としては特別不自然ではないし、殆どの場合捜索願が出される前に見つかるので、記録が少ないのである。
チェシャ猫は印入りの地図を捲って、重ねた資料のいちばん下に送り、控えていた別の資料を読みはじめた。捜索願が出ていたという一件に関する資料だ。
この件も、別の知り合いと合流したとか、グループ内で分裂して飲み直すような流れはなく、突如忽然と消えたとある。携帯に連絡しても通じなかったため、心配したメンバーのひとりが交番に駆け込んだとのことだ。
チェシャ猫がまた一枚、資料を捲る。さらに下から顔を出したのは、過去に現れた、似たレイシーの例である。海外での事例だが、複数人のグループからひとりが消え、翌朝決まった場所で見つかる事案が、二件あった。
「これだけ似てる事件が起きてるなら、今回も単に酔っ払いが酔い潰れたわけじゃなさそうだな」
チェシャ猫が資料を読み込む。
似た事例の一件目は、五十年ほど前のヨーロッパで、ある一定のエリアで、旅行者グループの内誰かひとりがはぐれ、そしてやや離れた林の中で見つかった。
二件目はその十五年後、東南アジア。こちらは動物の研究グループが決まったエリアでメンバーがはぐれ、翌朝発見されている。
今回の居酒屋の件とはやや違う部分も見受けられるが、共通点も多い。
また二件とも、被害者の記憶が混濁しており、本人から情報を得られない。ここも、今回シロが耳にした件と共通している。資料によれば、被害者は、高熱を出したような悪寒に襲われたと話しており、それ以降の記憶がきれいに抜けているというのだ。
因みにいずれも、狩人による囮作戦でレイシーを誘き寄せ、駆除されている。
「チェシャくん、昨日あのあと、観測エリアを散策したって言ってたね」
シロに振られ、チェシャ猫は頷いた。
「五人くらいのグループが店から出てくるのを見つけたら、様子を見てたんだが……特に、人が消えたりはしなかった」
「そう都合よく立ち会えないか……」
「飲み会が多い金曜日にでも、もう一度様子を見てみる」
それからチェシャ猫は自身の手首に取りつけた、腕時計型のレイシー探知機を一瞥した。
「でも、気になることはあった。時々、気温が急に冷たくなった」
羽鳥の発明品の試運転も兼ねての、現場調査である。チェシャ猫は体感温度に違和を感じたら、この温度計の数字を頼りに、冷たさの根源を探した。
「なんかいるとは思うが、それらしい奴は特定できない」
「うーん、今の情報量だと酔っ払いあるあるの域を出ないんだよなあ。いっそ死人が出てるくらいの事件なら、もっと騒ぎになるし警察が調べて情報も増えるんだけどな」
「縁起でもねえこと言うなよ……」
チェシャ猫が眉を顰めると、シロはふふっと笑って毒舌をなかったことにした。
事実、レイシーが絡む事件には、死人が出るケースも多々ある。レイシーに意識を喰われたり、体に機能不全が起きたりして、病気や事故に至るのだ。傍から見れば本人の不摂生、不注意に見られるため、世間にはそう処理される。
真剣な顔をするチェシャ猫を、愛莉がうっとりと眺めている。彼女に、シロが声をかけた。
「愛莉ちゃんも、この辺では遊ばないようにね。レイシーに悪さされるといけない」
「はあい」
「といっても、この辺は居酒屋ばっかりだから、高校生の愛莉ちゃんはあんまり用がないか」
シロが和紅茶ときなこミルクティーを盆に置いて、カウンターを出る。彼を目で追い、愛莉はハッとした。
「そうだ! あたし、レイシーから避けられるから、あたしがこの地図のエリアにいれば、この事件も起こらなくなるんじゃない!?」
「今、近寄るなっつったばっかりだろ」
シロに代わってチェシャ猫が突っ込む。
「大体、あんたはたしかにレイシーを追い払うが、追い払うだけで駆除してるわけじゃねえ。あんたがこのエリアにいれば、レイシーは移動して別の場所で同じことするだけなんだよ」
「あ、そっか! なら、そのまま宇宙まで追い出せれば……」
「そんな手間かけてられるか。特定してぶっ殺した方が早い。レイシー忌避剤のあんたで追い回すより、レイシー誘引剤のシロさんを囮にした方がまだマシだ」
チェシャ猫が言うと、これにはシロがむっとむくれた。
「根暗で悪かったね。でもお生憎様、レイシーはそう思いどおりに僕を狙ってくれるわけじゃないよ。やられたらいちばん困ることをしてくるだけだ」
スピリチュアルな界隈でも言われるように、暗い場所やネガティブな精神性は、悪いものを寄せ付ける。
シロはまさにそれである。ネガティブで臆病な彼は、漠然たる悪いもの、すなわちレイシーを惹き付けやすい。
明るい愛莉がレイシー忌避剤なら、暗いシロはレイシー誘引剤である。シロが愛莉を店に置いているのも、彼女の明るさがシロの暗さを打ち消すから、なのだ。
「でも、囮作戦というのは悪くないね」
シロは真顔になり、和紅茶ときなこミルクティーをテーブルに運んだ。
「チェシャくんは現場で悪寒を感じたにも拘らず、正体を見つけられなかった。レイシーのターゲットになってみないと、見抜けないのかも。事実、似た事例の二件はどちらも囮作戦で決着をつけている」
シロに言われ、チェシャ猫は改めて手元の資料に目を落とした。愛莉も一緒に覗き込む。チェシャ猫は本文の一部を、声に出して読んだ。
「一件目は狩人だけで編成した旅行者グループを装い、二件目も、狩人を集めて動物研究チームとしてレイシーの攻撃を誘った、か」
それを受けて、シロは頷いた。
「そう。この先人たちの知恵を借りると、僕らは狩人だらけの飲み会を開くことになる」
大真面目な顔で冗談を交えるシロに、愛莉が笑顔で反応した。
「楽しそう!」
逆にチェシャ猫は、気だるそうに下を向く。
「面倒くせえな……」
対極にあるふたりの反応を見て、シロは険しい表情を解した。
「その場合、幹事は僕らだね」
「じゃあ途中で抜けらんねえな」
「はは。件のレイシーに連れ去られるんでもなければね」
シロは毒を含んだ冗談を交えてから、思い直した。
「あ、でもチェシャくんはお酒飲むのがあんまり上手じゃないよね。困ったな」
「そんなに飲めないわけじゃない」
淡々と交わし合うふたりを眺めて、愛莉がきょとんとする。
「チェシャくんとシロちゃん、一緒にお酒飲むんだ。想像したことなかったな」
仕事の上で手を組んでいる大人たちだ、そういう機会もあるだろう、と、愛莉は思った。しかし高校生の彼女には今ひとつピンとこない。
シロはチェシャ猫との言い合いを一旦止めて、愛莉に微笑みかけた。
「一度だけね。チェシャくんが初めてうちにごはん食べに来た日、流れで僕の晩酌に付き合わせたんだ。でもこの人、度数が低いのをひと缶飲んだだけで寝ちゃってね。面倒だったから、それ以降はもうこいつと飲むのはやめたよ」
「っせーな、当時よりはもう少し飲めるようになった。あんたほど強くはないが、なんとかなる」
チェシャ猫がすぐさま言い返す。愛莉はへえ、と短く返事をしてから、聞き流しかけた一点に気づいた。
「おうちにごはん食べに行くんだ!?」
「よく考えたら、狩人飲み会ってかなり危険じゃない? 狙われるのがどの狩人であったとしても、酒が入った人に武器持たせるの、すごくやだな」
シロが腕を組んで、チェシャ猫を見下ろす。チェシャ猫もハッとなり、それには納得した。
「たしかにそうだ。飲み会とは名ばかりで、全員ソフトドリンクだけになりそうだな。……その条件でもレイシーは寄ってくるのか?」
そこで、扉の鈴が揺れて、外から客がやってきた。
「はあ、この時間はまだ冷えるな」
入ってきたのは、チェシャ猫とはまた違った色合いのスーツを着た、三十前後の男である。黒縁眼鏡を押し上げる彼に、シロはぱっと笑いかけた。
「あっ、深月くん! 待ってたよ。思ってたより遅かったね」
「そうなんだよ。区長代わったら方針が変わって、上司の指示も変わってさ。おかげで残業が長引いた」
どうやら事前に連絡があったらしい。チェシャ猫と愛莉も、彼の方を振り向いた。
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