眠りネズミの来訪

 後日、とある平日の昼、チェシャ猫はシロに呼び出されて『和心茶房ありす』を訪れた。

 扉の鈴が鳴らない。無音で入ってきた彼に、シロは気づかない。チェシャ猫の定位置であるテーブル席で突っ伏している女も、気づいていない。

 それどころか、彼女はぐっすり眠っていて、チェシャ猫が後ろに立ってもまだ起きなかった。

 チェシャ猫がカウンターのシロを呼ぶ。


「シロさん。用事ってなんだ?」


「わあっ! チェシャくん、いつの間に」


 シロはびくっと飛び跳ねて、それからテーブル席の女に声をかけた。


「山根さん、起きて。チェシャくん来たよ」


 窓際のぽかぽか陽気に包まれて、ぐっすりと眠る、長い髪の女性。深く眠っているのか、シロの呼びかけ程度では目を覚まさない。チェシャ猫が人差し指でトントンと彼女の肩をつつくと、女、もとい、山根夢子はようやく顔を上げた。


「んん……あら、ここは? ん? チェシャくん?」


 くしゃっと乱れた髪、目の下の隈。寝ぼけ眼を擦る山根に、歩み寄ってきたシロがコーヒーを差し出す。


「山根さんが呼んだんでしょ。話があるって」


「そうだったわー。このお店、あんまり居心地がいいからすっかり寝ちゃった」


 徐々に覚醒してきた山根が、ほんわかと笑う。チェシャ猫は彼女の前の椅子を引き、コートを脱いだ。


「あんた、ここじゃなくてもどこでも寝てるだろ。今度は何徹してるんだ?」


「うふ。まだ二徹目よ」


「寝ろ。いや今じゃない。で、話ってなんだ」


 椅子に腰を下ろし、チェシャ猫は尋ねた。


「こないだのレイシーの灰の、分析結果についてか?」


 山根夢子は、大手製薬会社『ポイソンコーポレーション』の研究員である。そしてそれと同時に、狩人が採集した灰を回収、分析し、調査している。


「あの一定コースを一定速度で進む、点Pみたいなレイシー? あれはあなたに報告するほどの特殊なものではないわよー。今まででいちばんたくさんいるのと大体同じよ」


 山根はシロから受け取ったコーヒーをひと口啜り、ほっと息をついた。


「まあ、似たか寄ったかでも、完全に同じレイシーはいないんだけどねー」


 レイシーの研究は、統計学である。

 得体のしれない化け物であるレイシーは、人知を超えた存在だ。捕獲して調べれば人間が喰われる。故に、駆除したあとの灰しか、調べる緒がない。

 全国各地の研究員たちは、この灰の成分を分析し、過去のレイシーの例として記録していく。調査した母数を増えれば増えるほど、後発の似た傾向のレイシーを対策しやすくなるのだ。

 山根はコーヒーの湯のみを茶托に置き、改めて、チェシャ猫に向き直った。


「今日はね、それの話じゃなくってー。別件で、チェシャくんに相談があってねー」


 チェシャ猫も聞く姿勢に入る。シロが和紅茶を運んできて、チェシャ猫の手前に置く。

 山根はコーヒーをひと口含み、のんびりと話した。


「この頃、うちの会社の電子機器が、やけに壊れるようになったのよー。給湯室のポットとか、電子レンジとか。携帯が壊れた人もいる。でもなぜか、すぐ直るのー」


「ふうん」


「全部同時にガタが来たのかとも思ったけど、買い替えたばかりの備品も、壊れちゃ直っちゃしてるのー。扱いにくくて困っちゃうわ」


 世間話のような山根のそれを、チェシャ猫は大人しく聞いている。山根はゆっくりまばたきをして、続けた。


「すぐ直るからさほど問題になってないけどー……なんか、気持ち悪いじゃない?」


 山根は間延びした声で言い、それからふあ、と欠伸をした。


「うちの上層部は、職員の備品の扱いに関する意識改善とか、電気の配線に問題がないかとか、いろいろチェックしてる。その一環として、レイシーの可能性も、視野に入れてるのよー」


 レイシーの存在は、往々にして、周辺環境に僅かに影響を及ぼす。代表的な例で異様な寒さ、ベタつく湿度。それから、やけに物が壊れるなどの例も少なくない。


「それで、狩人に社内を調べさせて、レイシーがいるかどうかを確かめたいと」


 チェシャ猫が先回りすると、山根はこっくりと頷いた。


「過去の例にも、常に微妙に電磁波を発していて、近くにある電子機器の調子を狂わせるやつがいたわ。で、そいつが離れると影響もなくなって、元に戻るとか」


「電波を受信する機器なら、受信を妨害されれば一時的に狂うこともある。そういうのならともかく、そうじゃない機械でもそんな壊され方すんのかよ」


 チェシャ猫は眉を寄せると、山根はそうよ、とあっさり言った。


「理屈で片付かないことをするのがレイシーよ。あなたもよく知ってるでしょう?」


 山根に諭され、チェシャ猫は納得した。いや、レイシーの行動には納得いかないが、そういうものと受け止めるしかない。

 山根は改めて、チェシャ猫に頼んだ。


「あなたの来週のスケジュール、すっぽり消えたって、シロちゃんから聞いたわよー。ちょうどいいから、まずは五日間、本社に入ってもらって調べてもらいたいの」


 つまり、狩人へのレイシー調査依頼。普段どおりの狩人の仕事だ、とチェシャ猫は受け止めた。しかしその直後、山根が付け足す。


「だけど空振りだった場合、あなたにお金が振り込まれないじゃない? 五日も拘束するのにただ働きなんてかわいそうだから、日当を出すことにしたのよー」


 途端に、チェシャ猫の目がお金の色になった。


「日当……!」


「日雇バイトの相場の倍は出すわよー。うちの会社、目的のためなら金に糸目はつけないからー」


 山根はにこっと目を細め、指を立てた。


「本当になにかいたら、あなたは役所に申請書を出すの。これであなたは、うちの会社からの給与と役所からの賞金を二重取りできるわ」


 彼女の提案に、チェシャ猫はますます目を輝かせた。

 スケジュールが空いていたチェシャ猫も、ちょうど彼を求めていたポイソンも、お互いに渡りに船だった。


「この条件だと、先に役所を通すと面倒だから、直接あなたに頼みに来たのよー。どうかしら。来てくれる?」


 山根に誘われ、チェシャ猫は即答した。


「むしろ、そんな好条件出してもらえるとは思わなかった。いいのか?」


「ふふ。こっちはあなたが捕まえたダイナちゃんを逃してしまった負い目があるからねー。上層部を揺すればもっとお金落とせるかもよー」


 冗談めかして言ってから、山根は鞄からファイルとペンを取り出した。


「これが書類一式。一時的な条件とはいえ、雇用という形態を取る場合、これを書いてもらわないといけないの。このあと職場に戻ったら、そのまま総務に提出してきてあげる」


「どうも」


 チェシャ猫はそれを受け取り、ファイルの中の書類をテーブルに広げた。山根が彼の様子を眺めつつ、コーヒーを啜る。


「後日、指紋認証システムにも登録してもらうわねー。権限のある部屋しか開けられないから、チェシャくんは範囲が限られちゃうかもだけどー……レイシーの居場所によっては、交渉して権限の範囲を広げるかもしれないわねー」


 互いの利害が一致して、話がトントン拍子で進んでいる。シロはカウンター越しに、その様子を眺めていた。

 山根から渡った書類に、チェシャ猫の持ったペン先がつく。氏名の欄、そこに刻まれたフリガナを見て、山根は呟いた。


「あら。私、あなたの名前、今の今まで間違えて覚えてたわー」


「よく言われる。間違えられてもいちいち訂正しねえしな」


「んー、下の名前で呼ぶ機会なんかないし、気づかなかったわー。ごめんね」


 チェシャ猫の癖字が書類を埋める。山根は窓から差し込む日の光に、うっとりと目を細めた。そのまま徐々に目を閉じ、眠りに落ちていく。

 チェシャ猫はペンを走らせながら、彼女の様子を一瞥した。


「二徹目っつったな。なにをそんなに頑張ってるんだ」


「いつもどおり。給料が欲しいのと、推しに貢ぎたいのと、イベント走ってるのと……」


 山根はうとうとと船を漕ぎつつ、とぎれとぎれに答えた。


「それに加えて……この頃は、ジャバウォックの件もあるしねー……」


「ジャバウォック。あの鏡に映った他人の姿で、勝手なことしやがるやつか」


 シロからそう聞いていたチェシャ猫は、ペンを止めて山根の眠そうな顔を見た。山根は一瞬目を開けて、再び閉じた。


「そう。当時の狩人たちが残した、ジャバウォック被害の記録を読み直してね……。レイシーが調査されるようになった時代から現在まで、集められてきた灰の分析結果、ひととおりチェックしてるの。似たような被害をもたらすレイシーを探して……対策を練ってるのー……」


 そう言うと、山根はくたっと突っ伏した。


「ジャバウォックは……明るい場所にしか現れない」


「ふうん、レイシーはどちらかというと暗い場所を好むのにか」


 チェシャ猫がおざなりに返す。山根はむにゃむにゃとうわ言のように話した。


「鏡の特性がジャバウォック自身にも反映されてる、みたい。鏡は光の反射で映るものだからなのか……ジャバウォックは暗闇の中に逃げ込むと、そのまま姿を消すの」


「そうやって、コピー元の本物と顔を合わせないように、現れたり消えたりしてんのか」


「そうね……捕まえるのに難儀するわけだわー」


 山根はそう言い残し、腕に顔をうずめて眠ってしまった。

 チェシャ猫はしばし彼女の頭頂部を見ていたが、やがて書類の続きを書きはじめた。

 レイシーの存在が初めて認められたのは、一八六五年である。ジャバウォックが発見された一八七一年よりは、現在の方が灰を採集されており、分析の精度が高まっている。ジャバウォック出現当時よりは、資料が莫大に増えているのだ。


 対策を取りやすくなるのはいいが、今日までに出現したレイシーは、灰を回収できた分だけでも膨大な数になる。傾向を絞って目を通すにしても、恐ろしく時間を食うのは想像に容易い。

 殊に、ポイソンの社員であっても、レイシーの存在を知っているのはひと握りである。殆どがごくありふれた製薬会社の社員であって、レイシーの灰の研究を担っているのは山根を含めた数人の研究員、『山根班』だけである。

 そういう小さな組織が全国各地にあるわけだが、手分けして調べても、限られた人数で行われているには変わりない。

 山根はその数少ない要員として、ジャバウォックの被害が拡大する前にと、遅くまで資料をひっくり返しているのだろう。彼女は、僅かな隙間時間すらも睡眠に充ててしまう。

 チェシャ猫がぽつりと言う。


「この人、結構なブラック企業に勤めてんだな」


「君は今、その会社に雇われようとしてるんだよ」


 カウンターの向こうで、シロが苦笑いした。


「君が来る少し前に、山根さんが話してたんだけどね。先週頭くらいに、イギリスから骨董品の鏡がたくさん輸入されてきてたんだって。ジャバウォックらしき被害が出現したのは、ちょうどそれくらいの時期。今のところ、被害が出てるのは日本だけ」


「ふうん。なんか、関係ありそうだな」


「ね。イギリスで鏡の中に引きこもってたジャバウォックが、日本に来たのをきっかけに目を覚ました……とか? 分からないけど」


 シロはそう言ってから、眠る山根に目をやった。ぼさっと乱れた長い髪に、日の光が反射している。


「ジャバウォックは鏡の中から現れるから、コピー元の本人の左右対称になるらしいけどさ。人格まで正反対になったら、面白いと思わない?」


 シロは自分で言って想像し、楽しそうに続けた。


「米派の人がパン派になったり、運動が得意な人が鈍臭くなったり。いやー、怖いね。物静かな愛莉ちゃんとか、溌剌で常に目が冱えてる山根さんとか。いつでもにこやかチェシャくんとか!」


 後半、からかい半分になったシロに、チェシャ猫はちらと目をやった。


「すげえ明るいシロさんとか?」


 からかわれたお返しに、やり返す。要するに「暗い」と言われたシロは、一瞬顔を強張らせてから、にこっと微笑んだ。


「酷いなー、気にしてるのに」


 日頃よく笑い、明るい言葉選びを心掛けているシロだが、性根はかなり暗い。……というのを、チェシャ猫は知っている。

 チェシャ猫がふいっとそっぽを向く。


「事実じゃねえか。根暗」


「言うようになったね。君こそもっと笑顔を見せたらどう?」


 と、そこで山根が突然、顔を上げた。


「あっ、また寝ちゃった。大変、昼休みが終わっちゃう」


 彼女は、チェシャ猫の手元から書類とペンを回収し、鞄に突っ込んだ。


「それじゃ、会社に戻るわねー。シロちゃん、ご馳走さま。チェシャくんは後日、会社に挨拶に来てね。日はこっちからまた連絡するわー」


 話し方はのんびりしているが、山根はわたわたと焦って支度して、店を出ていった。

 閉まった扉を眺め、チェシャ猫が思い出したように言う。


「米派がパン派になるとしたら、麺派はなにになるんだ」


「……なにが面白いと思う?」


 考えていなかったシロは、逆にチェシャ猫に答えを委ねた。

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