Act.2

ハンプティ・ダンプティ

『和心茶房ありす』の、窓際の席。チェシャ猫お気に入りのこの場所に、今日は将棋盤が置かれている。


「へえ、来週予定してたバイト、丸ごとなくなっちゃったんだ」


 ぱち、と駒を置いたのは、シロの指先である。彼の一手を眺め、数秒後、向かい合っていたチェシャ猫も駒を移動させた。


「前任者が予定より早く戻ってきて、俺を雇う必要がなくなったらしい。おかげで予定が空いてしまった」


「新しいバイト探すの?」


 チェシャ猫が駒を動かした直後、シロはほぼ悩まず次の手を打つ。チェシャ猫はまた、数秒悩んだ。


「そうだな、空き時間は埋めて金にした方がいい」


 そんなふたりの対局を、ウェイトレス姿の愛莉が、カウンター席の椅子から見ていた。


「チェシャくんって、狩人以外の仕事してたんだ」


「狩人だけで生活してると思ってたのかよ。それの賞金は、殆どシロさんへの借金返済で徴収されてるぞ」


 盤面を見ていたチェシャ猫が、ちらりと愛莉に目を向ける。

 シロに莫大な借金があるチェシャ猫は、シロが紹介してくれた狩人の仕事で賞金稼ぎをしている。だがこの仕事は不定期的なものなので、彼は空き時間を埋めるように様々な短期バイトをスケジュールしていた。

 愛莉がむすっとする。


「知らないよー。チェシャくん、自分のことなにも話してくれないんだもん。未だに本名すら知らないってなに?」


 一瞬不服そうにしたあと、愛莉はすぐににへっと笑った。


「でもそれって幸せだよね。知らないことひとつ知るたびに嬉しいから、これからその嬉しさをいっぱい味わえるんだもんね」


「またすごい角度からのポジティブ思考だな」


 駒を動かすチェシャ猫を横目に、シロが愛莉に微笑む。


「チェシャくんは愛想がないから、営業と接客は向かないんだけどさ。それ以外なら結構いろんな職種を渡り歩いてるおかげで、意外といろんな技術があるんだよ。この前なんて、うちの訳分かんなくなった電気の配線、直してくれたの」


「なにそれすごーい!」


 愛莉が褒め称える。チェシャ猫は嬉しそうにするでもなく、難しい顔で将棋盤の駒を見ていた。


「流石に拳銃の取り扱いは、シロさんに拾われてから学んだけど……」


 チェシャ猫が駒から指を離すなり、シロが即座に次の手を差す。


「それもかなり特殊な特技だよね。狩人って、拳銃なりナイフなりの武器を携帯するでしょ。だから狩人として名前を登録するのに警察の許可が必要で、武器の扱いも警察署の敷地で演習するんだよ」


「へえー」


 愛莉が面白そうに感嘆する。

 狩人は、化け物退治というフィクションのようなドラマチックな存在に見えるが、その実態はなかなか現実的である。

 チェシャ猫は盤面としばらく睨めっこしたのち、小さく頭を垂れた。


「参りました」


「おー、またシロちゃんの勝ち。チェシャくん全然勝てないね」


 勝負がついたふたりに、愛莉が手を叩く。毎度ボロ負けするチェシャ猫はまだ盤面を見つめ、毎度圧勝するシロはしたり顔で椅子を立った。


「チェシャくん、仕事を増やすのはいいけど、無理はしないでね。いくら君が強フィジカルといっても、ちゃんと休まないと倒れちゃうよ」


「その辺の加減はできてる。狩人の仕事に支障をきたすような働き方はしてない」


「その言葉、信じるからね」


 カウンターに入ったシロは、さて、と切り替えた。


「愛莉ちゃんのお友達とその彼氏さんが遊びに来てくれるの、たしか来週だったよね」


「うん! 来週木曜日の放課後!」


 愛莉が元気よく返事をした。


「彼氏の遠井くんが部活のない日を選んだんだ。陸上部のエースなんだって。小中高とずーっと陸上ひと筋なの」


「おお、スポーツマン。素敵だね」


 シロがカウンターに腕を置き、姿勢を崩す。愛莉はテーブルに両手をついて、シロを見上げて話した。


「絵里香と遠井くん、まだ付き合いたてでアッツアツだよ」


「わあ、青春だねえ」


「遠井くんは別の学校に通ってるから、あたしも明日、初めて会うんだ」


 それから愛莉は、エプロンのポケットから携帯を取り出した。


「写真は送ってもらってるよ。この人!」


 愛莉が掲げた携帯には、彼女とその友人、絵里香のトークルームが写し出されている。絵里香の方から投稿されている画像を、愛莉はタップして、シロに見せた。

 シロが画面を覗き込む。画面に映るのは、明るい髪を巻いてお下げにした少女と、隣に並ぶ短髪の少年の姿である。

 少年――「遠井くん」は、筋肉質かつさっぱりした風貌の、いかにもスポーツマンらしい少年だった。左の目尻には、ほくろがある。

 その写真を見て、シロは感嘆した。


「へえ、泣きぼくろが印象的だね」


「うんうん。泣きぼくろってなんか色っぽい感じするよね。全体的に爽やかな人だから、ギャップがあるというか」


 愛莉が言うと、シロは、ね、と同意した。


「左目側に泣きぼくろがある人って、周りを引っ張るリーダータイプの人なんだそうだよ」


「そうなの?」


「占いだから、真に受けないでね。右目の方にある人は、場を和ませられる、好かれやすい性格の人なんだって」


「へえ。じゃあ当たってるかも! 絵里香に聞いた話だと、遠井くん、陸上部で次期部長に内定してるんだって。主張が強い性格だから、揉め事も起こすみたいだけど、ちょっと強引なくらいの方がリーダー向きだと思う」


 シロと愛莉のやりとりを耳に入れつつ、チェシャ猫はまだ、腕を組んで並んだ駒を見ている。愛莉が彼の方へ携帯を向ける。


「チェシャくんも見る? 遠井くん!」


「今忙しい。どうしたらシロさんに勝てるか考えてる」


 対局を振り返っているチェシャ猫は、画面をろくに見ようともしない。シロが彼をさらっと窘める。


「いいから早く片付けて」


 それからシロは、カウンターに置いていた腕を上げ、背筋を伸ばした。


「来週くらいに、新作メニューをリリースしようと考えてたんだ。豆乳プリンだよ」


「わあ! 豆乳プリン、食べたい食べたい!」


 愛莉が勢いよく椅子に立ち膝をつく。シロは微笑ましそうに彼女に笑いかけ、それから徐ろに質問を投げかけた。


「君たち、たまご感の強い硬めのプリンと、ミルク感の強いとろとろプリン、どっちが好き?」


 シロの問いに、チェシャ猫が盤面から目を逸らさず答える。


「硬め」


「え! あたし、とろとろの方が好き」


 愛莉がチェシャ猫を振り向き、頭を抱える。


「そんな……いくらチェシャくんと言えどこれは譲れない。シロちゃんのプリンは……譲れない……!」


「いや、俺は別に……どちらかといえば硬い方が好みというだけで、とろとろでも構わない」


 熱くなる愛莉と、まだ盤面を見ているチェシャ猫、ふたりの温度差にシロが苦笑する。


「どっちもあるよー。それぞれの試作品を食べてほしいから、好みが分かれてちょうどよかった」


 そう言ってシロは、冷蔵していたプリンをふたつ、盆に載せて運んできた。愛莉はプリンをきらきらした目で追い、チェシャ猫もそちらを一瞥し、ようやく駒を片付けはじめた。愛莉は椅子を下りて、チェシャ猫の向かいに座る。

 将棋盤が端に寄せられたテーブルに、シロが豆乳プリンを並べる。和柄の陶器のカップに入った、それぞれ質感の違うプリンだ。

 愛莉はすぐに、色の白っぽい柔らかいプリンを手に取った。


「いただきます! ん、ふわふわとろとろでおいしい!」


 早速スプーンを差し込み、愛莉は舌鼓を打つ。


「そういえば、絵里香もプリンは硬め派なんだよ。でね、遠井くんはあたしと同じとろとろ派で、初デート先のデザートでちょっと揉めたんだって。すぐ仲直りしたらしいけど、お互いに好みの硬さは譲ってないの」


「そうなの? なら尚更、二種類作っておいてよかったな。絵里香ちゃんたちがこれを注文してくれたら、それぞれの好みに合わせられる」


 シロが微笑むと、愛莉はプリンを口に運びながら彼を見上げた。


「シロちゃんはどっち派?」


「僕はどっちも好き。そのときの気分かな」


「それあり?」


 冬の日差しが、小さなプリンの器を照らしている。チェシャ猫も、スプーンとプリンに手を伸ばす。ふいにシロが、プリンの黄色を眺めて呟いた。


「たまごといえば、ハンプティダンプティだね」


「ハンプティダンプティ? たまごみたいなキャラクターだよね。英語の教科書に挿し絵が載ってた」


 愛莉が教科書の一頁を思い浮かべていると、シロは頷いた。


「アリスが鏡の国で出会ったハンプティダンプティは、人の顔を見分けるのが苦手なんだそうだ。目があって鼻があって口がある、という特徴が同じである限り、全部同じ顔に見えるんだって」


「なにそれ。興味のないものは全部同じに見えちゃう、みたいな?」


 愛莉は首を傾げ、プリンをひと匙、口に運ぶ。


「プリンの区別はつくのかな? 硬めのと、とろとろのと。どっちが好きなのかな。たまごだから、たまごっぽい硬めプリンが好きなのかな」

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