予感的中

 病院へ出向いた翌日、月曜日の昼休み。愛莉は頭の中でイメージトレーニングを繰り返しながら、隣の教室へ赴いた。


「口きかないと、平行線」


 神社の境内で聞いた、チェシャ猫の言葉を繰り返す。


「言いたいことがあったら言わないと。誤解があるなら解かないと。大丈夫、絵里香をチェシャくんだと思って飛びつけば、逃さない。ちゃんと話せる」


 自分に言い聞かせながら、緊張気味に隣の教室を覗き込む。絵里香の姿は見当たらない。どこか他の場所で昼休憩を取っているのだろうか。

 愛莉は、近くにいた生徒に声をかけて、尋ねた。


「ねえ、絵里香どこにいるか知ってる?」


「蝶島さん? 今日、お休みだよ」


 折角勇気を出して仲直りしに来たのに、絵里香は学校にいなかった。悄気げる愛莉に、親切な生徒が言う。


「先週末も休んでたよ。なんかここのところ情緒不安定だったし、具合悪いんだろうね」


「先週も?」


 土日を挟んでもまだ復活できないほどの体調不良だろうか。教えてくれた生徒にお礼を言って、愛莉は自分の教室に戻った。携帯を取り出し、絵里香にメッセージを送る。


『休んでるって聞いたよ。大丈夫?』


 既読がついたが、数秒待っても反応はない。まだ愛莉を怒っているのだろうか。愛莉はさらに、重ねて書き込んだ。


『放課後、お見舞いに行ってもいい?』


 そわそわしつつ待っていると、ポコッと着信音がして、絵里香の返信が届いた。

 久しぶりの絵里香からの言葉に、愛莉は背筋が伸びた。


『二時から病院。何時に帰れるか、分からない』


 予定が入っているから会えない、という返事である。

 しかし愛莉は、さっと時計を見た。時刻は十二時十五分。すぐさま鞄を肩に引っ掛ける。


『じゃあ今から行くね!』


 明日まで待つという発想は、愛莉にはない。チェシャ猫を捕まえる勢いで行くなら、今を逃しはしない。彼女は午後の授業をサボって、絵里香の自宅へ駆け出した。


 *


「マジで来た……!」


 絵里香の家の玄関。絵里香は愛莉を迎えて開口一番そう言った。

 久しぶりに真正面から見た絵里香は、少し窶れて、目の下に隈ができていた。髪がくしゃくしゃに乱れて肌も荒れている。すっかり弱った彼女を見て、愛莉は胸がいっぱいになった。


「絵里香あー!」


 それこそチェシャ猫を捕まるかのように、絵里香の首に抱きつく。絵里香はぐえっと呻いて、愛莉の背中を叩いた。


「ギブギブ! 離して」


「だって、久しぶりに口きいてくれたんだもん」


 愛莉は手を緩めても、まだ絵里香にくっついていた。胸に顔をうずめると、募らせていた思いを溢れ出てくる。


「ごめんね。あたし、絵里香が変わっちゃったみたいに感じて、悲しかったの。周りの人が変われば絵里香も変わってくのは当たり前だけど、でも、それであたしは要らなくなっちゃったのかなって……」


 絵里香はしばし、言葉を呑んでいた。それから数秒して、愛莉の頭にぽんと手を置く。


「そっちこそ。愛莉の方が、私を嫌いになったんだと思ってたよ」


 絞り出すような声は、少し震えていた。


「『お子様』って言ったとき、愛莉が傷ついてたの、本当は分かってたの。でも愛莉なら忘れてくれるだろうと思って、謝らなかった。傷ついてるの分かってたのに……」


 泣き出しそうな絵里香の声に、愛莉は顔を上げた。


「お子様?」


 なんの話だったかしばらく考えて、数秒してから、思い出す。


「あ、あのときか!」


 絵里香に自分の鏡を見せたときだ。シロからおいしいクッキーを振る舞ってもらい、そのあともいろいろあって、すっかり忘れていた。


「絵里香、そんなの気にしてたの!?」


「愛莉、気にしてなかったの!?」


 それから愛莉は、絵里香の部屋へと案内された。少し話さなかった期間があるだけで、随分と久しぶりに会うように感じる。


「私、愛莉とわらび餅アラモードを食べに行く約束してたの、楽しみにしてたんだ。でも愛莉、あの日、私を待たずに帰っちゃったでしょ」


 部屋のベッドに腰掛けて、絵里香が話す。


「あのあと連絡しても全然反応ないから、私は学校で待ちぼうけ食らってさ。だから、夜になってから電話してきた愛莉に、ムカついたんだよね」


 愛莉は床のクッションに座って、黙って絵里香の話を聞いていた。


「だけど、遅くなりそうだったのに連絡しなかったのは私だったよね。あとになってから、愛莉は怒って帰っちゃうほど、私の『お子様』発言で愛想尽かしてたんだなって思った」


「えっと……」


 黙って聞いていた愛莉だったが、自分の記憶と噛み合わない部分が引っかかって、後半はあまり頭に入ってきていなかった。


「先に帰っちゃったのは、絵里香の方だよね?」


「へ?」


 絵里香が目をぱちくりさせる。愛莉は当日の出来事を、詳細に思い出していた。


「禎輔くんと出かけるって、あたしに連絡せずに帰っちゃったんだよ。たまたま絵里香の背中を見つけて事情を聞けたけど、知らなかったらあたし、そのまま昇降口に放置されてたよ」


 恋人優先で、愛莉は後回し。だから連絡ひとつしない。絵里香はあのとき、そうだったはずだ。

 絵里香はしばし唖然として愛莉を見つめたあと、声にならない声を洩らした。


「まただ……」


 蒼白になる絵里香の顔を眺め、愛莉も神妙な顔になる。絵里香は自身の腕を抱いて、下を向いた。


「このところ、そうなの。知らないうちに、知らないことしてる。その日、私は学校で愛莉を待ってたはずなのに、禎輔は放課後、私と会ったって話してた」


 絵里香の声が、掠れていく。


「遊んだ記憶なんかない。でも愛莉も禎輔も、私が遊んでた証人になってる。私は学校にいたのに、学校にいたと証明できる人はいない」


「なにそれ……そんなまるで、絵里香がふたりいるみたいな」


 どくんと、心臓が跳ねる。

 本人の知らないところで、誰かが自分の姿で、自分の代わりに行動している。

 頭の中に浮かぶのは、「ジャバウォック」の名前。


 絵里香は膝を抱えて、顔をうずめ、涙ながらに話た。

 自分は家にいたのに、母親がコンビニで会っている。買った覚えがないものが部屋に増えている。いつの間にかクラスメイトから嫌われている。それだけに留まらず、覚えのない万引きで補導までされた。


「そういう行動をしてる私を見てる人がたくさんいるから、やってないって言っても、誰も信じてくれない」


 震える絵里香を見上げ、愛莉は言葉をなくしていた。ベッドの脇のサイドテーブルに目をやる。心療内科の名前が書かれた、薬の袋があった。

 記憶にない数々の目撃証言、いつの間にかこじれている人間関係。誰にも信じてもらえない孤独。愛莉には想像を絶するものだった。


「私を信じてくれたのは、禎輔だけだった」


 絵里香が蹲って呻く。


「学校で居場所がなくなって、学校を休んでも、禎輔は会いに来てくれた。私も禎輔の部屋に行った。『絵里香はそんなことする奴じゃない』って、味方してくれた」


 だが、その禎輔も、今は絵里香から離れている。


「気分転換にって、デートへ連れ出してくれたの。その出先の神社で……別れ話を切り出された。私はもう、禎輔が好きになってくれた私じゃないんだって……」


 絵里香は膝を抱いて、顔を上げない。愛莉は、クッションから立ち上がった。そして絵里香の真正面に立ち、絵里香の両肩に手を乗せる。


「あたしは信じるよ!」


「みんな最初はそう言って、結局離れていった」


「みんなはそうでもあたしは違う! あたしは、絵里香を信じる!」


 絵里香らしからぬ行動の正体は、愛莉になら見当がつく。

 そこで、部屋の外から絵里香の母親が扉をノックした。


「絵里香、そろそろ病院の時間」


「あ……行かなきゃ」


 絵里香はようやく、ふらっと顔を上げた。愛莉が手を離すと、絵里香は覚束ない足取りで部屋の扉を開けた。

 愛莉も何度か会っている絵里香の母親が、絵里香の肩を支えつつ、愛莉に会釈する。


「愛莉ちゃん、今日は会いに来てくれてありがとうね。ほら絵里香、ちゃんとお礼して」


 母親の、絵里香に対する子供を扱うような態度に、愛莉はまた胸がずきっとした。親ですら、絵里香がおかしくなってしまったと思っている。

 実際、今の絵里香は重度のストレスで心に傷を負っている。だけれど、問題行動を起こしたのは彼女ではない。

 玄関を出て愛莉は、病院に向かう車に乗り込む絵里香にもう一度呼びかけた。


「あたしは味方だから! 絵里香はなにも悪くないって、あたしは知ってるから!」


 車のドアを閉めかけていた絵里香は、虚ろな顔を上げて数秒固まった。それから、ふっと泣きそうな顔で笑う。


「ここんとこ、ご無沙汰だったくせに」


「それは絵里香のせいでもあるよ」


 愛莉も笑いかける。ドアが閉まって、車が病院へと向かった。愛莉はその足で、『和心茶房ありす』へと駆け出した。

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