首を刎ねよ

『和心茶房ありす』では、チェシャ猫とシロが将棋を指していた。


「なあシロさん。俺の借金はあとどれくらい残ってる?」


「半分以上は返済してくれてるよ」


 パチパチと駒の動く音が、静かな店の中にはやけに響く。チェシャ猫はそうか、と淡々と続けた。


「これから先、巡がいなくなったら、あいつの生活費が必要なくなる。そうなったら、あとは借金返すだけになるからよ」


 徐ろに話し出すチェシャ猫の声に、感傷はない。あくまで、普段どおりだ。


「俺の生活自体は、そんなに金がかからない。だから、借金さえ返し終えたら、狩人っつうやべえ仕事なんぞしなくてもよくなるわけだが……」


 と、途中まで言いかけたときだった。店の扉が勢いよく開き、ふたりの会話を遮断した。飛び込んできたのは、制服姿の愛莉である。

 昨日の今日であるチェシャ猫は、思わず体を強張らせてしかめっ面になった。


「は!? あんた、なにしに……学校はどうしたんだよ」


 一方シロは、驚きながらもほんわかと迎える。


「いらっしゃい愛莉ちゃん。どうしたの?」


 愛莉は体を折り曲げ、膝に手をついて、呼吸を整えた。背後で扉がゆっくり閉じる。


「あたし……ジャバウォック、見つけてた」


 チェシャ猫とシロの目の色が変わる。愛莉は、詰まる息の間で辿々しく訴えた。


「絵里香がジャバウォックに喰われた。いつの間にかすり替わってたの。あたし、気づかなくて……」


 途中まで言って、愛莉は首を横に振った。


「ううん、本当は『もしかしたら』って思った。でも自信がなかったの。あたしがちゃんと、普段の絵里香を見てなかったから。ちゃんと見てたら、絵里香じゃないって分かったはずなのに」


 カタ、と、椅子が床と擦れる音がした。立ち上がったチェシャ猫が、愛莉の方へ歩み寄る。


「なんでそいつがジャバウォックにすり替わってると、確信してる?」


「絵里香本人はやってないことを、絵里香がしてるのを他の人が目撃してる。あたしもそう。絵里香は学校であたしを待ってたのに、あたしは帰ってく絵里香を見た」


 愛莉は普段のようには彼に飛びつけず、顔を見上げるのがやっとだった。チェシャ猫は愛莉の前に立ち、鋭い目つきで彼女を見下ろす。


「本人が嘘を吐いていないという、根拠は?」


「えっと……」


 そう問われると、愛莉は返事に詰まった。たしかに、絵里香が学校にいた証人はいないというし、それ以外の件についても、絵里香本人の行動ではないと証明できる要素がない。

 実は全て、絵里香が自分でしていたことで、その上で記憶が飛んでいるのかもしれない。彼女の母親が思っているように、絵里香自身がおかしくなってしまったのかもしれない。

 そうでないと言い切れる証拠がない。


「でも、でも、ジャバウォックだよ。だって絵里香はそういう子じゃないもん。約束破ったり、万引きしたり、しないもん」


 なんの証拠にもならない、ただの愛莉の所感だ。


「あたし、気づけなかったけど。絵里香が変わっちゃって、禎輔くんのためならあたしとの約束破る人になったんだって、思っちゃったけど。でも今は、絵里香と話したから分かるよ。やっぱり絵里香は、そういう子じゃない」


「それが根拠か」


 もたつく愛莉に、チェシャ猫は容赦のない冷たい声で言う。愛莉はぐっと、奥歯を噛んだ。


「ごめんなさい。絵里香と電話したときにちゃんと話を聞けば、もっと早く分かったのに。あたし、怒って話聞かなくて、喧嘩して、絵里香をひとりにしちゃった。あたしのせいで、絵里香、ぼろぼろになって、学校来れなくなっちゃった……」


 絵里香に約束を反故にされ、愛莉が絵里香のメッセージに気づかなかった、あの日。電話口で感情的になって、お互いの話を擦り合わせていなかった。もしもあの時点で、それぞれの主張が噛み合っていないと気づいていれば、こんなに絵里香を傷つけなくて済んだ。


「友達なのに、絵里香か絵里香じゃないか、見分けられなかった」


「んなこた、どうでもいいんだよ。友達だろうがなんだろうが他人は他人だ。分かんねえことくらいある」


 落ち込む愛莉に、チェシャ猫はあっさりと言った。


「ジャバウォックは今も、そいつの姿してんのか?」


 愛莉の感傷など意に介さない。彼は今、次の被害者が出るのを食い止める方へ、意識を向けている。愛莉はチェシャ猫に、掠れた声で問うた。


「根拠、弱いのに、信じてくれる?」


「僅かにでも可能性があれば、とりあえず調査すんのが狩人だ」


 チェシャ猫が粗雑に返す。それを後ろで聞いていたシロが、にこっと微笑んだ。


「愛莉ちゃんがそう言うなら、それは十中八九ジャバウォックだろうね」


 包み込むような温かな声で、愛莉を労う。


「お手柄だよ、愛莉ちゃん。たしかに今の時点じゃ根拠が弱いから、それっぽいのを見つけてもいきなり殺したりはできない。だけどこれは、尻尾を掴むための重要な手掛かりだ」


 愛莉の中で、スイッチが切り替わった。曲げていた体を伸ばし、力強く頷く。


「うん! あたし、今度こそ絶対捕まえる!」


 ジャバウォックを見逃してしまったミスは、ここから巻き返す。自分の持っている情報を全て、彼らの糧にするのだ。

 チェシャ猫は、愛莉の気概に応じるように尋ねた。


「それで。あんたが最後にジャバウォックを観測したのはいつだ?」


「分かんない。学校で見たのが本物だったのか、ジャバウォックだったのか……」


 廊下ですれ違った絵里香が、どちらだったのか。まともに会話すらしていないから、もはや分からない。


「あっ、先週の中頃見たの、ジャバウォックかも。お店が定休日だった日」


 更衣室に置き忘れた愛莉の鏡を、じっと見ていたあの絵里香は、なんだか違和感があった。


「久しぶりに真正面から見て、『こんな顔だったかな?』って感じたの。今思うと、左右が反転してて見慣れない顔になってたんだ」


 絵里香の顔だけれどどこか違って見えた、あの感覚の正体。思えば、絵里香がわらび餅アラモードの約束を破ったときも、漠然と「顔つきが変わった」と感じていた。


「そういえば絵里香、更衣室に忘れてたあたしの鏡を見てた。手に取ったりはしなかったけど」


「あんた、ジャバウォックを鏡見られてんのか」


 チェシャ猫が警戒する。愛莉はわたわたと首を横に振った。


「蓋、閉じてたから大丈夫だと思う! それにシロちゃんの考えが正しければ、あたしから手渡してなければ、結界があって入り込めないんでしょ?」


 あのときは、自分に返そうとしつつも、気まずくて手を伸ばせないのかと思った。シロが仮説を組み立てる。


「ジャバウォックはその鏡が愛莉ちゃんの私物だと分かっていて、次の寄生先の候補にしていた。でも愛莉ちゃんから手渡されてないから、触れられなかったのかな……」


 あくまで想像だけど、と付け足して、シロが椅子から立ち上がる。愛莉はうん、と項垂れる。


「そうだよ。本物の絵里香なら、あのとき鏡をあたしに渡してくれたはず。絵里香だって、仲直りのチャンスを窺ってたはずだもん」


 絵里香は今日、愛莉のメッセージに応えてくれた。本物だったら、あの場で愛莉を無視したりしない。 


「そうだ、ジャバウォックはレイシーだから、あたしの明るさにビビッてたのかも! きっと、あたしの鏡には触れないんだよ!」


 愛莉が自信満々に両拳を握る。カウンターに入っていくシロを目で追い、チェシャ猫が言う。


「いつ頃から、ジャバウォックにすり替わりだした?」


「二週間ちょっと前!」


 これには愛莉は即答できた。


「絵里香がわらび餅アラモードの約束を破ったの、チェシャくんが怪我してから五日ぶりにお店で会った日だった」


「少なくとも、最初に観測した日はその日なんだな」


「うん。そんでチェシャくんが怪我してお店が臨時休業になってた日の絵里香は、本物だったよ」


 あの時点ですでに偽物が別の場所に現れていたのかもしれないが、あの頃は、絵里香が思い悩んでいる様子はなかった。

 カウンターの中で、シロがメモ用紙を用意する。


「二週間か。その間に、絵里香ちゃんに鏡を手渡した可能性のある人は?」


「クラスの子なら、貸したかもしれない。あ、でも絵里香、というかジャバウォックは問題行動が多くて、クラスで浮いてたみたい。仲良くしてた人、あんまりいないかも」


 二週間の間に、絵里香、否、ジャバウォックと関わった人がいたら、ジャバウォックは新しい鏡に移っているかもしれない。


「本物の絵里香は今、病院にいる。終わったら連絡つくと思うから、鏡を交換しそうな人がいないか聞いてみる」


 実際に鏡を手にするのはジャバウォックだから、本物の絵里香には記憶にないことだ。だが、可能性のある人を絞り込むくらいはできる。

 愛莉は鞄を肩に引っ掛け直し、踵を返した。


「学校に戻る! 絵里香のクラスの人から、なんか知らないか話を聞いてみる」


「気をつけてね。そこにまさに、ジャバウォックが混じってるかもしれないんだから」


 シロが呼びかけるのを背中に受けて、愛莉は店の扉を開けた。外へ出る前に、一度振り返る。


「チェシャくん」


 チェシャ猫を見上げる瞳は、入ってきた当初の泣きそうな色ではない。


「絶対にぶっ殺してね」


 そう言って、愛莉は今度こそ店を出ていった。

 チェシャ猫は閉まった扉を見つめ、黙っていた。一瞬、ぞっと体が強張った。本気で怒れる愛莉を、初めて見た気がする。

 ノートパソコンを立ち上げつつ、シロがチェシャ猫の後ろ姿に言う。


「女王様が『首を刎ねよ』と言うんだ。逆らえないね」


「童話の中のそれは、全部生かして誤魔化されていたってオチじゃなかったか?」


「はは。でも君は処刑人ではなく、チェシャ猫だ。物語どおりにはしないでしょ」


 シロがメモを読み返しながらに話す。


「さて。愛莉ちゃんから聞いた話、役所に連絡しておかないとね。とりあえずメールでいいか」


 チェシャ猫はカウンター席へ歩み寄り、シロに向かい合って座った。


「シロさんの仮説どおり、ジャバウォックが新しい移動先を探してたんだとしたら、もう今は別の鏡に移ってるかもしれねえな」


 愛莉の鏡に移ろうとして、諦めたという仮説だ。シロは、メモの中に記した愛莉の言葉を振り返る。


「うん、絵里香ちゃんはもうぼろぼろみたいだし、すでに喰い尽くされたあとかな」


 かつての被害状況によると、ジャバウォックは被害者を弱らせ、本人が動かなくなって成り代わりにくくなると、別の対象へと移る。学校へ行けなくなった絵里香は、もうジャバウォックに使い捨てられた後だろう。


「絵里香ちゃん、心配だね。傷ついた心のケアは、簡単じゃない。人間関係も壊れてるんだ。これから復帰していくにしても、事情を知らない他人からは白い目で見られる……」


 シロがぽつりと言うと、チェシャ猫はテーブルに肘を乗せ、手指を組んだ。


「でも、あいつがいる」


 あっさりと、そしてどこか確信めいた言い方に、シロは一瞬きょとんとした。

 絵里香には、愛莉がいる。彼女は必ず、絵里香の支えになる。自然にそう思っているチェシャ猫に、シロは頬が綻んだ。にまーっと笑うシロを見上げ、チェシャ猫は眉を寄せる。しかし突っ込めばからかわれそうなので、話を変えた。


「すでに他に移ったなら、あいつの言うとおり、学校内が怪しい。が、まだ移動してない可能性も、なきにしもあらず」


「仮に現在進行系で絵里香ちゃんの姿をしているとしたら、本物の絵里香ちゃんが病欠してるのに、偽物がどこかで元気そうにしてるはず。そんな噂を聞いたらまずチェックだね」


 シロは止めていた手を再度動かし、走り書きのメモをメール本文に清書した。


「また愛莉ちゃんを巻き込んじゃったねえ」


 キーボードの音が、静かな店内に響く。チェシャ猫は組んだ手指に顎を乗せ、目を伏せていた。

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