Act.11

例外中の例外

「ケツ追っかけてた女をシロちゃんに盗られ、女王に振られ、今度は傷心のギャルの分身に逃げられてるんか」


 某大学の研究室。デスクに座って脚を投げ出す羽鳥は、にんまりと笑った。


「女難の相が出てますなー、チェシャ猫」


「蛾の女の件なら緊急事態だったからだし、縁切り神社の件ならレイシーを誘き寄せる芝居だ」


 羽鳥の前に立つチェシャ猫が、不機嫌顔で返す。

 愛莉と仲良しの羽鳥は、諸々の件も含めて、愛莉と連絡を取り合っているらしい。余計な話を余計な表現で弄られ、チェシャ猫はむっすりしていた。

 チェシャ猫の反応に満足し、羽鳥は弾んだ声で言った。


「んで? チェシャ猫が俺ちゃんのお部屋にわざわざ訪ねてくるなんて、珍しいにゃ。恋のアドバイスなら専門外だじぇ?」


「たまたま近くで仕事があったから、ついでに寄っただけだ。あんたもジャバウォック、気にしてたし」


 羽鳥の冗談は無視して、チェシャ猫は羽鳥の座るデスクから椅子を抜いて、そこに腰を下ろす。絵里香の件を共有された羽鳥は、差し迫ってきたジャバウォックにわくわくしていた。


「ねー! ついに来たよ来たよ、キタキタキター」


「折角向こうから近づいてきたからな。ここで逃さず俺が殺す。そんで金にする」


「いい目をしているな、狩人。けどジャバウォックってまだまだ謎だらけじゃんな。迎え撃つには準備が足んなくない?」


 過去のデータを漁っても、取り押さえられなかった記録があるばかり。似たレイシーがいても、条件が異なるので参考にならない。ジャバウォックに関する対策は、今のところ、断片的な情報から考察された仮説だけで論じられている。

 チェシャ猫が脚を組む。


「シロさんの言う、『持ち主が明確な鏡にのみ取り憑く』というのは、結構いい線行ってると思う。実際、一八七一年の例でも、被害に遭ったのは自分の鏡を所有してたような貴族階級が多い」


「そだねー。デザインがカワヨイ鏡が狙われがちだったのも、こだわって持ってる人に集中するから、必然的にそうなった的な」


 羽鳥はデスクに手のひらをついて、天井を仰いだ。


「だとしたらさー、コピー中に持ち主がいなくなったら、どうなるんだろうね?」


 率直な疑問に、チェシャ猫は顔を上げた。上を向いた羽鳥の頭から、重力で帽子が脱げそうになる。


「例えば、持ち主が鏡を不要と判断し所有権を手放した場合。まー、これじゃ弱いか。前の持ち主の姿で行動するだけやろな。そうだな、もっとこう……」


 羽鳥は頭頂部をぽんと右手で押さえ、落ちるのを止めた。


「持ち主の死亡とか」


 あっさりした口調で、羽鳥は言った。チェシャ猫は羽鳥を眺め、黙っていた。


 鏡の持ち主をコピーしたジャバウォックは、持ち主を弱らせたあと、別の鏡へ移動する。持ち主が自殺する場合もあったが、それはすでにジャバウォックが移り去ったあとだ。

 本人が死んでいるのに、生きた姿のジャバウォックがいるのは、ジャバウォックにとっても不都合になる。


 チェシャ猫はやや、目を伏せた。


「かつてジャバウォックが引きこもったのは百五十年以上も前だ。当時の鏡の持ち主なんかとっくに死んでるはず。その当時の鏡に、ジャバウォック百五十年、籠城していた……」


 ひとつの考えがよぎる。ジャバウォックは鏡に逃げ込んでいたのではなく、出られなかったのではないか。鏡が持ち主を失えば、ジャバウォックはそこから出てこられなくなるのでは――。


「だとしたら、ジャバウォックを殺す手段がなくても、動きを拘束する手段にはなりうる……」


「そだね。やってみよか? 狩人が私物の鏡を持ち歩いて、ジャバウォックに敢えて取り憑かれる」


 羽鳥は顔を上に上げたまま、目線だけチェシャ猫に向けた。


「そんでから死ぬ」


 *


 その頃、シロの店には見覚えのある顔が訪れていた。


「マスターのシロさん、ですか」


「はい。いらっしゃいませ」


 入店するなり名前を呼ばれ、シロはにこりと微笑んだ。見覚えのある顔、ではあるが、初対面だ。泣きぼくろは、右の目尻。


「君は……禎輔くんだね。お噂はかねがね」


「え。正解」


 言い当てられた禎輔は、驚いた顔でカウンターに駆け寄る。


「初めて会うのに、俺と辰武を見分けられるのか」


「泣きぼくろの位置が逆だって、辰武くんから聞いてたんだ。改めて、はじめまして。禎輔くん」


 絵里香の元・恋人にして辰武の双子の弟、遠井禎輔。彼は緊張していた頬を綻ばせ、椅子に腰を下ろした。


「すっげー。客の顔を覚えてるだけでもすごいのに、泣きぼくろの位置まで覚えてんだ」


 見た目だけでなく、声も辰武そっくりである。だが辰武よりも、やや快活でテンポのいい話し方をする。

 彼が黒糖コーヒーを注文し、シロが作りはじめる。作業がてら、シロは尋ねた。


「まだ昼過ぎなのに、学校は終わってるの?」


「うちの学校、今テスト期間で授業が午前で終わるんだ。おかげで部活もない」


「そっかそっか。じゃあ、帰ったらお勉強だね」


 白い釉薬の湯のみにコーヒーを注ぎ、シロは禎輔の前にそれを差し出した。湯のみを両手で持って、禎輔がシロを見上げる。


「この店、愛莉ちゃんのバイト先だよな。絵里香と一緒に行こうって約束してたのに、結局行けなかったからさ。ひとりで来ちゃった」


「んー、絵里香ちゃん、体調が優れないそうだね。元気になったら、またふたりでおいでよ」


 シロが言うと、禎輔は自嘲的に俯いた。 


「いや、もう無理。絵里香は辰武に盗られた」


 そこまでは愛莉からも聞いていなかったシロは、身を強張らせた。うっかり無神経なことを言ってしまった。


「ごめん、知らなくって……」


 これはかなり想定外だった。辰武とは直接話したが、実直で大人しい印象で、絵里香と禎輔の関係を応援しているように見えた。その辰武が禎輔から絵里香を奪い、絵里香の方も立つ辰武に乗り換えるなど、想像もしていなかった。

 だがシロは思い直した。絵里香に擬態したジャバウォックが、三人の関係を壊したと考えられる。

 禎輔は、コーヒーの水面に目を落とした。


「謝らないで。マスターとその話をしたくて来たようなもんだから。あれから、絵里香は来てる?」


「ううん」


「そう……」


 静かな店内に、ふたりの会話がしんみりと溶けていく。禎輔は数秒押し黙ってから、改めて口を開いた。


「俺、なんでこうなったのか全然分かんなくって。マスター、絵里香か愛莉ちゃんからなにか聞いてないかなー……なんて思って、来たんだけど……」


「そうなんだね。ごめんね、僕もなにも聞いてないな」


 多分ジャバウォックだ、と、言いたいところだが、それを禎輔に伝えたところで理解されない。

 禎輔が小さくため息をつく。


「前に絵里香のSNS見たら、辰武と神社に出かけててさ。どういうことかと絵里香に連絡したら、『あんなこと言っておいてよく平然と連絡してくるね』って返ってきて、そのまま無視されてる」


「神社?」


「なんだっけ。たしか獅子角神社とかいう、縁結びの神社」


 禎輔の気まずい顔から出たその名前に、一瞬、シロの笑顔が固くなった。禎輔は携帯を取り出し、慣れた手付きで操作して、画面をシロに突きつけた。

 映し出されているのは、鳥居を背景にセルフで撮っている絵里香と辰武の写真だ。ふたりで並ぶ様子は、いかにも親密そうに見える。

 禎輔は携帯を伏せ、コーヒーにティースプーンを突っ込み、くるくるとかき混ぜた。


「浮気にしたって堂々としすぎ。SNSに写真上げたら、俺だって見るのに。俺への当て付けか?」


 ぼやきを垂れ流したあと、禎輔はハッとして、スプーンを止めた。


「ごめんなさい、いきなりこんな愚痴聞いてもらって……」


「いいんだよ。喫茶店というのは、心と体の休憩所だから」


 シロは彼ににこりと微笑みかけた。


「僕の方こそ、絵里香ちゃんとも愛莉ちゃんとも知り合いなのに、なにも聞いてなくてごめんね」


「いや、聞いてなくて当然だった。俺、本人たちから聞けないからって、マスターに甘えてた」


 コーヒーから湯気が立ち上る。上がっては消えていくそれを、禎輔は寂しそうに眺めていた。


「『あんなこと言っておいて』ってことは、俺がなんか言って絵里香を怒らせて、それで絵里香は辰武の方がよくなったのか? でも怒らせた記憶、ないんだよな」


 はあ、と小さなため息が、湯気を僅かに歪める。


「辰武からもよく言われるんだけど、俺、考えるのが苦手で、その場の勢いで行動しちゃうんだよ。だから多分、気づかないうちに絵里香を傷つけたんだよな」


「ふふっ。君、赤点補習を誤魔化すために、辰武くんを替え玉にするような子だもんね」


 シロがいたずらっぽく言い、禎輔に背を向けた。禎輔は顔を赤らめて背筋を伸ばす。


「それは……! 言い訳のしようもねえ」


「ははは! でもさ、そんな君のみっともなさを、笑って許してくれたのが絵里香ちゃんだよ」


 シロのそれを受けて、禎輔がハッとした顔で、息を止める。一旦背を向けていたシロは、厨房の冷蔵庫から小さな陶器の器を取って、戻ってきた。


「はい、これサービス。君はたしか、プリンはとろとろ派だったね」


 黒糖コーヒーの横に置かれたのは、豆乳プリンである。きょとんとする禎輔に、シロはカウンターに腕を置いて、ふんわりと語りかけた。


「それも、絵里香ちゃんしっかり覚えてたよ。僕が言うのは余計なお世話かもしれないけど、もしもまだやり直したい気持ちがあるなら、もう一度しっかり話し合ったらどうかな」


 プリンの表面は、ミルク感の強い甘やかな白っぽい色をしている。


「……と、絵里香ちゃんには、メッセージを無視されちゃうんだっけか。辰武くんとは話した?」


「いや。話したくなくて、避けてる」


「じゃあそこからかな。同じ家に住んでるんだし」


 シロは虚空を仰ぎ、小さく首を傾げた。


「僕はなにも聞いてないからなにも分からないけど、なーんか誤解があるんじゃないかなって気がするんだよね」


「そうかな……」


 禎輔がコーヒーを啜る。ほっと息をつき、目を細める。


「おいしい。コーヒーおいしいし、マスターは優しいし、常連になりそう」


「ありがと。でも僕は優しいんじゃなくて、世話好きなだけ。単なるお節介焼きだよ」


 シロはまたにこりと微笑んで、そっと、カウンターの影で自身の携帯を手に取った。


 *


 学校に戻った愛莉は、隣のクラスを中心に、絵里香の様子を聞いて回った。六限が始まってしまって一旦切り上げたが、授業など頭に入ってこない。

 絵里香はやはり、クラスで浮いた存在になっていた。他の生徒と揉め事を起こしていなくなったかと思うと、戻ってきては出来事を忘れ、なかったことにしてしまったかのように振る舞う。しかし人が変わったというほどでなく、あくまで絵里香らしい性格のまま、他人と亀裂を作っていく。そういった小さな事件が重なって、いつの間にやら居場所を失っていたという。


 放課後、愛莉が携帯を開くと、辰武から連絡が来ていた。絵里香と禎輔のことで、相談があるという。

 ちょうど愛莉も、辰武と話をしたいところだった。学校で居場所をなくしていたという絵里香だが、禎輔とは会っていたと話していた。もしも禎輔が鏡を持っていたとしたら、絵里香に手渡しているかもしれない。


『じゃあ、このあとシロちゃんのお店で!』


 辰武と約束を取り付け、愛莉は昇降口へと向かった。靴を履き替え、校門を飛び出すと、声をかけられた。


「愛莉ちゃん!」


「あれ? 辰武くん」


 校門の脇に、まさにこれから合流しようとしていた少年が立っている。左目の下に、特徴的な泣きぼくろ。何度か会っている愛莉は、辰武と禎輔、どちらが右でどちらが左か、すっかり見慣れて覚えていた。


「お店で会おうって話だったのに、来てくれたの?」


「ちょうど近くにいたから、ついでに迎えに行こうと思って。ここからなら別の喫茶店の方が近いね。そっちに行こうか」


 歩き出す彼に、愛莉もついていく。シロの店で落ち合わずともここで合流できたのだ、愛莉は歩きながら、早速質問した。


「絵里香、いつ頃まで禎輔くんに会いに来てた?」


「どうだったかなあ。邪魔しないように、俺はあんまり関わらないようにしてたから分からないな」


 返事にならない返事が返ってくる。人の多い大通りを抜けて、狭い裏通りへと入っていく。案内される愛莉は、通り慣れない道をキョロキョロと見回した。


「こんなところにお店があるの?」


「ああ、うん。老舗の喫茶店があるんだよ。あんまり人の多いチェーン店だと、こういう話、しにくいからさ。静かなところがいいなと思って」


 道は狭くなり、大通りにはたくさんいた通行人もすっかりいなくなった。建物の影になった薄暗い道に、ふたりぶんの足音だけが響く。建物に切り取られた空を、大きな鳥が飛ぶ。愛莉はそれを見上げて、ふうんと鼻を鳴らした。


「そっか。知る人ぞ知る店ってやつ?」


「そうそう。まあ、ついてきてよ」


 前を歩いていた背中が、顔だけ振り向いた。


「絵里香さんの件で、ひとつ、引っかかってることがある」


「なに?」


「絵里香さん、愛莉ちゃんが見せてくれた鏡がなんとかって、話してたんだよ。なんだか、それがきっかけで愛莉ちゃんと喧嘩しちゃったとかで、気にしてる様子だった」


「え? あたしの鏡?」


 愛莉はポケットの中に手を入れて、コンパクトミラーに触れた。


「『お子様』って言ったの、気にしてたもんなあ。でもそれと禎輔くんと別れたのとは、関係ないと思うけど……」


「いや、そういうことじゃなくって。愛莉ちゃんがそれを更衣室に置き忘れてるのを見つけて……ううん、やっぱ口で言うより実物で説明した方が早い」


 彼は話を途中で切り、立ち止まった。


「愛莉ちゃん、その鏡、見せてくれる?」


 手を差し伸ばされ、愛莉は頷いた。コンパクトミラーをポケットから抜き出す。手のひらサイズの小さな鏡は、体温で少し、温まっていた。


 *


 愛莉が学校を出る、数十分前。

 羽鳥の研究室で、チェシャ猫はデスクの羽鳥を睨んでいた。


「仮説に仮説を上塗りしたみたいな仮説を検証するために、俺に死ねと?」


 狩人が私物の鏡を持ち歩き、ジャバウォックの餌食となり、死ぬ。狩人自身を特攻隊員として使い捨てる作戦である。

 羽鳥はキャキャキャッと甲高い声で笑った。


「怖い?」


「言い出しっぺの法則ってもんがあってな」


「俺ちゃんはただの大学生だもん。狩人じゃないもん。それは俺ちゃんの仕事じゃなーいもーん」


 脚をバタバタさせて大笑いしてから、羽鳥はひゅっと上体を前のめりに倒した。


「でもさでもさ、銀が効かないっぽいんだからさ、特殊な対策考えとかないと、仮にジャバウォック見っけてもなーんもできずに終わっちゃうよ」


 羽鳥がチェシャ猫の腰の辺りに目をやる。コートに隠れたホルスターには、今も拳銃が携えられている。チェシャ猫は組んだ膝に肘をつき、手のひらに顎を乗せた。


「それがまた厄介なんだよな。銀が効かねえならどうしたらいいんだよ」


「ここはひとつ、けしにぐの剣。パキーン!」


 羽鳥が両手で剣を持った素振りをし、空中に一文字を描いた。チェシャ猫が白けた目で見ていると、羽鳥はにぱっと笑って付け加える。


「ジャバウォックはめちゃくちゃな言葉でぐちゃぐちゃにする怪物。一撃で首を落とせる武器が、『真理』なのだ」


「それ、『鏡の国のアリス』のジャバウォックだろ。童話とレイシーは関係ねえぞ」


 チェシャ猫はため息混じりに言い、話の軌道を戻す。


「銀が無効なら、次の候補としては光だけど……」


「んー、ジャバウォックはイレギュラー中のイレギュラーだもんにゃ」


 羽鳥は人差し指を頬に当てて、デスクから垂らした脚をぷらぷらさせた。


「光も効かないそうじゃない?」


「あ? そうか?」


「だって、銀が効かないんだよ? そんじゃ光も多分、同じじゃんか」


 羽鳥が砕けた姿勢で、軽やかに話す。


「鏡は光を反射するやんけ。銀が効かないのと同じ理屈なら、光も跳ね返すんじゃね? 知らんけど。俺ちゃんはそうだと思ってる」


 チェシャ猫は数ヶ月前、山根から聞いた話を思い出した。ジャバウォックは明るい場所にしか現れず、暗闇の中に溶けて、姿を透明にする。ジャバウォックは、光も影も、味方につけるのだ。


 そのとき、チェシャ猫のコートのポケットで、携帯が振動した。取り出してみると、シロからメッセージが来ている。


『ジャバウォック、今は禎輔くんの姿をしてる可能性が高いかも!』


 それを読むなり、チェシャ猫は椅子から立ち上がった。羽鳥が目をぱちくりさせる。


「もう行っちゃうのー?」


「……一応」


 チェシャ猫はそれだけ呟き、研究室をあとにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る