ジャバウォック

『和心茶房ありす』の、扉の鈴が鳴る。新しい客の来訪に顔を上げたシロは、その顔を目にするなり、あっと声を洩らした。釣られて同じ方向を向いた禎輔も、目を丸くする。


「辰武!?」


「えっ、禎輔!」


 入ってきた辰武も、禎輔そっくりな顔で同じ表情になった。


「禎輔、なんでここに」


「なんでもなにも、マスターと話しに来たんだよ」


「俺はここで、愛莉ちゃんと待ち合わせしてて……」


「は!?」


 辰武から愛莉の名前が出た途端、禎輔は椅子から立ち上がった。


「どういうつもりだ! 俺から絵里香を奪っておいて、愛莉ちゃんとも親しくなろうとしてんのか? 最低だな!」


「え、なに? なに言ってるんだ!?」


 急に怒られた辰武が後退りする。そんな彼に、禎輔はずんずん詰め寄った。


「しらばっくれるな。お前は本当に最悪だ。よりにもよって俺と同じ顔で、なんてことしてくれるんだ」


 禎輔の手が、辰武の胸ぐらを掴んだ。辰武はびくっと身を縮めたが、負けじと禎輔の手首を押さえる。


「なにがだよ! お前こそ絵里香さんを散々傷つけて、俺の交友関係に口出しできる立場じゃないだろ!」


 今にも殴り合いになりそうな遠井兄弟に、シロはカウンターの向こうから声を投げた。


「ふたりとも、落ち着いてー」


 シロののんびりとした声に、頭に血が上っていた禎輔も、少し冷静になる。ワイシャツを掴んでいた手を離し、辰武を解放した。先程シロから、辰武と話し合ってみてはどうかと提案されたのを思い出す。辰武本人を前にすると、カッとなってしまって、上手く話せない。

 禎輔はしばし辰武を睨んだあと、背を向けて席に戻った。呆然と立ち尽くす辰武に、シロが微笑みかける。


「いらっしゃい、辰武くん」


 ふたりの揉め事に口を挟みはしない。辰武は目を白黒させつつ、禎輔の隣の椅子を引いた。禎輔と同じ黒糖コーヒーを注文し、ちらりと、横のそっくりな顔を見る。


「で……俺が絵里香さんを、なんだって?」


「まだしらばっくれるつもりかよ。絵里香がSNSに画像上げてるんだよ。誤魔化したって、知ってるからな」


 禎輔が苛立った顔で携帯を操作する。シロにも見せた絵里香の投稿を表示して、テーブルに携帯を置き、辰武の前に滑らせる。覗き込んだ辰武は、唖然とした。


「え、なにこれ? 俺じゃないよ」


「はあ? これを見てもまだ悪足掻きすんのかよ! ここに写ってんだろ、お前が」


「いやでも、こんな神社行ってないし、まして絵里香さんとふたりで出かけたことなんかないぞ。これ、禎輔じゃないの?」


 辰武が本気で驚いている。今度は禎輔がぽかんとした。


「そんなわけ……俺だって行ってないし。よく見ろよ。ほくろが左側だろ」


「そう言われても、本当に知らない。この画像、左右が反転してるんじゃないのか? SNSの写真、そういう投稿多いしさ」


「言い訳にしたって苦しいぞ。これは辰武だ」


「だから、知らないって」


 堂々巡りのやりとりを横目に、シロは冷蔵庫から硬めのプリンを取り出した。ふたりとも、神社へ行っていない。ならば、もうほぼ間違いない。その写真に写っているのは――。


「はい、辰武くん。これ僕からサービス」


 シロは強張る手で、豆乳プリンを辰武の前に差し出した。


 *


 愛莉の携帯に着信があったのは、約十分前。シロからの注意喚起だった。


『ジャバウォック、今は禎輔くんの姿をしてる可能性が高いかも!』


 チェシャ猫に向けたものと同じ内容である。


『今、禎輔くんがお店に来てる。話を聞いた感じ、怪しい。注意して』


 店で接客対応をしながら、急いで送ったのだろう。細かい説明は省いた、要点のみの文章だった。

 愛莉は、絵里香の言葉を思い出した。学校で居場所をなくした絵里香だったが、禎輔は傍にいてくれた。彼の部屋にも行っている。

 その部屋に鏡があれば、絵里香と入れ替わったジャバウォックが侵入していても、おかしくはない。


 禎輔と連絡を取ってみようかと考えた矢先、ちょうどいいタイミングで辰武からコンタクトがあった。シロの店で会い、会話をシロとも共有しようとしていたところ、彼の方が先に愛莉を学校まで迎えに来てくれた。


 というのが、愛莉の思考だった。


 やけに薄暗い、人けのない裏通り。春真っ盛りのはずなのに、ビル風が冷たい。


「愛莉ちゃん、その鏡、見せてくれる?」


 目の前の少年の手に、愛莉は自分の鏡を差し出す。そしてふと、彼の手のひらを見て、気づく。


 手にマメがない。


 心臓がどくんと飛び跳ねた。

 辰武は泣きぼくろが左目の下にあって、手のひらに野球のバットでついたマメがある。初めて辰武と会ったとき、チェシャ猫がそう気づいていた。

 しかし今、目の前にいる少年は、ほくろが左側なのに、手からマメが消えている。


 愛莉の鏡はもう、そのマメのない手に渡ろうとしていた。

 手のひらから目を上げ、愛莉は彼の顔を見上げた。にこっと目を細める笑顔は、辰武のそれそのものに見える。それなのに、背筋がぞくっとあわだった。


 その直後である。突如、ふたりの手の間にあった鏡が、なにかに弾き飛ばされ、回転しながら吹っ飛んだ。フレームが割れて、蓋の中の鏡も砕け散る。日の光を反射した銀色の粒が、眩いばかりに煌めく。


 呆然とする愛莉の耳に、聞き慣れた声が届く。


「っぶねえ……」


 愛莉は、鏡が飛ばされたのと反対の方向へ、顔を向けた。拳銃を構えて立つその青年に、ぱっと目を輝かせる。


「チェシャくん!」


 銃弾に撃ち抜かれた鏡が、アスファルトに砕けている。あの少しで鏡を手にしていたはずだった少年は、しばしそれを睨んだあと、チェシャ猫に向き直る。


「なに、するんですか?」


 鏡を受け取ろうとしていたマメのない手には、銃弾を掠めていた。しかし流血はない。ただ、人差し指と中指の先が、削れたようになくなっているのだ。そしてそれがみるみるうちに伸びて、元の指先へと戻る。

 チェシャ猫が彼をぎろりと睨む。


「てめえを殺しに来た。ジャバウォック」


 シロの連絡を受けたチェシャ猫は、羽鳥の元を引き上げ、愛莉の学校へと向かった。絵里香の様子を調べていた愛莉なら、禎輔とも連絡を取り合うと考えたからだった。

 愛莉はすでに学校からいなくなっていたが、彼女とこの少年が裏通りへと入っていくのを見つけた。

 距離を取って様子を見ているうちに、愛莉が少年に鏡を手渡そうとしたのである。


 チェシャ猫は拳銃を片手に、ふたりに歩み寄った。少年はぴくっと身構え、通りの先へと駆け出す。チェシャ猫も走り出した。彼に飛びつこうとしていた愛莉だったが、身を捩って通路を空ける。


 辰武――ではなく、禎輔を反転させたジャバウォックは、チェシャ猫を振り返り、すぐにまた前を向いた。そして薄暗い通りの中へ溶けるように、姿が透明になっていく。

 その消えかけた背中に手を伸ばし、チェシャ猫は彼のブレザーを引っ掴んだ。


「逃がすか」


 そして自身の方へと引き付けて、左手に握っていた拳銃のグリップを、少年の脳天に叩きつける。

 ゴッという鈍い音に、愛莉は息を呑んだ。


 殴られたジャバウォックがチェシャ猫を睨み、彼の手を振り払った。そして拳でチェシャ猫を殴り返す。チェシャ猫の横っ面に拳が入り、愛莉がひゃっと悲鳴を上げる。


 チェシャ猫は舌打ちだけして、拳銃を捨てた。ジャバウォックが再び拳を握りしめ、チェシャ猫に振りかぶる。だがそれにはチェシャ猫の腕がカウンターを取り、ジャバウォックの顔面にチェシャ猫の拳がめり込んだ。

 チェシャ猫はよろめくジャバウォックの胸ぐらを掴み、彼を建物の壁へと叩きつけ、鳩尾を蹴る。衝撃を全身で受け止めたジャバウォックは、意識を失い、崩れ落ちた。

 見ていた愛莉は、両手で彼を口を押さえて呆然としていた。


 チェシャ猫がはあ、と息をつく。殴られたときに口の中を切ったのだろう、唇の端から血を垂らしている。左手の拳の指の付け根も、血を溢れさせていた。

 彼の視線は、アスファルトに潰れた少年に注がれている。


「シロさん、呼んでくれ」


 声だけ自分に向けられ、愛莉はこくっと頷く。


「うん」


 シロの携帯ではなく、店に電話をかける。様々な感情で、手が震えた。

 ジャバウォックに鏡を渡しかけてしまった恐怖、それを阻止したチェシャ猫。友人、否、それを模した別物であるが、見慣れた顔が殴られる様子を見せられ、そしてそれがチェシャ猫をも怪我をさせた。

 ほんの数分だったが、愛莉は受け止めきれないほどの情報量を一気に浴びた気がした。


『はい、和心茶房ありすです』


 シロのまったりとした和やかな声が、電話に応じた。目の当たりにした全てに昂ぶっていた愛莉は、声が震えた。


「し、シロちゃん。シロちゃん、助けて。チェシャくんが……」


『愛莉ちゃん? どうしたの?』


 シロの声色に、緊張の色が差す。愛莉は、感情に任せて訴えた。


「シロちゃん! チェシャくんが超かっこいい!」


 真っ先にそこから入った愛莉に、ジャバウォックを睨んでいたチェシャ猫が振り向く。愛莉は頬を染めて、堰を切ったように語った。


「助けて、あまりにもかっこいい。身体能力高いのは知ってたけど、喧嘩も強いのね。それでね、それでね」


『なに、チェシャくんが喧嘩?』


 妙に冷静に返すシロに、愛莉はまだわなわなしていた。チェシャ猫に睨まれて、ハッとして要件を伝える。


「そうなの。あのね、シロちゃんに来てほしいの。場所はね……」


 ジャバウォックは顔に痣を浮かべて眠っている。チェシャ猫はその死んだような顔を、無言で眺めていた。


 *


 それから数分後、彼らの元にシロが駆けつけてきた。


「チェシャく……え!?」


 まだ目を覚まさずに伸びている、その少年の姿に、シロはぎょっとした。


「禎……じゃなくて、辰……でもなくて、あれ、もしかして」


「ジャバウォック。これ、どうする」


 しゃがんでいるチェシャ猫が、シロを見上げる。シロは愛莉とチェシャ猫、それからジャバウォックを見比べ、困惑した顔でチェシャ猫に尋ねた。


「殴ったの?」


「銀は効かねえけど、物理で殴ると生身の人間同様にダメージがあるみたいだな」


 チェシャ猫の袖には血が滲んでいる。シロは慎重に、彼の隣にしゃがんだ。気を失ったジャバウォックは、顔に痣を浮かべている。流血はない。銃で撃ち抜かれたはずの指は、きれいに戻っている。怪我の仕方があべこべで、彼が人間でないのが窺える。

 愛莉が興奮気味に騒ぐ。


「ジャバウォックが逃げようとして、姿が消えそうになったんだけどね、チェシャ猫がひっ捕まえて殴って、そのまま殴り合いになったの!」


「なんでそんなことしたの」


 レイシーと殴り合いになるという発想自体なかったシロは、驚くのを越えて半ば呆れていた。チェシャ猫はばつが悪そうに下を向く。


「ジャバウォックは、光も効かねえらしい」


「うん」


「だから、そこのクソガキがレイシーに嫌われるほど明るくても、ジャバウォックにとっては関係ない」


 チェシャ猫のそれを聞きながら、シロはアスファルトに散っている鏡に気づいた。蓋の模様に見覚えがある。愛莉が携えていた、コンパクトミラーだ。愛莉はキャッキャと喜んでいるが、どうも彼女も危険な目に遭ったようだ、とシロは察した。

 チェシャ猫自身も話していたが、彼は不安になるとキレるタイプで、キレると他者を攻撃するタイプである。愛莉がジャバウォックに襲われかけて、気が気でなかったのだろう。と、シロはそこまで考えた。


「言いたいことはいろいろあるけど、それはあとにしよう。まずはこのジャバウォックをどうするかだね」


「気絶してるだけで、灰にはなってねえからな。どうやって始末すればいいんだ」


 チェシャ猫が眉を寄せ、ジャバウォックの顔を睨む。早く次の行動を決めないと、ジャバウォックが目を覚ます。下手に人が通りかかってもやりづらい。


「銀を使わない手段でなら、人間同様に殺せるのか?」


「どうなんだろう。そもそも殴って気を失わせたケース自体、前代未聞。ひとまず役所とポイソンに連絡をし……」


 と、そのときだ。


「こっち行った?」


「多分。おーい、シロさーん」


 それは、本物の辰武と禎輔の声だった。急に店を閉めて飛び出したシロを、追いかけてきたのだ。シロがびくっと身じろぎする。


「わっ、まずい。本人たちにこれを見られたら、ややこしくなる」


 しかし上手く隠すより先に、辰武と禎輔は、そこへ到着してしまった。彼らは集まっているチェシャ猫とシロと愛莉を見回してから、アスファルトに寝そべる自分のような「なにか」に目を留めた。


「えっ? 辰武? いや……俺?」


「禎輔……ううん、俺?」


 双子が同時に、同じような反応をする。

 と、その瞬間、チェシャ猫の視界の端で、伸びていた足がするっと黒く染まった。


「あ?」


 チェシャ猫がジャバウォックを振り向く。ジャバウォックは体の末端からじわじわと黒ずんでいき、やがて全身が真っ黒になり、人型の灰の山へと変貌した。

 チェシャ猫の脳裏に、羽鳥の言葉が蘇る。


 ジャバウォックはめちゃくちゃな言葉でぐちゃぐちゃにする怪物。一撃で首を落とせる武器が、『真理』――。


 ジャバウォックは、実在するコピー元の人間の前には、決して現れない。それは同時に存在してしまうという矛盾を誤魔化すための手段のように思えていた。しかしもしかしたら、本物を避けた理由は、それだけではなかったのかもしれない。

 虚像であるジャバウォックの最大の弱点は、“本物”だったのでは……。


「えっ、俺たち……三人目がいたのか?」


「なに言ってんだ、辰武。俺たちはずっと双子だっただろ」


「しかも……死んでる? 真っ黒だぞ」


 辰武と禎輔は、訳も分からず青い顔をしている。そんなふたりに、愛莉が歩み寄った。


「ふたりとも、ぜーんぶ忘れて!」


 明るい笑顔で言う愛莉に、双子はより一層、唖然としていた。

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