本日の抹茶ラテ
『和心茶房ありす』のテーブル席に、午後の光が差している。書き物をしていたチェシャ猫は、ふと手を止めて、窓の向こうの春の街並みを眺めはじめた。
白く煙ったような明るい景色の中に、人が行き交い、花が咲き、ツバメが巣材を運ぶ。この平和な景色の中にも、一見気が付かないだけで、常になにかが潜んでいる……そんな日常が、そこにある。
「あったかいね。ぼーっとしちゃうよね」
カチャ、と、茶托と湯のみの当たる音がした。シロが和紅茶をテーブルに置いている。
「怪我の状況報告書、書けた?」
「まだ。これ提出すれば、手当金が出るんだよな」
チェシャ猫は頬に湿布、手には包帯を巻いている。ジャバウォックとの肉弾戦で負った傷は、まだ治りかけであった。シロは彼の少し腫れた頬を眺めた。
「そうだよ。今回は休業にはならないし、額は微々たるものだろうけど。負傷したんだから、少しでもお金貰わないと割に合わないよね」
ジャバウォック騒動自体は、一・五世紀越しについにピリオドが打たれた。役所に灰を提出し、その解析も終わった。あとはついでに、チェシャ猫の怪我を役所へ報告するだけである。
一八七一年、ジャバウォックは、ある鏡の中に籠城した。その鏡は現地イギリスの狩人によって厳重に保管されていたが、百五十年以上経ってからなんらかの間違いが起き、骨董品として日本に輸出されてしまった。鏡を購入した日本人が新たに鏡の主になり、ジャバウォックは再び、動き出した。
それが、ポイソンによる見解である。
ジャバウォックは、本物に姿を見られてはいけない。ドッペルゲンガーの逆だ。本物に見られると、ジャバウォックの方が死ぬのだ。
だからこれまでも、本人のいる場所には現れず、会ってしまう前に暗闇の中に溶けて逃げていた。常に器用に周囲を誘導し、本人に会わないように、逃げ続けていた。
しかし気を失っていては、どうにもできない。本物の禎輔に姿を見られたジャバウォックは、灰となって消し飛んだのである。
シロは壁に凭れて、目を瞑る。
「レイシーを気絶させる方法で、まさかの解決に至ったわけだけど……ボコボコに殴るなんて、思いつかなかったな」
「銀が効かねえなら、それしかねえだろ」
「それしかってことはないと思う」
シロが苦笑する。チェシャ猫は決まり悪そうにシロを一瞥し、書類に目を戻した。
「ジャバウォックへの効果的な攻撃方法は分からなかったけど、羽鳥と相談してはいた。ジャバウォックにコピーされた鏡の持ち主が、死んだらどうなるか。とか」
「うん」
「取り憑かせて、持ち主が死ねば、ジャバウォックは鏡から出てこられなくなる。完全に殺せないけど、封印にはなる」
羽鳥とそんな話をして、チェシャ猫も一瞬は、そんな方法もあるのか、と思った。シロはふうんと鼻を鳴らす。
「だからって君が死ぬわけにはいかないしねえ」
「当たり前だ。たかがレイシーごときのために、巡を残して死ねるかよ」
チェシャ猫は和紅茶をひと口飲んで、ペンの先を書類に当てた。
「かといって他の人間も犠牲にできねえし、だったらもう殴るしかない」
「しかないってことは……まあ、結論としてそれで合ってたんだから、いっか」
シロはそれ以上突っ込まず、そっとしておいた。そして今しがた出た名前で、途中になっていた話題を思い出す。
「そういえばチェシャくん、この前、僕になにか言いかけたよね。狩人の仕事を続ける云々って」
愛莉乱入で途切れた件だ。チェシャ猫はつけたペンをまた浮かせる。
「あ? ああ。巡がいなかったら、俺がこんなクソみてえな仕事する必要ないっつう話か」
「うん。やめちゃうの?」
シロが直球に聞く。チェシャ猫は、書類に目を落とした。
「いや? 必要がないと言っただけで、続けたいと思ってる。あんたと違って、俺はこの仕事に向いてるから」
さらさらと文字を刻みはじめ、彼は問うた。
「続けてもいいか、あんたに聞こうとしてた。どうだ?」
シロは数秒、言葉を呑んだ。
チェシャ猫は、シロが思う以上に強気だ。妹の最期を見届ける覚悟を決めていて、その先まで思い描いている。
そして同時に、シロが思う以上に、脆い。
「もちろんだよ。君以上に適性のある人、見たことないもん」
覚悟があるからといって、平気なわけではない。その瞬間を迎えたとき、自分や愛莉が寄り添うことで、少しでも彼が前を向けるのなら。
「僕にとっても、君は必要なんだよ。便利だからね」
「そうかよ。じゃ、金を返し終えたら、上下関係が逆転するな」
「わあ。かわいげないなあ」
そこへ扉の鈴が、リンリンと揺れた。
「シロちゃん、こんにちはー! あっ、チェシャくん、いらっしゃいませ!」
学校の制服姿の愛莉である。バイトのシフトの時間が近づいてきて、学校から直行してきたのだ。
鬱陶しそうに眉を顰めるチェシャ猫に、愛莉は飛びついていく。
「なに書いてるの? ジャバウォックの書類? もう出したんじゃなかったっけ」
「うっせーな、あんたには関係ない。寄ってくんな」
あしらわれても、愛莉は全くめげずにチェシャ猫の前の椅子を引いた。
「あたし、ジャバウォックを辰武くんだと思ってたの。でもあれ、禎輔くんの姿を写してたんだよね」
チェシャ猫と向かい合って座って、数日前を思い起こす。
「あたしが『辰武くん』って呼んだから、辰武くんとして振る舞ってたのかな」
ジャバウォックは、人間の真似事が上手いレイシーである。人をコピーしてその人として立ち回るから、当然の能力だ。
それ故か、禎輔の姿を写しておきながら、辰武らしく話すこともできる。自分を辰武だと判別した愛莉に対しては、辰武として会話をしていた。
「あれ。でも神社の写真のジャバウォックは、禎輔くんの反転だったのに、一緒にいた絵里香は禎輔くんだと認識してたんだよね。ほくろが逆なのに、気づかなかったんだ」
辰武と禎輔が入れ替わったとき、「次は一発で見抜いてやる」と豪語していたのにだ。愛莉は正面のチェシャ猫をじっと見つめた。
「絵里香はきっと、見た目じゃなくて立ち振る舞いで、どっちがどっちか見分けてたんだろうな」
禎輔として接してくるジャバウォックは、たとえ顔が辰武でも、絵里香には禎輔に見えたのだ。
「あたしと会ったときのジャバウォックは、禎輔くんの姿を模して辰武くんのふりをしてたんだよね。そんなこんがらがってるときに決着が着いたの、面白いね」
「面白くねえわ。あんた、俺に言うことあんだろ」
チェシャ猫がむすっとして愛莉を睨むと、愛莉は目をぱちぱちさせた。
「ん? なんだろ。次に会うときは、学校の制服じゃなくてデート服で会いたいな、とか?」
「それはどうでもいい」
「なに着ててもかわいい? ありがと」
「どうしてそうポジティブに解釈する。そうじゃなくて、化け物に平然と鏡を渡そうとした迂闊さを謝れと言ってるんだ」
チェシャ猫が牙を覗かせると、愛莉は両手で自身の頬を押さえて身じろぎした。
「そう、それ! あたしが鏡を渡すの阻止するために、まさか鏡を銃で撃ち抜いてくるなんて! あたしのハートも撃ち抜かれまくって、もう蜂の巣だよ!」
「いや、反省しろ」
そんなふたりのやりとりを横目に、シロは口を挟もうとしてやめ、カウンターに戻った。
チェシャ猫にも、反省してもらいたいところはある。まさに愛莉が言ったとおり、愛莉の手から鏡を奪うのに、銃を使った点だ。
上手に鏡だけ撃てたからよかったものの、少しでも的が外れたら、危うく愛莉を怪我させるところだったのだ。武器を取る前に、まず声をかけるべきである。
とはいえ声をかけたところで、振り向きながら渡してしまえば、もう遅い。鏡を撃って弾き飛ばすという強硬手段は、咄嗟の判断だったのだろうが、結果的に愛莉を守った。
本来ならば厳しく叱らなくてはいけないような危険な行為だが、チェシャ猫も分かっているだろうので、今回は小言程度で許している。
愛莉はうっとりとチェシャ猫を見つめた。
「チェシャくん、あたしがジャバウォックに喰われちゃうの、そんなに嫌だったんだね」
「当然だろ。一般人であるあんたがジャバウォックを調査しようとして巻き込まれたなんて言ったら、狩人である俺とシロさんに処分が下る。他の人間が勝手に喰われるのとは訳が違う」
あくまで保身である、と強調し、チェシャ猫は和紅茶をひと口飲んだ。
「それに、ジャバウォックは人の精神を病ませるレイシーだ。あんたが喰われたら、唯一の取り柄の明るさを失う」
他のレイシーなら愛莉の明るさを嫌うが、ジャバウォックならそれが効かない。たとえ愛莉であろうと、彼女の精神の喰い尽くす。
愛莉はきゅんっと高鳴る胸を押さえた。
「チェシャくん、やっぱりあたしを心配して……」
「あんたの明るさはシロさんにとっても役に立つんだから、そう簡単になくされたらこっちが迷惑すんだよ」
「怒ってる。かわいい」
全然反省の色がない。ときめいている愛莉にチェシャ猫はため息をつき、静かに眺めていたシロも、ようやく窘めた。
「愛莉ちゃんね、頑張ってくれるのもチェシャくんをかわいがってくれるのも嬉しいんだけど、危ないことするのは本当にだめだよ。この約束を守れないと、僕ら、君と距離を置かなくちゃいけなくなる」
「え、それはやだ! いい子にするから一緒にいさせて!」
愛莉がやっと、叱られているのを理解した。シロがカウンターの内側で、抹茶を立てる。
「禎輔くんと辰武くんは、その後、どう?」
「うん、双子なのに三人目がいたのにはびっくりしてたけど、おかげでお互いの誤解も解けたみたい」
愛莉はテーブルに頬杖をついて、シロに答えた。
「絵里香の写真に写ってたのは、禎輔くんでも辰武くんでもなくて、ジャバウォックだったんだもんね。そんで絵里香に別れを切り出したのもジャバウォック。しっちゃかめっちゃかになっちゃうよね」
双子と絵里香の関係を引っ掻き回していた、ジャバウォックという存在。誤解は解けたものの、当然、双子は困惑していた。謎の三人目を追い詰めていたチェシャ猫やシロの正体にも疑問を抱いているが、彼らがなにをしたのかまでは分からない。結局、ふたりは愛莉の「ぜーんぶ忘れて」という言葉のとおり、忘れたふりをして過ごしている。
「絵里香にも、禎輔くんから謝って復縁したみたいだよ。禎輔くんは本当はなにも悪くないんだから謝らなくてもいいと思うけど……でも、絵里香からしたら、傷ついてるときに追い打ちみたいに振られたんだもんね」
絵里香と禎輔が破局する前、絵里香は彼の部屋に遊びに来ていた。絵里香の姿を模したジャバウォックもそこに現れ、彼の部屋にあった鏡に触れた。そして、絵里香の姿を捨て、禎輔にすり替わった。
禎輔に変わったジャバウォックは、絵里香と禎輔の関係を壊し、それから辰武と禎輔の関係も壊した。絵里香との仲を心配する辰武につっけんどんな態度を取り、ろくに話もせずに逃げ出したのだ。
シロは抹茶にミルクを注いだ。
「絵里香ちゃん、早く元気になるといいね」
「うん、禎輔くんがいるし、辰武くんも味方だし、あたしもいるから」
愛莉がえへっと笑うと、チェシャ猫が書類にペンをつけつつ、呟いた。
「そういうところでも役に立つんだから、あんたはそのクソ明るい性格、喰われてんじゃねえぞ」
「うん。助けてくれて、ありがと」
もしも愛莉までジャバウォックを蝕まれていたら、絵里香を救える手がひとつ、失われるところだった。
シロは抹茶ラテを盆に載せ、ふたりのテーブルへと歩み寄った。
「はい、愛莉ちゃん。今日はサービス」
「わーい! ありがと!」
大好きな抹茶ラテを振る舞われ、愛莉は目を輝かせた。早速口に含むと、熱すぎないちょうどいい温度が、ふんわりと舌に広がる。包まれるような優しい甘さに、胸がほっとした。
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