女王様の仰せのままに
それから数週間後。不定期営業の『和心茶房ありす』は、休業日だった。だが、「CLOSE」の札がかかった扉は、実は鍵が開いている。
店の中にはシロと愛莉がいた。シロはカウンターで静かに抹茶ラテを作り、愛莉はそわそわと、扉の前を行ったり来たりしている。
「まだかなあ。そろそろかなあ」
「必ず来るから、のんびり待とう」
抹茶ラテの甘い香りが店内を漂う。愛莉はふと、思い出したようにシロを振り向いた。
「ねえシロちゃん。あたしずっと気になってたんだけどね」
「ん?」
「前に、チェシャくんがシロちゃんのところへ寄り付かなくなったって話してたでしょ。あれ、なんでかなって」
最初は深月と話したとおり、勉強漬けの日々から逃げ出してリフレッシュしようとしたのだと思った。だが、本人たちの様子を見ていると、どうも違う。
愛莉はてくてく歩み寄ってくると、シロの正面の席に腰を下ろした。
「シロちゃんは、『僕がチェシャくんを構いすぎた』って言ってたよね。そんでチェシャくんは、『甘やかされるのは慣れない』って言ってたの」
「へえ」
シロが相槌を打つ。愛莉は、カウンターの向こうの彼を、じっと見つめた。
「それであたし、もしかしてシロちゃんが優しすぎて、チェシャくんには受け止めきれなかったのかな、って思ったんだ。だってチェシャくん、あたしが『好き』って言ってるのすら迷惑がるんだよ。愛されると警戒する、難儀な生き物なのかなって」
シロに甘やかされるたびに、チェシャ猫は少し拒む。怪我をしてシロの世話になっていたあと、解放されて清々しているように見えた。思えばチェシャ猫が弁当を忘れていけば、シロが「迷惑だったのか」と不安になるほどだ。チェシャ猫は、シロのもてなしを拒絶しているのだろうか。
シロは楽しそうに笑って、愛莉の前に、できたての抹茶ラテを置いた。
「あはは。あながち間違ってないかもね」
ほかほかと立ち上る湯気が、愛莉の鼻先を擽る。シロはカウンターに、組んだ腕を乗せた。
「当時のチェシャくんは、事故で人生がひっくり返ったばかりで、焦燥してた。お金が必要で働き詰めでヘトヘトなくせに、節約してるからろくに食べてない。そんな彼だからこそ、僕は手助けをしたかった」
「うん」
愛莉は差し出された抹茶ラテを、ひと口飲んだ。甘くてほろ苦くて、優しい味がする。シロは彼女を見つめ、語った。
「だから勉強を理由に、家に呼んだ。食欲ないかもしれないとは思ったけど、ちゃんと食べてほしくて、たくさん料理を作った。そしたらね」
そこで一旦、シロは言葉を止めた。懐かしそうに目を瞑り、当時を回想する。
「こっちの予想の三倍食べた」
「え?」
愛莉が耳を疑った、そのときだ。僅かな物音に、彼女の背筋がぴんと伸びる。
「来た!」
愛莉は抹茶ラテを置いて、扉の方へと駆け出した。同時に、店の扉が開く。鈴は鳴らない。代わりに、愛莉の大声が出迎えた。
「巡ちゃーん!」
「うるっせえな! 声がでかい!」
チェシャ猫が言い返す声と共に、トタ、と小さな足音がする。
そこには、チェシャ猫に支えられて立っている、巡の姿があった。彼女は手に白杖を握り、ぺこりと会釈する。
「こんにちは、愛莉お姉ちゃん、シロさん」
そんな巡に、愛莉はすぐさま駆け寄り、杖を持った手に自分の手を重ねた。
「巡ちゃん、巡ちゃん」
巡が一歩前に踏み出す。愛莉は両腕を広げて巡を受け止め、抱きしめた。
「巡ちゃーん! 元気になってよかったあ!」
「えへへ。ありがとう」
はにかむ巡に、シロもカウンターから出てきて、挨拶した。
「ようこそ巡ちゃん。戻ってきてくれて、ありがとう」
「シロさん、ご心配をおかけしました!」
巡が愛莉越しに手を伸ばし、指先までぴんとさせる。シロはその手を握り、自分の位置を巡に伝えた。
「いいんだよ。君が元気でいてくれれば、それだけでいい」
数日に渡って意識を失っていた巡は、そのまま植物状態になっていくだろうと、医者からチェシャ猫に伝えられていた。
しかしある日、奇跡的に目を覚ました。体の麻痺と長く眠っていた反動で、しばらくは意識があっても体が動かなかったが、その後順調に回復。病院でリハビリ生活数日を経て、今日、ついに外出の許可が下りたのだ。
巡を抱きしめていた愛莉は、だんだんぐすっと鼻を鳴らしはじめ、やがて巡の肩に顔をうずめて泣き出した。
「うえええ! 巡ぢゃん! よがっだ、ほんとによがっだあ」
「泣き方汚えな」
チェシャ猫が白けた目で愛莉を一瞥し、巡の背中から手を離す。近くのカウンター席の椅子を引くと、やれやれと腰を下ろした。シロも、巡から離れてチェシャ猫の隣へ歩み寄る。チェシャ猫は無表情でカウンターに頬杖をつき、シロはにこにこと微笑みながら、少女たちを様子を遠巻きに眺める。
愛莉が巡の髪を撫でる。
「あのね、あたしね。巡ちゃん絶対帰ってきてくれるって、信じてたんだよ」
「愛莉お姉ちゃん、ありがと。私、これからもまた、おんなじように迷惑かけちゃうかもしれないけど……」
巡がおずおずと言うと、愛莉はようやく、彼女から顔を離した。巡の腕を両手で支えて、真正面から向き合う。
「いいの、何回倒れても、そのたびに戻ってきてくれれば、迷惑なんて思わない。シロちゃんも、お兄ちゃんも……」
そしてまた、巡をぎゅうっと抱き寄せる。
「でもなるべく倒れないでー! そのたびに心配になっちゃうから! チェシャくんとか、見るからに凹んじゃうからあ!」
一旦落ち着いたのに、愛莉がまた涙を溢れさせる。チェシャ猫が脚を組み直して舌打ちする。彼を見下ろしていたシロはにんまり笑い、それからチェシャ猫の頭をくしゃくしゃと撫でた。チェシャ猫が不愉快そうにシロを睨む。
「なにすんだよ」
「いやあ、よかったねえ、と思って」
「はなから死なすつもりねえし」
ぷいっとそっぽを向くチェシャ猫に、シロは苦笑した。本当のところ覚悟を決めていたくせに、結果がこうなったら随分強気になるものだ。
シロはこちらを見ないチェシャ猫の後頭部を、上から見下ろしていた。
「もしかして、愛莉ちゃんが会いに行ってくれたからかな? 愛莉ちゃんが、巡ちゃんに元気を分けてくれたのかも」
一瞬、チェシャ猫の脳裏に愛莉の言葉がよぎる。
『大丈夫、あたしがこの有り余る元気を巡ちゃんに分けてあげたから』
だがすぐに、まさか、と考え直す。
「なわけねえだろ。巡が強えだけだ」
いくら愛莉がレイシーに強く、落ち込んでいる人を引っ張り上げるのが上手いからといって、巡を復活させるほどの力があるはずない。恐らく、ない、はずである。
シロがそうだ、と切り出す。
「チェシャくん、今日のお夕飯、決まってる?」
「まだなにも」
「そんじゃ、うちにおいでよ。昨日、肉じゃが作りすぎちゃった。病院の許可が下りたら、巡ちゃんも一緒にさ」
「あんた、わざと作りすぎてるだろ。量の調節ができないほど不器用じゃないの、分かってるからな」
チェシャ猫が呆れ目を向けると、シロはにこっと笑って誤魔化した。
「いいじゃないか。巡ちゃん連れ出しても大丈夫か、病院に確認取っておいてね。OKが出たらケーキも作っちゃうよ」
「またそうやって甘やかす。世話好きなのは分かるけど、なんつーか……」
彼は数秒の葛藤ののち、項垂れた。
「あんたの料理は度を越して美味い上に度を越して量があるから、与えられるままに食ってると危険なんだよなあ……」
「……えっ?」
途端に、愛莉がチェシャ猫の方を振り向いた。俯くチェシャ猫をシロがからかう光景が目に入る。
「だって僕、いっぱい食べる人好きなんだもん。ついつい食べさせたくなっちゃう」
それを受けて、巡も反応する。
「お兄ちゃん、あったらあっただけ食べるもんね」
「シロさんにされるがままになると、飼い殺される」
チェシャ猫が付け足す。愛莉は数秒ぽかんとしたのち、巡の手を取って彼らの方へ歩み寄った。
「じゃあ、会ったばかりの頃、シロちゃんから離れたっていうのは……」
「やたらと豪華な食事に加え、勉強をしていれば休憩用の菓子、夜食が出て、さらにひとつ覚えるたびにご褒美が出るんだぞ? 離れて運動しないと、要らん肉がつくだろ」
チェシャ猫がしれっと返す。シロは反省しているようなしていないような、曖昧な口調で言った。
「僕ら、噛み合いすぎちゃってだめなんだよね。チェシャくんの身体能力を鈍らせるわけにはいかないから、今の体型を保ってほしいんだけど……分かってるんだけど、やめられなくって。つい、ごはん作りすぎちゃう」
「っとに……怪我してろくに動けねえときでも、ここぞとばかりに食わせやがって」
「君、危機感で仕事への復帰を焦ってたもんね。それが面白いからまたつい、作りすぎてしまう」
もてなしたいシロと、食べてしまうチェシャ猫。体型を崩したくないチェシャ猫と、彼のペースを乱す楽しみを覚えたシロ。
これは、食を巡る攻防戦だ。
「そういえば……チェシャくんの気持ち、分かるかも。お弁当分けてもらったとき、おいしくて歯止めがかからなかった」
愛莉はほっとしたやらきゅんとしたやらで、胸が苦しくなった。
「チェシャくんがぷにぷにになったら、あたし、永遠に揉んでしまう」
ふにゃっと笑う愛莉をひと睨みし、チェシャ猫は誓った。
「絶対に今の体型を維持する。絶対に」
「でも今夜は肉じゃがです。君の好きな味付けです」
シロが悪魔のように囁く。今晩もおいしい攻防戦が繰り広げられるらしい。
「いいなー、あたしもご相伴にあずかりたい。肉じゃが食べたい」
「やめとけ」
チェシャ猫は短く拒否してから、巡に言った。
「巡、リハビリが終わって退院したら、前まで住んでたような施設での生活に戻る。けど同じ施設じゃなくてもいい。この機会に別のところも考えるか?」
「えっ!」
巡の上ずった声には、ほのかに焦りが滲んでいた。チェシャ猫とシロはきょとんとしているが、愛莉だけは、その気持ちを察した。
「前と一緒のところがいいよね!」
「うん!」
巡もこくこく頷く。チェシャ猫は目をぱちくりさせ、納得した。
「そりゃそうか。そっちの方が慣れてるもんな」
「そうだよ! それに巡ちゃんの好きな男の子だっているんだから」
愛莉が言い放った直後、巡は愛莉の腕をぎゅっと引っ張った。
「愛莉お姉ちゃん、それお兄ちゃんには内緒だってば!」
「あ! そうだった。チェシャくん、今の忘れて」
口を滑らせた愛莉が今更なかったことにしようとするも、もう遅い。チェシャ猫は険しい顔を一層険しくした。
「なんだそれは。なぜ俺が知らない事実をあんたが知っている? どいつだ、その小僧は」
「ほらもう、面倒くさい。だから内緒だったのに!」
巡が愛莉をぺしっと叩く。愛莉は涙の跡を擦って笑った。
「ごめんごめん! 守秘義務違反しちゃった。区長のこと言えないや」
窓から差し込む麗らかな春の日差しが、ぽかぽかと暖かい。平和に揉める声が店内を晴れやかに彩る。
カウンターの抹茶ラテからほんわりと、白い湯気が立ち上っていた。
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