ここにいるよ
その日、愛莉はチェシャ猫に連れてこられて、大きな市立病院を訪れていた。
病室のベッドに、小さな少女が横たわっている。細い腕には、点滴が取り付けられていた。
「巡ちゃ……」
途中まで呼びかけた愛莉の声は、そこで途絶えた。そして横に立つチェシャ猫を見上げる。
「……思ったより、ぐっすりだね」
巡が最後に目を覚ましたのは、二日前。それきり、彼女は眠ったままだった。
チェシャ猫は無言である。愛莉も黙って、かつてチェシャ猫から聞いた話を思い出していた。
巡は事故で脳神経に衝撃を受け、長くは生きられないと診断されている。
いつかは体に麻痺が起こる。それはチェシャ猫も、巡自身も、知っていた。だからこんな日が来ることも、彼らには分かっていたのだ。
体が麻痺していく中、巡はやがて、意識も薄れていった。
本来の手続きよりも先に施設から運ばれた巡は、この病室でひとり、豚のぬいぐるみを抱いて眠っている。
室内は静かだ。巡の小さな体に不似合いな大仰な機械が、彼女を囲み、唸る音を立てている。呼吸心拍監視が定期的なリズムを奏でる。
音はあるのに、病室は静寂そのものだった。
「巡」
チェシャ猫が無表情のまま、巡の手を取る。
「愛莉が来てくれた」
巡の手はずるりと持ち上がるだけで、彼女の意思は感じられない。愛莉はチェシャ猫を振り向いてから、巡に近寄った。
「巡ちゃん」
だが、その続きが出ない。チェシャ猫は愛莉の方には目を向けず、巡だけ見つめて言った。
「意識あんのか分かんねーけど、もしかしたら聞こえてるかもしれない。だから……」
チェシャ猫の声に、抑揚はない。
「話しかけてやってくれ」
「……巡ちゃん、」
愛莉はもう一度、巡の名前を呼びかけた。
初めて会った日。目の見えない巡に、愛莉は窓の外に見える景色を教えた。巡は喜んで、もっと聞かせてとせがんだ。
その次に会ったときは、ぬいぐるみをプレゼントした。ぬいぐるみの色も顔も分からない巡でも、その手触りのよさを気に入って、以来、ずっと抱いていた。
主治医から愛莉と会ってはいけないと指示されたときは、寂しがってどうにか話せないかと、チェシャ猫に無理を言った。
窓際の日だまりも、手を握って話した恋の話も、愛莉の頭の中に、しっかり刻まれている。
「巡ちゃん。あたし、ここにいるよ」
愛莉はチェシャ猫の握る巡の手に、自分の手を重ねた。
「お兄ちゃんもいるよ。巡ちゃんとお話したくて、来たんだ。だから、聞こえたら返事して」
すると、握られていた巡の指が、先だけぴくっと動いた。チェシャ猫と愛莉は、同時にその指先に目をやる。しかし僅かに動いただけで、それからはまた、力なく持ち上げられているだけになった。
病院をあとにしたふたりは、昼には帰りの電車に乗った。
愛莉はすっかり下を向いて、普段のようには振る舞えなくなっている。一方チェシャ猫は、感情を顔には出さなかった。
「なんであんたがそんな顔してんだよ。俺の妹だぞ」
「そうだけど、あたしの友達だもん」
愛莉はぎゅっと、チェシャ猫の袖を握った。
「チェシャくんもチェシャくんだよ。ずるいよ。やっと名前呼んでくれたと思ったら、ぎゃーって騒げないときに言う」
愛莉の鼻が、すんっと鳴った。それから切り替えたように、大きめの声を出す。
「あー、あたしチェシャくんの嫁になれなくても巡ちゃんの姉にはなりたい。巡ちゃん、すっごくかわいいんだもん」
「またしょうもねえことを」
チェシャ猫がうんざりした顔でため息をつく。その冷ややかな目つきに、愛莉はニッと口角を上げた。
「巡ちゃん、お兄ちゃんが無愛想で心配って言ってたぞー」
「っせえな」
短く悪態をついてから、チェシャ猫は猫背をさらに丸めて、俯いた。
「まあ、でも。今日は、ありがと」
ぽつりと礼を言う。愛莉は耳を疑ったあと、仰け反って震えた。
「なにこれ、かわいー。昨日のアレといい、チェシャくんなんか今、デレ期が来てる?」
「くそ……やっぱあんた嫌いだ……」
チェシャ猫は丸めた背中を一層折りたたみ、膝に顔をうずめた。愛莉はその背中に、ぽんと手を置く。
「大丈夫、あたしがこの有り余る元気を巡ちゃんに分けてあげたから」
「これで本当に、超回復したりしてな」
チェシャ猫がぼそっと呟く。愛莉は彼の背中を眺めて、ね、と微笑んだ。
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