肉じゃがスマッシュ

 その晩、シロは夕飯に大量の唐揚げを揚げた。


「喜べチェシャくん。山根さんが急ピッチで調べてくれたところ、君はもうこれ以上悲しくならないだろうし、いきなり化け物になる可能性も、かなり減ったよ!」


 悲しくならない「だろう」、可能性はかなり「減った」。断言はしないのは、レイシーという相手がいかに謎に満ちていて、「百パーセント」がないものだからだ。とはいえシロがこう言うのだから、ほぼ確定である。

 チェシャ猫は返事の代わりに、シロが油から引き上げる三十個近い唐揚げにコメントした。


「唐揚げ、多いな」


「傷を早く治すためにも、タンパク質を摂った方がいいと思って」


「だからって限度があるだろ……」


 チェシャ猫は壁に寄りかかり、テーブルに置かれたままの大量のクッキーに目をやった。


「あれだって、まだ消費率二割程度なのに」


「暇潰しにでも食べててよ。そうだ、明日からは自由に外に出てもいいから、巡ちゃんにも持っていってあげたらいいよ。食事制限とか、なければ」


 シロはまた、油から唐揚げを掬った。チェシャ猫がふむと頷く。


「それはいいかもしれない。近くなったから、散歩がてら会いにいくか」


「いいね。病院だったら、万が一傷が開いても安心だ」


 それからシロは、唐揚げをひとつ、つまみ食いした。


「今朝より具合よさそうだね。やっぱり愛莉ちゃんのおかげかな?」


「そうだった。あんた、怪我人のところへあいつを送りつけてくるとは何事だ」


 突撃してきた愛莉のことを思い出し、チェシャ猫が気色ばむ。シロは軽やかに笑った。


「チェシャくんも自覚あると思うけど、愛莉ちゃんがいると考え事してるのがバカらしくなるくらい前向きになれるでしょ。それがレイシーに対する免疫になるんだろうね」


 チェシャ猫はなにも言い返せなかった。事実、愛莉が書類を届けに来た辺りから、考え事が吹き飛んだ。

 愛莉の明るさは、レイシーに蝕まれた精神を回復する、らしい。過去にもチェシャ猫はレイシーの餌食になっては、愛莉に回復させられた。どうやらまた、助けられてしまったようだ。

 シロが菜箸で唐揚げを摘んで、チェシャ猫を一瞥する。


「仕事のパートナーとして完璧じゃない? 正式に雇う?」


「仕事しながら子守りまでしたくねえ」


「愛莉ちゃん、嫌い?」


「嫌いだったら、店に行く時間ずらしてる。好きでもねえけど」


 その返答が来るだろうと、なんとなく見透かしていたシロは、機嫌よさげに唐揚げの油に視線を戻した。


「山根さんが言ってたよ。あのレイシーは、人の心の安定を喰うものだって。噛まれた瞬間、君、本当はすごく不安になったんじゃない?」


「……心当たりが、なくはない」


 揚げ物の香ばしい匂いがする。声が小さくなるチェシャ猫に、シロはそうだよね、と呟いた。チェシャ猫は床を見つめ、噛まれた瞬間を思い起こした。


「どうも俺は、不安になるとキレるタイプらしくて」


「うん」


「キレると自分でなく、他者を攻撃するタイプらしくて」


「でしょうね」


「それで、八つ当たりでレイシーをぶっ殺した」


 丁寧なような雑なような自己分析をして、チェシャ猫はさらに、深く俯く。


 彼を襲ったのは、巡を失ったときのビジョンだった。妹のために金が必要で、そのためにこの仕事を始めた。

 だけれど、巡がいなくなったら。

 巡が短命なのは、分かっていた。それでも、生きているうちは少しでも豊かに暮らしてほしくて、そのためならなんでもできた。

 裏を返せば、巡を失ったら、全てのモチベーションを失う。そうなったとき、自分はどうなるのか。想像なんかできないくせに、漠然とした不安がどんとのしかかってきて、チェシャ猫の理性は吹っ飛んだのだった。


 彼を一瞥し、シロはにこっと笑った。


「そして不安で仕方ないときに、僕を頼ってくれたんだね」


「は?」


 チェシャ猫が顔を上げる。シロはにんまりしながら、キッチンペーパーを皿に広げた。


「だって大怪我してるのに、救急車を呼ぶより先に僕のところへ来ちゃったくらいだし」


「それは別に……出血で思考がままならなくて」


「ままならない思考で、僕を思い出してくれてありがとう」


 シロがわざとらしくからかう。チェシャ猫はもう、言い返すのはやめた。口でシロに勝てるはずがないし、シロを頼ってしまったのは事実だ。

 シロはシロで、自分で思っている以上に頼りにされているのを知って、純粋に嬉しかった。


「からかってごめんね。なんというか、見つけたばかりの頃の君が、懐かしくなっちゃってね」


 ペーパーを敷いた皿の上に、揚げたての唐揚げを並べる。


「あの頃の君は、僕を頼ってなんかくれなかったから」


 *


 二年前の夏。シロは路頭に迷っていた青年を拾った。両親を事故で亡くし、大怪我を負った妹を、ひとりで養っていかなくてはならない。そのくせ自分は定職に就いていない、崖っぷちの青年だった。

 のちに「チェシャ猫」のふたつ名をつけられる彼は、当時は節約しながら働き詰めており、ひどく窶れていた。

 気の毒に思ったシロは、彼を度々、夕食に招待していた。


「君には狩人として育ってもらわないといけない。勉強会をするから、うちにおいで」


 半分事実で、もう半分は、チェシャ猫に栄養価の高い食事をさせるための口実だった。シロに莫大な借金をしていたチェシャ猫は、彼に逆らえるわけもなく、大人しく応じていた。

 シロはもとより、料理が趣味である。作ったものを人に食べさせるのが好きで、店を持つほどだ。

 一方チェシャ猫も、シロの作る料理にありがたく肖っていた。面倒を見たいシロと、節約生活で痩せ細っていたチェシャ猫、お互いに、利害が一致していたはずだった。


 しかしある日突然、チェシャ猫はシロが作った「初めての狩人マニュアル」だけ持ち出して、シロの元へ寄り付かなくなった。


「しばらく離れる。借金は返すし、仕事もする。だから、構わないでくれ」


「へ?」


 シロからすれば理解不能だった。勉強するには自分が講師としてついていた方がいい。節約しているなら、自分が作る料理を食べに来たらいい。チェシャ猫にはメリットしかないはずなのに、彼の方からいなくなった。

 理由は分からなかった。分からないけれど、本人の意思を尊重して、追いかけはしなかった。だが日に日に、心配になってきた。


 まっさらな状態だったチェシャ猫に、全く知らない世界の勉強をいきなり詰め込んでしまったのだ。彼は家族を亡くしたばかりでただでさえ滅入っていた。見た目以上に心が疲れていて、自ら死を選んだ可能性も――。

 そしてシロは、己の体質を思い出した。


 シロと関わる人間は、不幸になる。

 レイシーを引き付ける性格の自分は、大切に思う人ほど、壊してしまう。

 もしやチェシャ猫は、自分のせいでレイシーに喰われたのではないか。


 いてもたってもいられなくなったシロは、肉じゃがの入った鍋を持って、チェシャ猫の住むアパートへ突撃した。

 チェシャ猫は、アパートにいた。


「は!? 意味分かんねえ。なんで来た?」


「ちゃんと食べてるか心配で……」


 鍋を両手で持って声を震わすシロに、チェシャ猫は困惑する。


「あんたのとこに行ってないだけで、食う宛くらいある」


「そうでしょうけど……おいしいって食べてくれたのに、急にいなくなるんだもん。なんか、心配で」


「逃げたと思ってんのか? 借金はちゃんと返すし、仕事もするっつったろ」


 鍋からほわほわと、湯気が上がる。食欲をそそる匂いに、チェシャ猫は唾を飲んだ。そのチェシャ猫の反応を見逃さず、シロは玄関に足を踏み入れる。


「ほら! お腹空かせてるじゃないか。どうせろくなもの食べてないんでしょ。折角筋肉ついてきたのに、また痩せちゃうよ」


 シロは勝手に上がり込み、キッチンへ向かった。チェシャ猫はシロを追いかけ、半ば叫ぶように問いかける。


「あんた、なんで俺に構うんだ」


 シロは立ち止まって、チェシャ猫を振り向いた。

 野生動物みたいだ、と、思った。善意で餌を撒いても、人を警戒して寄ってこない。理由もなく優しくされるのが怖い。そういう生き物なのだと、悟った。

 チェシャ猫が牙を見せる。


「なんで俺に優しくするんだよ。借金してるだけの、他人なのに」


「他人じゃない。ビジネスパートナーだ」


 シロははっきりと、そう言い切った。


「君に構うのも、僕の仕事の内なんだよ。放っておいて弱ったら、狩人として使い物にならなくなる。まして、尻尾巻いて逃げたなんていったら、大問題だよ。僕ら狩人の秘密を知ってる者を、野放しにはできない」


 それは、自分に言い聞かせる言葉でもあった。

 仕事以上の感情は持たない。そうでないと、自分の家族、叔父のように、彼を犠牲にするかもしれない。

 チェシャ猫は数秒固まったのち、またカッと牙を剥いた。


「逃げ……てねえし。逃げも隠れもしない!」


「隠れはしたでしょ。全然顔見せなかったじゃないか」


 ぴしゃっと言い返され、チェシャ猫はまた、言葉に詰まる。シロは鍋敷きに鍋を置き、腕を組んだ。


「勘違いするな。僕は優しいんじゃない。世話好きなだけだ」


 冷ややかに言うシロの目は、真っ直ぐにチェシャ猫を見据えていた。


「一方的な世話好きだから、自己満足であり、君の迷惑は省みない。だからなんでいなくなったのか、説明してもらわないと分からない」


 肉じゃがの匂いが、部屋を満たす。

 問い詰められたチェシャ猫は、しばらく、なにも言えずにいた。


 *


「随分前のような気がするけど、ほんの二年前なんだよね」


 現在、シロは唐揚げを並べて、懐かしそうに微笑んだ。当時はシロに気圧されていたチェシャ猫も、今ではもう慣れっこで、平然として炊飯器を開けて白米をよそっていた。


「あの肉じゃがも、二人前の量じゃなかった」


「それはさ、肉じゃがはこう、作り置きして消費するものだから」


「毎回作りすぎなんだよ」


 毒づくチェシャ猫に、シロはふふっと笑う。


「あのときは、本当に不思議だった。こんなに至れり尽くせりなのに、どうして僕を頼ってくれないんだろうって。むしろ警戒されてたよね」


 唐揚げの皿が、テーブルに運ばれる。


「でも考えてみたら当然だよね。ご家族が事故に遭ったばっかりだもの。神経がすり減って、全てが敵に見えるよね。理由もなく甘やかしてくる人がいたら、『なんのつもりだろう』って、怖くもなるよ」


 そう言われ、チェシャ猫は口を結んだ。たしかに当時の自分は気が立っていて、なにも信用できなかった。

 家族の事故で気が立っていたチェシャ猫。自分のせいでチェシャ猫を巻き込むかもしれないと思いつつも、放っておけないシロ。当時彼らはそれぞれに、想いを抱えていた。

 シロが彼を一瞥する。


「それが今では、真っ先に甘えてくれて……」


 そして、シロ自身も変わった。

 仕事だけの付き合いだと割り切らないと、彼がレイシーに喰われてしまうかもしれない。そんな不安は、今はない。もしもレイシーがチェシャ猫を襲ったとしても、チェシャ猫なら返り討ちにしてくれる。そうとまで思えるようになった自分を、シロは、最近になって自覚した。


「甘えてはいない。意識が朦朧としていただけだ」


 断固として認めないチェシャ猫が面白くて、シロはまた、ニヤリとした。

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