Act.8
心の距離
桜の花は、殆ど散った。若葉色に変わる、学校の桜の木の下、愛莉は絵里香を見つけて追いかけた。
「絵里香ー! 待って待ってー!」
校門へと向かっていく絵里香に駆け寄り、彼女の鞄を掴む。
「一緒に帰ろうって約束だったでしょ! シロちゃんのお店の新メニューのわらび餅アラモード、食べに行こうって。忘れちゃった? あたし、昇降口で待ってたんだよ!」
約束をして待っていたのに全然来ないと思ったら、先に帰っていく絵里香の後ろ姿を見つけたのだ。すっぽかされた愛莉がむくれていると、絵里香は愛莉を一瞥し、また前を向いた。
「あー。やっぱ今日、一緒に帰れない。禎輔と合流するんだ」
「そんなー! あたしの方が先に約束したのに!」
「だとしても、彼氏優先! あんたは二番!」
絵里香に指さされ、愛莉はむくれながらも絵里香の鞄から手を離した。
「分かった。今度からは、予定が変わったら先に言ってよ?」
愛莉は大人しく身を引いたが、そのまま絵里香を逃しはしなかった。
「この埋め合わせは絶対してよね。わらび餅アラモード、いつにする?」
改めてリスケジュールする。しかし絵里香の横顔は、ため息混じりに言った。
「愛莉は彼氏いないから分かんないかもしれないけど、私には禎輔がいるからさ。愛莉と遊ぶ予定組むの、楽じゃないんだよね」
「……あっ、そっか」
愛莉は思わず、肩を強張らせた。先日、絵里香に言われた言葉を思い出す。「お子様だよね」――同い年の絵里香には、恋人がいる。それがいない愛莉は、絵里香には幼く見えるのか。
愛莉は以前、自分に告白した少年に対し、恋愛感情を持てなかった。訳も分からず宙ぶらりんにしてしまい、チェシャ猫から「思わせぶりなのはよくない」と忠告された。
特定の人と関係を結ぶ絵里香と、恋愛を知らなくて上手くできなかった自分は、違う。
「ごめん。あたし、そういうの、全然分かんなくて」
「そういうところがお子様だっていうの」
自分の方が先に約束を取り付けていたとしても、恋人がいれば、そちらが優先。そちらの方が大事だから、仕方ない。昇降口で待ちぼうけを食らって、連絡一本貰えなくても、理解できない「お子様」な自分が悪い。
とまで考えてから、愛莉は首を傾げた。
「それなんか違くない!? 予定すっぽかしたのは絵里香の方なのに、なんであたしが怒られてるの?」
「あはは。じゃあねー」
絵里香はひらひらと手を振って、校門を出ていってしまった。
残された愛莉は、両手を拳にして仁王立ちしていた。笑って流されたが、絵里香にもわらび餅アラモードを食べてほしかった。
この頃少し、絵里香の顔つきが変わって見える。学年が上がって、彼女の意識が変化したからだろうか。
二年生に進級してから、絵里香とはクラスが別れた。愛莉は、新しいクラスで新しい友達ができた。その新しい友達とも、『和心茶房ありす』へ行こうと約束している。
絵里香も、進級してからできた新しい友達がいる。その上、彼氏もいる。お互いに知らない人間関係が増えれば、自然と疎遠になっていく。
同じクラスだった頃に比べると、絵里香と話す機会は減った。クラスが違えば、授業をする先生が違うし、出る課題も違う。共通の話題が減ったのは、愛莉も実感している。
だからこそ、放課後の時間は絵里香と過ごしたかった。
「でも、絵里香は彼氏優先だもんね。遊びたいのは、あたしのわがままだよね」
どこか吹っ切れたようなひとり言を呟き、愛莉はシロの店へと歩き出した。わらび餅アラモードは、自分ひとりで食べに行こう。約束を反故にされた愚痴も、シロに聞いてもらおうと思った。
*
愚痴を聞いてもらおう、と思っていたのに、店に到着した愛莉は、一瞬でそれを忘れた。五日ぶりに、店のテーブル席にチェシャ猫がいたのだ。
「チェシャくーん!」
床を滑る勢いで駆け込み、和紅茶を傾けるチェシャ猫に向かって、全身でダイブする。その衝撃で、チェシャ猫は和紅茶を顔を浴びた。
「熱っ! 痛っ! 傷が開く」
「休業期間、二週間くらいって言ってたよね。もう出てきてもいいの?」
チェシャ猫の肩に顔を埋めて離れない愛莉に、チェシャ猫は舌打ちした。代わりにシロが、質問に答える。
「実は二日目からすでに外を出歩いてるよ。もうあとは回復する一方みたいだからね。ただ、傷が治ったわけじゃないから、引き続きお仕事はお休み中」
「そっか、二週間全部閉じこもってるわけじゃないんだ!」
愛莉がより強くチェシャ猫を抱きしめる。チェシャ猫はげっそりした顔で、和紅茶の湯のみをテーブルに置いた。シロがカウンターの中でほんわかと微笑む。
「チェシャくんが二週間も大人しくしていられるわけないじゃないか。毎日のように巡ちゃんのところへ会いに行ってるよ」
「いいなあ、あたしも行きたい」
愛莉が腕をほどき、チェシャ猫と真正面から向き合う。それからシロは、思い出しついでに告げ口した。
「それにね、だめだって言ってるのに、『散歩』とのたまって山を登りに行っちゃうんだ」
「それはいけないよチェシャくん。動かないと体がなまるのかもしれないけど、大人しくしてないと傷の治りが遅くなっちゃうよ」
愛莉に叱られると、チェシャ猫は不快そうに愛莉を見て、ぷいっとそっぽを向いた。
「傷はもう平気。それより運動不足の方が深刻だ。休業期間が明け次第、すぐに動けるようにしておきたい」
チェシャ猫はシロをじろりと睨んだ。
「復帰したらすぐにでもポイソンの調査に行かなくちゃならない。俺が休んでる間に、あの警備員のレイシーみたいな、ポイソンの秘密を知ってる奴が出てるかもしれない。多かれ少なかれ情報は洩れてるんだ、本当なら休んでる暇なんかないくらいだぞ」
「あー、ポイソンの秘密、区長さんがバラしちゃったんだもんね!」
愛莉のその言葉に、チェシャ猫が低い声を出す。
「……あ?」
見ていたシロは、ぴしっと凍りついた。彼はまだ、区長が漏洩したという事実を、チェシャ猫に話していなかった。口を滑らせた愛莉は、あっと呟いてシロの顔を見る。
聞かされていないチェシャ猫は、わなわなと震えだした。
「区長? おいシロさん。これはなんの話だ」
「えーっと……はい、話すのを保留してました」
シロは細った声で言い、カウンターの中で後退りする。愛莉はチェシャ猫にも目をやり、再度シロに顔を向けた。
「まだ言ってなかったんだ」
「だって絶対ブチギレるから……」
シロが心配するとおり、チェシャ猫は前髪の隙間から普段以上に鋭い眼光を覗かせている。
シロは観念して、保留していた本件を伝えた。
「愛莉ちゃんの言葉どおり。ポイソンに関する情報漏洩の根源は、新区長でした。お酒に酔った勢いで、お店のお姉さんに喋ったとのことです」
「ふうん」
チェシャ猫が椅子から立ち上がった。張り付いていた愛莉も、おずおずと離れる。椅子にかけていたスプリングコートを羽織り、チェシャ猫は襟を引っ張った。
「相手が人間だったとしても、行動が不可解そのものでレイシーであると疑われてもやむを得ない状況の場合、間違えて殺してしまっても、狩人は罪にならないんだよな」
店の扉に向かってすたすた歩いていく彼は、虎視眈々と獲物を狙う肉食獣の目をしていた。
「こんな単純な守秘義務も守れないなんて、さては人間じゃねえな……」
「わー! だめだよチェシャくん、罪にならないのは役所から駆除の許可が下りてる場合だけだって、深月さんが言ってたよ!」
今にも殺しに行きそうなチェシャ猫に、愛莉は後ろから飛びついて押さえつけた。しがみついた愛莉の腕がチェシャ猫の傷口にめり込み、チェシャ猫は声にならない悲鳴を上げる。
見かねたシロが、チェシャ猫に同情した。
「分かるよ。僕も区長の口に銃口突っ込みたい気持ちでいっぱいだ」
「シロちゃん、優しい顔して物騒だよね」
愛莉がシロを振り向く。シロはカウンターの上で腕を組んで、苦い顔をしていた。
「だけど狩人は区から仕事を貰うんだから、区長に喧嘩を売ると後々待遇悪くなりそうでね。殴ろうものなら謹慎処分が加わって、チェシャくんのロングバケーションがさらに延びちゃうよ」
シロはシロで、怒りを噛み殺しているのだ。チェシャ猫は口を結んでシロを眺めている。シロは、もうひと押しした。
「いずれにせよ、区長の処分は僕らの仕事じゃない。今頃ポイソンの上層部から区長に問い合わせが行ってるんじゃないかな。漏洩の証拠もあるから、僕らが殺さなくてもなにかしらの処分が下るはずだよ」
せいぜい減給くらいでしょうけど、と、小声で付け足す。チェシャ猫はまだ不満そうだったが、大人しくシロに従った。愛莉を引きずって、カウンターのシロの方へ寄ってくる。
「区長、狩人に敵意があって、レイシーに攻撃させる意図で洩らしたんじゃねえよな」
「うん。調子に乗っただけ」
「思想家然とした悪意あるバカじゃなくて、単なるバカだったのが救いだな」
かつて彼らは、狩人を敵視しレイシーの味方をした人間と、向き合った経験がある。それに比べれば、ただの「うっかり」ならまだましだと思えた。
愛莉が明るい声で口を挟む。
「キャバ嬢さん、区長の話にドン引きしてたし、多分あれっきり喋ってないと思うよ。警備員さん風レイシー一匹だけで片付いてるんじゃない?」
「そうだといいんだけどな。万が一まだ聞いてるレイシーがいたとしても、俺たち狩人が根絶やしにするまでだ」
チェシャ猫が和紅茶に口をつける。シロはため息混じりに返した。
「ポイソンをマメに見張って、変なのが近づいて来次第、潰していくしかないね」
「めんどくせ」
「狩人の仕事は元からそんな感じだったでしょ。地道にやっていくしかないよ」
どこから湧いて出てくるか分からないレイシーは、完封できる策がない。
だが、ポイソン側も、レイシーのプロがいる組織である。異変があれば気づく。その場その場で対処していくしかないのが現状である。
チェシャ猫は和紅茶を飲み干し、改めて扉の方に向かった。シロがそれを目で追う。
「どこ行くの?」
「散歩」
「ハードコースはだめだよ」
「うっせえ。分かってる」
チェシャ猫が店を出ていく。愛莉はちらとシロを見て、ぴしっと敬礼した。
「激しい運動しはじめないように、あたしがばっちり見張ってるね!」
そう宣言して、愛莉も店を出て、チェシャ猫を追いかけた。シロはふたりの背中を見送り、微笑ましい気持ちになった。チェシャ猫の気分転換の散歩も、愛莉がいればきっと、強制的に気持ちを前に引っ張られるだろう。
その間愛莉は、自身の携帯に溜まっていたメッセージに、全然気づいていなかった。
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