突撃 I LOVE YOU
羽鳥と山根が店を出ていって、数分。愛莉はしばし、カウンターテーブルの木目を見つめていた。
「区長さんかあ。まさか区役所のいちばん偉い人がやらかしてたとは」
愛莉は抹茶ココアを啜り、シロを見上げた。
「これ、チェシャくんにはまだ秘密?」
「僕から、頃合い見て話すよ。めちゃくちゃ怒るだろうけど、話さなきゃいけないね……」
手負いの野生動物は、普段以上に敏感である。下手に刺激してはいけない。
憂うシロを気の毒に思いつつも、愛莉は怒るチェシャ猫を想像して、ニヤけた。すぐに威嚇する獣っぽさは、愛莉にとっては魅力的である。
そして、ため息とともに突っ伏す。
「チェシャくん、会いたいなあ。あたし、チェシャくんいればあとはなにもいらないかも」
抹茶ココアから、ほわほわを湯気が立ち上る。
「と思ったけどそんなことないや。シロちゃんもこのお店も大好き。友達も学校も好き。よくばりだあ……。でも、チェシャくんがいないと満たされない」
寂しそうに嘆く愛莉を見て、シロはふと、かつてのレイシー有須川瑠依の案件を思い出した。
取り憑かれた学生は心を病んでしまい、学校に行けなくなってしまったが、愛莉が遊びに来るとメンタルが回復していた。レイシーの攻撃から人を守る、愛莉の明るさ故である。
今回も、愛莉がいればチェシャ猫の傷を速く癒やすかもしれない。愛莉もチェシャ猫に会いたそうだしと、シロはお節介を焼いた。
「ねえ愛莉ちゃん、もしよかったら、この書類をチェシャくんのところに届けてくれない?」
シロはカウンターの奥から、書類を取り出した。
「お役所に出す休業申請書類の追加が出て、チェシャくんに書いてもらわないといけないんだ。店を閉めてから渡してもいいんだけど、チェシャくん暇だろうし、早めに渡してあげたいんだよね」
それを聞いて、伏せっていた愛莉は、しゅっと顔を上げた。
「任せて!」
「助かるよ!」
シロは書類にメモを添えて、愛莉に手渡す。
「この住所を訪ねてね。インターホンで無視されたら、『シロちゃんに頼まれた』って言えば流石に開けると思う。僕からも連絡入れておくね」
「やったー! 行ってきまーす!」
愛莉は書類とメモを手にするなり、椅子から転げる勢いで降り、店を飛び出していった。
*
一方その頃、シロのマンションで待機中のチェシャ猫は、暇そうに洗面台の掃除をしていた。
普段なら軽い運動を伴う仕事をして、レイシーとの戦闘に備えて体作りもするのだが、怪我のせいで安静にしていなくてはならない。
しかも生憎自分の傷は、体の傷だけではない。内面的なものをレイシーに喰われているとしたら、下手に外出して、出先で問題を起こしてしまいかねない。それを考慮すると、チェシャ猫はシロの自宅から外には出られなかった。
暇潰しも兼ねて、シロが帰ってくる前に食事でも作ろうかとも考えたが、それはシロからは「僕の方が上手」と封じられている。
時間も体力も有り余って、退屈で仕方ない。おまけに、傷の痛みで思うように動けない。
チェシャ猫はさながら狭い檻に閉じ込められた獣のように、うろうろと家の中を掃除して回っていた。
顔を上げると、洗面台の鏡に自分の顔が映った。ぼさっとした黒髪の目つきの悪い男が、こちらを睨んでいる。自分を模したジャバウォックは、こんな姿をしているのだろう。
チェシャ猫は鏡の中の自分を、しばらく眺めていた。ジャバウォックは、本物がいない場所にしか現れない。自分がここにいる間、自分そっくりなジャバウォックが外にいたら。知人に接触し、勝手な言動をされたら。シロに迷惑をかけたら。誰かを殺してしまったら。
そうなったら、妹はどうなる?
考えても仕方ないのに、考えてしまう。普段の自分ならこんなに思い詰めないのに、なぜか考えすぎてしまう。これだから暇はよくない。
心を無にして、洗面台の掃除を再開する。元からきれいだった洗面台は、磨いてもさして達成感がない。
と、そのとき、インターホンの音がした。シロがなにか宅配でも頼んだのだろうかと、チェシャ猫は濡れた手を拭いて、モニターを見に行った。
そしてそこに映っていた少女の姿に、肩の力が抜ける。
「チェシャくーん! 起きてるー?」
カメラに向かって手を振る、愛莉である。チェシャ猫はしばしモニターを睨んで、舌打ちとともに玄関に向かった。
玄関の扉を開けると同時に、ため息まじりに問う。
「なんであんたがいるんだよ」
突撃してきた愛莉は、普段以上に髪をぼさぼさに乱したチェシャ猫を見上げ、満面の笑みを浮かべていた。
「えへ。チェシャくんが心配で心配で、会えないって聞いたら余計に会いたくて、会いに来ちゃった」
「うぜえ。帰れ」
容赦なく扉を閉めようとすると、愛莉は閉まりかけの扉を手で受け止めた。
「待って! 違うの、遊びに来たんじゃないの。シロちゃんからお使い!」
「はあ、シロさんから?」
夜になれば戻ってくるのに、わざわざ愛莉に頼んだくらいだ。緊急の用事だろうか。チェシャ猫は閉めようとした扉を再び開き、愛莉を受け入れた。扉に挟まりかけていた愛莉は、一歩踏み込んできた。
「こんなマンションに住んでるんだねー。上がっていい? 生活空間見たい。あわよくば介抱したい。そんでエロ本探す」
「やめとけ。ここ、シロさんちだぞ」
チェシャ猫が鼻白むと、愛莉はえっと目を剥いた。
「シロちゃんち!? なんで? なんでシロちゃんいにチェシャくんが!?」
「シロさんから聞いてねえのか。休業中はそういうことになってんだよ」
「シロちゃんちでも生活空間見たい。そんでエロ本探す」
なおも上がり込もうとする愛莉を、チェシャ猫は肩を掴んで止めた。
「やめろ。ここで要件を済ませろ」
全力で阻止するチェシャ猫に、愛莉はつまらなそうに肩を竦め、鞄から書類を取り出した。
「役所からの書類だって」
チェシャ猫は、手渡された書類に目を通した。愛莉を使って速達するほど、急ぎの書類でもない。シロがわざと愛莉をここへ遣ったのだと察しがついた。
「あの人……まあいい。これは受け取っておく」
書類の確認をしているチェシャ猫の脇で、愛莉はきょろきょろと玄関周辺を眺めていた。
「すごーい、きれーい。きれいすぎてモデルルームみたい。生活感がない」
「あんまり見るな。人んちだぞ」
チェシャ猫が書類に目を落としたまま愛莉を窘める。話を聞いていない愛莉は、ぴょこぴょこ頭を動かして辺りを見回していた。
それから書類を眺めるチェシャ猫に目を留め、愛莉はなんだか堪らない気持ちになった。こうしてシロが理由を作ってくれない限り、しばらく会えない。でも、これ以上引き延ばせない。
愛莉はふにゃっと笑い、敬礼した。
「それじゃ、帰るね。あたしがいたら、休まらないもんね。ちゃんと休んで早く戻ってきてほしいから、賢いあたしはここで引っ込むとするよ」
「分かってんじゃねえか」
チェシャ猫が書類を畳む。
今ここで粘るより、怪我を治したチェシャ猫に戻ってきてもらい、遠慮なく絡む方がいい。
しかし素直に立ち去ろうとする愛莉に、チェシャ猫は手を伸ばした。ぱしっと、彼女の腕を掴む。
「待て」
急に腕を取られ、愛莉は振り向いた。真顔で自分を引き止めるチェシャ猫に、ぶわっと頬を染める。
「えっ、なに!? やっぱり寂しいの?」
邪険にしていたくせに、帰り際に寂しがるいじらしい一面……など、チェシャ猫にあるはずもない。彼は手を離し、愛莉に背を向けた。
「そこにいろ」
一旦奥へ引っ込んだチェシャ猫は、蓋付き容器を持って戻ってきた。愛莉はきょとんとしつつ、突き出されたそれを受け取る。半透明の蓋からは、クッキーが透けて見えた。チェシャ猫が壁によりかかる。
「昨日、シロさんが信じらんねえ量焼いたやつ。消費を手伝え」
容器の中に詰まっているだけでも、二十枚以上はあると見える。愛莉は、先程店で貰った「EAT ME」のデコレーション入りのクッキーを思い浮かべた。容器の中のクッキーにはデコレーションがないが、同じバタークッキーである。どうやらシロは試作品を大量生産し、その消費をチェシャ猫任せにしているようだ。
「楽しそうな共同生活してるね。ありがと、帰ったら食べる。あっ、これもしかして、書類をお届けしたお礼?」
「そう思いたいなら、そうでもいい」
「素直じゃないなあ」
愛莉は容器を鞄に詰めて、もう一度チェシャ猫を見上げた。チェシャ猫はさっさと扉を閉めたそうに、愛莉を眺めている。
「用は済んだ。はよ帰れ」
「引き止めておいてそれ!? もー、理不尽。そういうところが好きなんだよ」
「帰れ」
長期休業を取るほどの大怪我を負っているはずなのに、チェシャ猫は普段と変わらない。弱っている気配すらない彼は、愛莉の大好きなチェシャ猫そのもので、愛莉はまたもや胸がいっぱいになった。
結局我慢できなくて、チェシャ猫に飛びつく。
「充電!」
両腕でぎゅっと抱きしめて、チェシャ猫の胸元に顔を埋める。
「しばらく会えない分、今しっかり補給しておこう」
一方、締め付けられるチェシャ猫は、全身に雷が迸っていた。愛莉の顔がちょうど、傷口に当たっている。
そんなことは知らない愛莉は、無邪気に腕に力を込める。
「チェシャくん、思ったより元気そうでよかった。本当に怪我してる? 狡休みじゃないよね? ってくらいいつもどおりで、安心した!」
「いっ……離せ」
「えへへ、照れ屋さんなんだから」
痛みに悶絶するチェシャ猫を容赦なく締め付けて数秒、愛莉はやっと彼を開放した。
「よし! まだ足りないけど、とりあえずこれで勘弁してあげる。早く戻ってきてね!」
満足げに手を振って、愛莉は玄関をあとにした。嵐のように現れて去っていく。チェシャ猫は、患部を押さえて膝から崩れ落ちた。それまで洗面台の掃除をしていたのも、ジャバウォックのことを考えていたのも、完全に頭から消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます