EAT ME

 臨時休業の翌日。今度こそ店にやってきた愛莉は、シロからの衝撃の通告に、打ちひしがれていた。


「それじゃ、チェシャくん、しばらく会えないの!?」


「うん、傷の治りの速さにもよるけど、休業期間は二週間くらいかなあ。まだ役所から正式に返答がないから、決定ではないんだけどね」


 愛莉から注文を受けて、シロは抹茶ココアを作っていた。カウンター席の椅子に立ち膝をつき、愛莉はシロに問う。


「昨日お店閉まってたのも、チェシャくんの怪我があったからだったんだね」


「そう。もしかして、昨日来てくれた? ごめんね、連絡もなく休んで」


「ううん、事情が事情だから当たり前だよ。けど……チェシャくんがそんな大怪我しちゃうなんて。痛いのかな。かわいそう」


 わなわな震える愛莉を、シロは優しく宥めた。


「大丈夫。本人、普通に歩いて部屋の掃除してるし、料理の手伝いもしてくれるよ。怪我してるの忘れるくらい自然に動いてる」


「それはそれですごいね。長いお休みするくらいの怪我してるなら、寝ててもいいのに」


「ええと……そこはちょっと、わけがあって」


 ロングバケーションと手当金を両方手にするために、本人のダメージ以上に大袈裟に申請した……というのは、愛莉にまで話すことではない。

 愛莉はしばし下を向き、ため息をついた。


「そっかあ。話したいこと、あったんだけどな」


「そうなの? 僕でよければ聞くけど、チェシャくんじゃなきゃだめな話?」


 愛莉の前に花札の茶托が置かれ、その上に抹茶ココアが載る。愛莉はその甘やかな香りに、顔を上げた。


「ん……シロちゃんにも聞いてほしい。というか、シロちゃんの方がいいかも」


 店内は静かだ。客は愛莉の他にいない。黙って聞くシロに、愛莉はぽつりと問いかけた。


「あたし、子供っぽい?」


 絵里香のなにげないひと言は、まだ愛莉の胸に刺さったままだった。愛莉は、あは、と不器用に笑った。


「これチェシャくんに聞いたら、間髪入れずに『ガキだろ』って言われるよね。シロちゃんに聞いてもらえてよかった」


 シロはまだ、口を結んで愛莉を見ている。愛莉は抹茶ココアを手に取り、口を近づけ、止めた。


「自分でも、大人だとは思ってない。でも、同い年の子と比べると、あたし成長止まってるのかなって……えっと、大人になりたくて焦ってるわけじゃないけど、なんか、なんていうか」


 話しながら、言葉が上手くまとまらなくなる。


「あ、えっと、チェシャくんのせいじゃないよ。チェシャくんがあたしを子供扱いするから気にしちゃったとかじゃないの。それはなんとなく、理由分かるし。そうじゃなくて、別の人から……」


 どんどん早口になって目を白黒させ、愛莉はやがて、言葉を切った。また下を向き、抹茶ココアの水面に目を落とす。

 シロはようやく、口を開いた。


「愛莉ちゃん」


 そして花札の茶托の横に、小皿を置く。市松模様の皿の上には、バタークッキーが二枚、載っていた。チョコレートのペンで「EAT ME」とデコレーションされている。


「わ! おいしそう」


 それまで悄気ていた愛莉の顔が明るくなる。単純な反応に、シロはくすっと笑った。愛莉はクッキーを手に取り、ハッとした。


「これ、『不思議の国のアリス』に出てくる、アリスの体が大きくなるクッキー?」


「そう、そのイメージで作ったんだ。パフェの装飾用に試作してみた」


「かわいい……って、もしかして、これを食べたら大きくなって、あたしも大人になれるって意味?」


 自分の相談と、童話の中のクッキーの意味がリンクして、愛莉はむすっとむくれた。


「もー! 子供騙し! 本当に大きくなるわけじゃないし、大きくなったところで、体だけ大きくなっても大人になるわけじゃないじゃん!」


「あははっ、ごめんごめん」


 シロは悪びれない謝り方をして、カウンターに組んだ腕を置いた。


「けど、体だけ大きくなっても中身が子供の人なんて、世の中にいっぱいいるじゃないか。チェシャくんなんて、成人してるのに未だに駄々っ子だよ」


「ん……」


 愛莉がクッキーを持った手を、自身の胸に引き寄せる。シロは穏やかに、彼女に微笑みかけた。


「愛莉ちゃんは大人っぽくなりたいんじゃなくて、嫌なこと言われて傷ついちゃったんじゃない? そういうときは、おいしいもの食べて、忘れちゃうのがいちばんだよ」


 言葉にならなかった自分の胸の中のもやもやを、シロに的確に見破られた気がした。愛莉はかわいらしいクッキーをしばし見つめて、力の抜けた笑みを零した。


「……ありがと、シロちゃん」


 チェシャ猫が、シロを「優しいんじゃなく、単に世話好きなだけ」と話していた。それも、シロの自称だという。だけれど愛莉は、シロの言葉も、行動も、優しさとして受け取った。


「ごめんね、なんか変な相談しちゃった。普段ならこんなの気にしないのに」


「謝らなくていいんだよ。たしかに愛莉ちゃんの魅力は、細かいことをなんにも気にしない天真爛漫なところだけどさ。明るいのと傷つかないのは、違うんだから」


 無理に明るくなくてもいい。傷ついてもいいのだと、受け止めてくれる。これも、シロの優しさだと感じる。

 愛莉はクッキーをひと口かじり、顔を輝かせた。バターの香りとミルクの風味が、同時に口に広がる。さっくりとしているのにしっとりもしていて、優しくしつこくない味わいが、幸福感に変わって脳を支配する。


「おいしー!」


 抹茶ココアを口に含むと、これがまた、クッキーとの相性が抜群にいい。一気に多幸感で満たされ、もやっとした気持ちは消し飛ばされた。

 くるくる変わる愛莉の表情に、シロも癒やされた。チェシャ猫の怪我や事務手続きで少し心労が募っていたが、愛莉を見ていると、それも気にならなくなる。

 幸せそうにクッキーを食べていた愛莉は、思い出したように、もうひとつ質問した。


「そうだシロちゃん。シロちゃんは、好きでもない人から貰うプレゼントって、気持ち悪い?」


「え?」


「好きでもないっていうか、人として好きではあっても恋愛的な『好き』ではない人って意味ね」


 途端に、シロの表情から微笑みが消えた。

 愛莉にはかつて、「ひと目惚れした」と言って近づいてくる少年がいた。しかし愛莉は彼を友人のひとりとしてしか扱わず、悪気もなく強かな対応をしていた。

 もしかしてまた、愛莉に好意を寄せる人が現れたのか。そして愛莉はまたもや、相手の想いを理解していないのではないか。


「愛莉ちゃん、それはどういう……いや、これは深く聞いたらバイト先の店長からのセクハラか。ええと、どうしたもんかな」


「ねえシロちゃん、質問への返事ー!」


 と、そんなやりとりをしているところへ、来客がやってきた。扉の鈴を揺らして入ってきたのは、羽鳥である。


「ハローハロー! あっ、女王いる」


「羽鳥さーん! この間はありがとね」


 愛莉はぴょんと椅子から立ち上がり、羽鳥の方へ駆けていく。

 そしてその直後、閉まりかけの扉に挟まるようにして、もうひとり入ってきた。


「シロちゃーん。昨日のチェシャくんの検査結果、分かった範囲で持ってきたわよ」


 眠たそうにぽてぽてと歩く、山根である。愛莉は羽鳥に挨拶したのち、山根にも近づいた。


「山根さんだ! なになに、ふたり一緒に来たの?」


「んー、たまたま一緒になっただけ」


「同じ店に同じ時間に用事があって、タイミングが被っちゃっちゃちゃちゃ!」


 羽鳥が楽しそうに笑い、カウンター越しのシロに、黒い腕時計状のものをひょいと手渡した。


「ほい、プレゼントフォーチェシャ猫の、レイシー探知機。あげて数日でぶっ壊すワンダホーなあいつに、返してあげて」


 獣レイシーの牙に砕かれてしまった、腕時計型の発明品である。羽鳥はこれを直して、シロに預けに来たのだ。

 シロはありがたく受け取り、発明品を改めて眺めた。


「すぐ直してくれてありがとう。チェシャくん、これ『便利だった』って褒めてたよ」


「うんうん! やっぱ俺ちゃんは天才だからね」


 褒められた羽鳥は、ご満悦である。


「チェシャ猫から『腕時計としても使えるように、時計機能も欲しい』って言われてたから、直すついでにアップデートしておいたよん」


「すごいね。時計機能がついたなら、もっと便利になるよ」


「うんにゃ。追加したのは音波の測定機能と録音機能とメトロノーム機能だよ。時計が欲しいって言われて素直に時計つけたら、面白くないじゃないか」


 いたずらっぽく笑う羽鳥に、シロは苦笑いを返した。利便性より自分が楽しいかどうかでカスタマイズするとは、自由気ままな羽鳥らしい。

 愛莉がシロの方へ顔を向ける。


「え! それ羽鳥さんが作ったの? しかも時計じゃなかったんだ」


 愛莉は興味津々に、羽鳥の袖を掴んだ。


「羽鳥さんがデザインしたの? 羽鳥さんってカラフルなの好きなのに、チェシャくん用のはチェシャくんに似合うように作るんだ。やっぱセンスあるー!」


「やっぱ発明品は、持つ人にかわいがってほしいからねー! 愛着のある道具ほど、壊れたときに動く感情はビッゲストだから」


「壊れたときを見据えてるー! 羽鳥さん、頭おかしくて大好き」


 楽しげにハイタッチする愛莉と羽鳥を横目に、シロは山根に問いかけた。


「山根さんは、チェシャくんの検査結果だっけ。どうだった?」


「彼が回収してきた獣のレイシーの灰から、微量だけど、チェシャくんのDNAが検出されたわー。噛み付いたときの血とか皮膚片ね。逆にチェシャくんの方からは、レイシーの成分は付着した灰くらいしか採れなかった。なにか注入された恐れは薄いわ。時間差で症状が出るという線は、殆どない。よかったわね」


 山根はカウンター席に座って、鞄から封筒を取り出し、シロに手渡す。


「ただ、あのレイシーは人の心の安定を喰うものだったわ。普段はすれ違いざまにじわじわと吸うんだけど、ガブッといかれたチェシャくんは、一気に喰われたかも。もしかしたら今、すっごく不安の中にいるかもしれないわー」


 シロは昨日までのチェシャ猫の様子を思い浮かべた。言われてみれば、収入がなくなるかもしれないと感じたチェシャ猫は、シロに噛みつかん勢いで拒絶していた。あれが不安の現れだったのかもしれないが、収入がなくなると知れば誰しも不安になるので、自然な反応ともいえる。


「うーん、不安を感じてたんだとしても、強がって口にしてくれない人だからなあ。ひとまず、これ以上は悪くはならないなら安心だ」


「そうねー、回復が始まってる頃じゃないかしら。そうはいっても、傷ついた心は、簡単には癒えないわ。不安が不安を呼んで勝手に落ち込んでしまうパターンもある。それは、レイシーに関係なく、人なら誰しも起こりうることよー」


 山根のそれは、ネガティブがネガティブを呼ぶシロ自身に向けられたかのようで、シロは気まずい笑みを浮かべた。

 一方愛莉と羽鳥は、シロと山根の会話は耳に入っておらず、ふたりはふたりで話していた。


「鏡のデザインも含めて、いろいろ調べてみたんだけんね、ジャバウォックに襲われた人、オサレな自前の鏡を持ち歩いてた人が殆どだべさ」


 羽鳥は、被害に遭った女性が持ち歩いていた鏡のデザインを、役所から教えてもらっていた。


「持ってる鏡も、お気に入りの一枚って感じでね。価格帯的には安いのもブランド物の意味分からんほど高いのもあったけど、持ってる本人にとっては大事なものなのかもなーって感じ」


「大事にしてる鏡ほど、ジャバウォックが入り込むのかな?」


「そうかと思えばそうでもなくって、鏡を持ち歩いてもない、まあ家に一枚あるかな? くらいの意識の人も被害に遭ってるんよ。なんなら、家で使ってる鏡割れてるけど気にしてねえ人もいた」


 そう話しつつ、羽鳥は唐突にシロを振り向いた。


「クリームあんみつ食べる!」


「はいはーい」


 羽鳥から注文を受け、シロは仕事に戻った。あんみつの支度をする彼に、山根が眠たそうに話す。


「チェシャくんがいなくてちょうどいいから、チェシャくんが聞いたら傷口開いちゃうような話、してもいいー?」


「わあ、嫌な予感。いいよ、聞こう」


 シロがあんみつ用のグラスを用意する。山根は彼の仕草を眺め、のんびり話した。


「飲み屋街のレイシーの話。あれ、やっぱり過去の旅行者を襲ってたのと動物研究チームを襲ってたのと、かなり近いものだったわー」


「ああ、そういえば、それの結果聞いてなかった」


 白玉片手に、シロが山根に相槌を打つ。話していた愛莉と羽鳥も、鏡の話はやめて、興味深そうに山根の方を向く。

 山根は鞄から、仕事用のタブレットを取り出した。


「喰われた人は、記憶が混濁した状態で見つかってたわよねー。お察しのとおり、レイシーは記憶を喰うタイプ」


 このレイシーは知能の低いもので、これといって考えがあるのでもなく特定条件の人間を襲っていた。条件に当て嵌まった人間は記憶を喰われ、決まった場所にワープさせられていた。だが酒で記憶をなくしているように見え、ただの酔っ払いと見なされ深くは捜査されなかった。結果的にレイシーは、大きな騒ぎを起こさないことで、継続的に餌を得ていたのである。


「それでねー、それの灰を解析して、喰われた人の記憶を映像化したのよ」


「へえ、どんな技術なのかさっぱりだけど、ポイソンはすごいなー」


 シロがグラスにあんみつに、ホイップクリームの絞り口を当てる。山根はタブレットを操作し、画面をシロに向けた。ぼやけた映像のサムネイルが映し出されている。


「喰われた被害者のキャバ嬢の記憶映像に、居酒屋っぽい場所で彼氏かなんかに客の愚痴を溢してる部分があってねー……」


 山根の見せるタブレットに、シロはクリームを手にしたまま、絞るのをやめて画面に集中した。山根の指が、映像の再生ボタンを押す。曖昧に歪んだ映像から、やはり歪んだ音声が、むにゃむにゃと流れ出す。


『なんかさー、うちの店に新しい区長来たんだけど、マジヤバい人っぽくてえ』


 新しい区長と聞いて、シロが眉を顰め、愛莉が目を丸くし、羽鳥がニヤッとした。


『この世界には、じわじわと人を喰う化け物がいるとか言ってんの。そいつらはレイシーと呼ばれてて、人に紛れてる。それを調べてるのが我が街が誇る、ポイソンコーポレーション! だってさ』


 流された音声を聞くなり、あんみつ目掛けてドバッと、ホイップクリームが噴き出した。

 思わず手に力が入ったシロが、勢い余ってクリームの絞り袋を握りしめたのだ。


『はは、そんなんで嬢の気を惹けると思ってんのかな。痛々しいおっさんが区長になっちまったなー』


 若い男性の嘲笑が入る。クリームはいまだ、あんみつにドボドボと注がれている。


『ネタにするにも寒すぎてー。あ、これユリたんだけに特別に教えちゃうとか言ってたから、秘密ね。意味分かんないけど、一応客の秘密だし。私が喋ったのバレる』


『いや、意味分かんなすぎてスベるから。言われなくてもネタにしないわ』


 嬢の辟易した声と、男の砕けた笑い声が重なる。愛莉は口をあんぐりさせ、羽鳥は目をまん丸くしてニヤけていた。

 映像の途中だったが、山根は停止ボタンを押して、タブレットを引っ込める。


「このとおり。どうやら新任区長さん、酔った勢いでポイソンの秘密をキャバ嬢さんに喋ったみたいー……」


 区役所は、狩人にレイシーの駆除を委託する機関である。ごくひと握りの人間だけは、狩人やレイシー、ポイソンの秘密を知っている。もちろん、区長も知り得る立場だ。

 ただし当然、守秘義務がある。狩人やその関係者を守るためにも、絶対に、秘匿しなくてはならない。酔って喋るなど、もってのほかである。


 あんみつからクリームが溢れ出している。シロは端正な顔に微笑みを貼り付け、手には血管を浮き上がらせていた。


「どこから洩れたんだろう、とは思ったけど。まさか区長とはね」


 情報漏洩の根源は、思いがけないところから発覚した。シロの握った拳が、クリームを絞り続ける。

 唖然としていた愛莉が、口を挟んだ。


「それじゃ、ポイソンに潜り込んでた警備員さんのレイシーは、このキャバ嬢さんが愚痴を溢してる場所に偶然居合わせたのかな……」


 レイシーと呼ばれているのが自分のようなものだと気づき、ポイソンを調べにきた。警備員の姿になり、建物に潜入した。

 青くなる愛莉に、山根は小さく頷く。


「多分ね。でもこの様子なら、キャバ嬢さんも彼氏くんもこれ以上口外してないと思うの。だから、さほど大ごとになっていない……というのが、我が社の見解」


 山根が目を閉じて、小さくため息をつく。


「偶然居合わせた警備員風一匹だけ、で済んでいればいいのだけど。そうであってくれないと、ポイソン社員も社屋も危険で仕方ないわー……」


 シロはようやく、クリームを絞り袋を置いた。


「本当だ。チェシャくんが聞いたら、傷口開いて出血したまま、区長を殴りに行くところだった」


 かくいうシロも、怒りで手が震えていた。

 その手を数秒休めて、シロはクリームまみれになったクリームあんみつのグラスを持ち上げた。


「羽鳥くん、クリーム、大サービス」


「いやっほーい」


 羽鳥は怒れるシロに、半分怯え半分面白がって、クリームの溢れるあんみつを受け取った。

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