手負いの獣

 休業していたシロはというと、自宅マンションで料理をしていた。


「とりあえず、様子を見るしかないか」


「ん。別に平気だと思う。傷も、そんな深くないし」


 胸に包帯を巻かれたチェシャ猫は、ダイニングの椅子に座らされていた。鍋の中のスープをかき混ぜていたシロは、振り返ってチェシャ猫を睨む。


「そういう問題じゃない! レイシーの攻撃されたんだよ? 見た目以上の傷を受けてるはず。精神的なものとか、記憶とか、なにか喰われてる」


「分かった分かった。何度も聞いた」


「何度も言わせないでよ」


 昨夜、チェシャ猫は人けのない裏通りに出るレイシーの駆除に出かけていた。壮年の男の姿をした、回遊するだけの大人しいレイシーである。入念に調査を重ね、役所からの許可も取り、通常どおりに銀の弾丸で撃ち抜いて、終わるはずだった。


 だというのに、レイシーは、彼らの調査を上回った。

 チェシャ猫の攻撃をたまたま躱したレイシーは、彼の気配に気づいた。敵意を察知するや否や、突如、巨躯の獣へと変貌したのである。チェシャ猫が受け身を取るより速く突進してきて、体に噛みつく。強烈な痛みとともに、チェシャ猫は咄嗟に死を意識した。


 目の前が歪んで、脳裏に別の情景が浮かぶ。

 交通事故に遭う実家の車、両親の骨壷、自分を憐れむ喪服の知人。血を流す妹、そして――。


 一部は、見たこともないはずの景色だった。頭に浮かんだ嫌な光景を振り払う。胸に牙が刺さったチェシャ猫は、感情に任せて獣の額に銃を当て、二、三発弾を撃ち込んだ。レイシーの牙が離れると、視界が戻って我に返った。

 レイシーも抵抗して再度噛み付いてきたが、腕の探知機を盾にして牙から身を守る。

 激しい攻防の末、レイシーは灰となったが、チェシャ猫も無傷では済まなかった。流血で朦朧とする頭で、なんとかシロに連絡し、彼の家へと体を引きずったのである。


「いやー、困るよチェシャくん。怪我したならしたって先に言ってくれれば、救急セット用意しておいたのに」


 スープにたまごを落とし、シロがため息をつく。


「というか、そんな大怪我なら僕を頼るんじゃなくて、救急車を呼びなさいよ」


「意識がぼうっとして、思いつかなかった」


「よく僕のところまで歩いてこられたね。途中で倒れなかったのが不思議なくらいだよ」


 大怪我で自宅へ辿り着いたチェシャ猫を見て、シロは応急処置を施した。救急車を呼び、そのまま朝まで病院で過ごした。

 出血量は多くふた針縫ったが、傷は内臓までは達しておらず、骨折もなかった。日帰りの手術で済み、日が昇ってから、彼らはシロ宅へ帰ってきた。現在は落ち着いており、自力で歩くのも、今のところ問題ない。


「ただの獣に噛まれた傷ならまだしも、相手はレイシーだからね。外傷だけでなく、目に見えないものを喰われてると思われる。噛んだ相手を仲間にする、ゾンビ形式のレイシーもいる」


 シロはスープを盛り付け、テーブルに置いた。


「ポイソンには連絡しておいたよ。傷を診ただけじゃレイシーになにされてるかは、ポイソンでも分からないそうだけど、念の為、研究室で検査するって。そんで、もしチェシャくんが化け物と化したら、地下室に閉じ込めてくれるって」


「化け物と化したら殺してくれ」


 現状、チェシャ猫は普段とさほど変わらない。しかしもう少し生活してみないと分からない。性格が変わったり、情緒が不安定になったり、ポイソンが気にするように、突如チェシャ猫自身が化け物と化す可能性だってある。

 自分では気づかなくても、他人の目から見れば気づくこともある。シロは慎重に、チェシャ猫の様子を見ていた。


「傷、痛む?」


 シロに尋ねられ、チェシャ猫は自身の胸の辺りをちらりと見下ろした。


「そんなに。耐えられないほどじゃない」


「今日、なにかお仕事する予定だった?」


「バイトが二件」


 傷を庇えば、動けないこともない。しかしシロは許さなかった。


「どっちもキャンセルしてね。この先もしばらく、シフト入れちゃだめだよ」


「大袈裟だな。このくらいの怪我なら問題ない。それより収入がなくなる方がまずい」


 チェシャ猫が身を強張らせると、同時に傷がズキッと痛んだ。歯を食いしばる彼を横目に、シロは一歩を譲らなかった。


「さっきも言ったでしょ。君はレイシーになにか喰われてるんだよ。突然化け物と化したらどうするの? どちらにせよ、その怪我じゃ休んでもらわないと現場にも迷惑がかかる」


「ふざけんなよ、金持ちのあんたには分からんだろうが、こっちは家賃と税金と妹の生活費でカツカツなんだよ」


 カッと牙を剥くチェシャ猫の前に、ハーブで焼いた魚料理が置かれる。運んできたシロは、共感するどころかさらに付け足した。


「狩人のお仕事も、しばらくお休みね」


「おい、痛くないし、なんも喰われてない。化け物に喰わせるものなんか持ち合わせてない。どこもおかしくない」


 いよいよ焦りはじめたチェシャ猫に、シロは言った。


「と、いったように、レイシーの攻撃による負傷によって生活に著しく損害を与えられ、所得に大きな影響がある場合、役所から手当金が支給されます」


 それを聞いた途端、チェシャ猫は口を半開きにして黙った。シロがきれいに炊けた白米を、彼の前に置く。


「傷病の度合い、それによる日常生活への影響、本人の精神的苦痛などを加味し、さらに休業期間の長さに応じて支給額が決定する」


 マニュアルを読むかのように、滔々と説明がなされる。


「狩人は危険と隣り合わせの仕事だから、こういうときの福利厚生は結構いいんだよ。申請内容によっては、普通に狩人の仕事をするより怪我して手当金貰った方が儲かる場合もある」


「……痛くなってきた」


 チェシャ猫が急に、しおらしく痛がりだした。シロは腕を組んで、彼を見下ろしている。


「どれくらい痛い?」


「かなり」


「もうひと声」


「いってえー。歩けねえ」


 棒読みで訴えるチェシャ猫に、シロは満足げに頷いた。


「よし。じゃあ、チェシャくんは日常生活に支障をきたすほどの大怪我を負い、狩人の仕事も兼業の仕事も行けなくなった。所得を失った上に、職場の人間関係にヒビが入って、精神的苦痛を味わったんだよね。役所にはそう報告しておこう」


 チェシャ猫が自称した以上に被害を付け加えて、シロは自分も席についた。

 チェシャ猫は数秒、言葉をなくした。狡賢さというのか、雑草根性というのか。この状況すらもおいしく調理され、「この人には敵わない」と思わされる。


「でも、本当はさして痛くないし、精神的にも余裕がないわけじゃない。手当金貰いながら、バイトは出る」


 チェシャ猫は手当金と給与の二重取りを目論むも、シロにあっさり却下された。


「だめだよ。ちょうどいい機会だ、久しぶりにたっぷり休むといいよ。これまでちょっと働きすぎだったしさ、たまにはのんびり過ごしなさい」


 シロは強かなようでいて、なんだかんだ、チェシャ猫の体の心配もしているのだ。


「今日一日は、僕がついてないときは外に出ないでね。出先でなにかあったら困る」


「軟禁じゃねえか。過保護すぎる」


「レイシーに噛まれた自覚を持ちなさい。君、狩人でしょ? プロなら分かるよね」


 こっそり出かけてバレても面倒なので、チェシャ猫は大人しく従うことにした。


 *


 ポイソンへ検査に行ったものの、やはり現時点では結論が出なかった。

 シロはチェシャ猫を自分の自宅マンションへ連れていき、シロ自身は、役所へチェシャ猫の休業申請と手当金申請の手続きへ向かった。


「チェシャ猫が休業? 体調不良で?」


「地域安全課」の窓口で、深月が申請書類を支度しつつ不思議がる。


「あいつが? 変なもんでも食ったか」


「変なもんに喰われたんだよ。レイシーにガブッと」


 シロは深月から書類を受け取った。


「日常生活に支障をきたすほどの大怪我を負い、狩人の仕事も兼業の仕事も行けなくなって所得を失った上に、職場の人間関係にヒビが入って、精神的苦痛を味わってる。落ち込んでしまって食事も喉を通らない。そしてレイシーに噛まれた影響で、これからいきなり化け物になってしまうかもしれない。かわいそうでしょ?」


「ぜってー話盛ってるだろ。まあ、そういうことにしといてやるけど……」


 深月は半ば呆れつつ、さらにもう一枚、書類を差し出す。


「生活に支障をきたすほどの怪我なら、介助する人も併せて申請しないといけないぞ」


「えっ、そうなの?」


 シロが宙を仰ぐ。

 実際の現在のチェシャ猫は、激しい運動こそ控えているが、介助が必要なほどではない。とはいえ、怪我が重くなくても、レイシーに喰われてこれからなんらかの症状が出るかもしれない。異常を察知できるように、誰かしらがチェシャ猫の日常を観察しないといけない。

 本人にその説明をしたら嫌がりそうだが、仕方ない。


「介助が要るほどの状態じゃないと、手当金が弾まない……とでも言っておくか」


「そうだな。実際、介助の要不要で、金額はがくっと変わる」


「それじゃあ絶対、必要ってことにしておかなくちゃ」


 シロはそう言い、足された書類を受け取った。


 *


「というわけで、チェシャくん。君にはしばらく、ここで暮らしてもらいます」


 自宅マンションに帰ってくるなり、シロはチェシャ猫に深月の見解を告げた。ソファで横になっていたチェシャ猫は、しばらく目を見開いて、固まっていた。やがてばっと起き上がり、大きめの声を出す。


「は!? ……あっ、痛っ」


「急に動くからだよ。あとで着替えとか生活必需品とか、取りに行こう」


「なんで勝手に話進めてんだ?」


 上体だけ起こした姿勢で、チェシャ猫がシロを見上げる。シロはマイペースに答えた。


「今しがた説明したとおり、観察が必要と言われたので、こうせざるを得ませんでした」


「それは書面上、重症っぽく申請するからだろ。俺はひとりで生活できる。精神面とか、そっちの症状がなにかしら出たとしても、自分でなんとかする」


 自分の預かり知らないところで、いつの間にかシェアハウスが決定していたのだ。困惑するチェシャ猫に、シロは困ったように笑いかけてキッチンへ向かった。


「虚偽申告扱いになったら手当金が貰えないどころか罰則だよ。形だけでも、僕が介助してることにしておかないと。いずれにせよ、レイシーに喰われた症状は、いつ出るか分からないんだし」


「だからって……」


 チェシャ猫はソファを降りて、シロを追いかけた。

 これまで長くひとり暮らしをしていたのだ。それが突然今日から帰れなくなり、この人の元で暮らすことになる。あまりに急な話で、気持ちが追いつかない。


「俺はともかく、あんたはいいのか? 自分の縄張りに他人がいて、気にならないのか」


「チェシャくん、しょっちゅうここでごはん食べて、そのまま泊まってくじゃないか。今更気にならないよ」


 夕飯の支度を始めようとするシロは、ついてきたチェシャ猫を振り返った。


「今夜はサバ味噌煮だよ。今後君が住んでる間は、リクエストを受け付けよう。食べたいものがあったら、早めに言ってね」


 シロの甘い囁きに、チェシャ猫は呆然と立ち尽くした。

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