Act.7

桜吹雪

 四月に入った。真夜中の東京に、風に乗って桜の花びらが漂っている。月明かりを受けたそれは、白く光って見えた。


『駆除した。一旦シロさんち寄っていいか』


 今夜もレイシーを駆除しにいったチェシャ猫が、仕事を終えた。彼からの連絡を受け、自宅マンションにいたシロは律儀に茶の支度を始める。やがてチェシャ猫が到着し、シロは玄関の扉を開けた。


「お疲れ様」


 室内の明かりが、外廊下の暗闇に立つチェシャ猫を照らす。黒シャツに黒いスプリングコートのチェシャ猫は、夜闇の中に溶けて見えた。

 風が桜の花びらを舞わす。玄関から洩れる光が、薄く、白い粒を光らせる。

 片足に重心をかけた姿勢で佇んでいたチェシャ猫は、シロの方へ踏み出し、そしてよろめいた。胸に倒れてきた彼を受け止めて、シロは半ば驚きながらも、にこりと微笑む。


「大丈夫?」


「悪い。ちょっとよろけた」


 チェシャ猫はシロの肩に手を置き、身を離す。


「お茶いれたよ。上がっ……」


 チェシャ猫を招き入れようとして、シロは息を呑んだ。

 自身の体に、べったりと赤い染みが移っている。


「……わり」


 チェシャ猫が青白い顔で謝る。シロはしばし、思考が停止した。

 チェシャ猫の着ている服が暗い色のせいで、目立たないだけだ。胸元から腹にかけて、激しく血が滴っている。腕につけているレイシー探知機が、ひび割れて砕けている。

 外廊下の床に落ちていた桜の花びらは、血を吸って赤く濡れていた。


 *


 春休みが明けて、愛莉は二年生に進級した。クラス替えで、いちばんの友人である絵里香とは教室が離れてしまったが、放課後に待ち合わせて今日も一緒に帰る約束をしていた。

 桜の花びらが風に舞っている。強い春風に前髪を擽られ、愛莉はぎゅっと目を閉じた。


「うあ! 目にゴミが」


 立ち止まって前髪を払い、愛莉は制服のポケットから鏡を取り出した。白地にハートのワンポイント入りの、羽鳥から貰った鏡だ。カパッと蓋を開いて、鏡に目を映す。隣を歩いていた絵里香も、足を止める。


「愛莉、鏡、持ち歩いてたんだ。私も持ってるよ。ファッション誌の付録だけど、ブランドロゴ入ってて、かわいいんだ」


 絵里香が鞄から取り出したのは、淡いラベンダー色の缶ミラーだった。ゴミを払った愛莉と、鏡を差し出す絵里香は、互いに鏡を交換して見せ合った。


「絵里香のかわいいね。お洒落ー」


「愛莉のもいいじゃん。どこで買ったの?」


「駅の雑貨屋さん。買ってもらったんだ」


 愛莉が嬉しそうに、買い物をした日を思い出す。絵里香はにまっと笑って、掘り下げた。


「買ってもらった? あれか? お気に入りのチェシャくんとやら? いつの間にデートする仲に……」


「ん? 違うよ。チェシャくんはそんなにあたしに優しくないよ。それは羽鳥さんっていう、大学生のおにいさんから貰ったの」


 愛莉があっさり否定すると、絵里香は、眉を顰めた。


「誰? 愛莉が好きなのって、チェシャくんじゃなかったっけ?」


「そうだよ。そうだけど、鏡をくれたのは羽鳥さんなんだよ」


「なにそれ。好きでもない男からのプレゼントって、気持ち悪くない?」


 絵里香が鏡を突き返してきた。愛莉はきょとんとしながら鏡を受け取り、絵里香のものを返す。


「羽鳥さんのことも好きだよ。『好き』の種類はチェシャくんとは違うけど。あ、でもチェシャくんへの『好き』も、どの『好き』か自分でもよく分かんないときある」


「えー……意味不明」


 絵里香は引きつった笑いを浮かべ、ラベンダー色の鏡を鞄のポケットに滑り込ませた。


「愛莉ってさ、なーんかちょっと、お子様だよね」


「ん、そうかな」


 愛莉は鏡を、両手で庇うように抱え、胸に押し付けた。


「あは……絵里香は大人っぽいもんね。彼氏いるし」


 愛莉は手の中の鏡を見て、小首を傾げた。絵里香はそうでも、自分はこれを貰って嬉しかった。それは間違いない事実だから、なんと言われようと、特に気にはならないが。


「そうだね。私、彼氏以外からなんか貰うの受け付けられないもん」


「そっかあ。そういうものなんだ」


 なんとなく、胸がちくっとする。痛みの理由も分からないまま、ふたりは途中で別れ、それぞれの帰路へついた。

 真っ直ぐ帰ろうとした愛莉だったが、ふと、足を止める。直帰はやめて、『和心茶房ありす』へと、少し駆け足で向かった。なんだか胸がもやもやする、気がする。だがきっとあの店でシロの抹茶ラテでも飲めば、すぐに忘れる。


 そう思ったのに、店の扉には「CLOSE」の札がかかっていた。

 定休日ではない。臨時休業だ。愛莉はカーテンの閉まった窓をしばらく見つめ、下を向いた。

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