子供じゃないもん

 巡の手足の痺れは、徐々に頻度も強さも増していった。自分の足で歩くことすら覚束ず、ベッドで過ごしている時間が長くなっている。

 ぬいぐるみを抱えて横たわっていると、部屋の扉がノックされた。


「巡ちゃーん! 愛莉だよー!」


「おい。寝てるかもしんねえんだから大声出すな」


 扉の前にいるらしき愛莉の、弾んだ声がする。巡は勢いよく頭を上げ、ベッドから降りようとしたが、脚が動かなかった。


「愛莉お姉ちゃん! 入って」


 ベッドから声を投げると、扉が開いた、視界は真っ暗だが、駆け寄ってくる愛莉の気配を感じる。


「巡ちゃーん!」


 その明るい声に続いて、もうひとり分、声がする。


「うるせえ。目が不自由だと他の器官が鋭くなるから、聴覚が敏感になる人もいるって話しただろ。騒ぐな」


「お兄ちゃん、愛莉お姉ちゃん連れてきてくれたんだね。ありがと」


 巡が素直に喜ぶと、チェシャ猫は口を噤んだ。愛莉はベッドの横に座って、巡と手指を絡めている。巡は手から感じる愛莉の体温に、なぜだか胸がほっとしていた。


「愛莉お姉ちゃん、お兄ちゃんいい子にしてる?」


 シロにしたのと同じ質問である。愛莉も、示し合わせたのでもないのに、シロと同じような反応をした。


「全然! いつも機嫌悪いしすぐ怒る! でも、すっごくかっこいいよ」


「ご迷惑おかけしてます」


 巡が苦笑いで言うと、愛莉はえへへと笑って手を解き、巡の黒髪を撫でた。


「そこがいいんじゃん。巡ちゃんも、そんなお兄ちゃんが大好きなんでしょ? あたしもだーい好き」


「付き合ってるの?」


 巡の直球な問いかけには、愛莉より先にチェシャ猫が否定した。


「そんなわけねえだろ。こいつ、あんたと変わんないくらい子供だぞ」


「変わんなくはないよ! 巡ちゃんは十四歳で、あたしは十六歳だもん」


 愛莉も言い返すが、チェシャ猫は態度を改めない。


「変わんねえじゃねえか」


「こうやって子供扱いするんだよ。十四歳だって十六歳だって、恋はするのに」


 愛莉が巡に告げ口する。巡はふたりのやりとりに、ふふふっと笑った。愛莉がいるときの兄は、肩の力が抜けている。家族が揃っていた頃の、冗談を交わし合っていた日常が、巡の脳裏に蘇る。


「お兄ちゃん」


 巡は硬い動きで、ベッドの外へ手を伸ばした。その手を、大きな手が受け止める。見えないけれど、そこにたしかにいる兄を改めて確認して、巡は話しだした。


「もしも私がこのまま動けなくなっても、お兄ちゃんは元気でいてね」


「は? 動けるようになれよ」


 チェシャ猫がにべもなく言い返す。巡はあはは、と笑った。


「もしも、だって。シロさんも愛莉お姉ちゃんも言ってるとおり、お兄ちゃんは無愛想でかわいくないから、心配なの。私がいなくても、ちゃんとしてよね」


「だから……」


 ぽす、と、巡の肩に小さな衝撃があった。


「だから、んなこと言ってる暇があったら、動けるようになれ」


 声の距離で分かる。巡の肩に、チェシャ猫が頭を置いている。巡は握っていた手を解いて、手探りで兄の髪を撫でた。


「もう、話聞いてよ。もしも、だってば」


 扉がノックされる。施設の職員が顔を出し、チェシャ猫を呼んだ。


「巡、ちょっと話してくる」


 巡にひと声かけて、チェシャ猫は部屋を出ていった。巡とふたり残された愛莉は、巡に顔を近づけ、少し声のトーンを落とした。


「ねえねえ。お兄ちゃんいなくなったし、秘密の話しよう」


「え?」


「ほら、女の子同士の方が話しやすいこともあるでしょ。お兄ちゃんには言いにくいとか、聞かれたくない話とか。そういうときは、あたしを頼ってほしいんだ」


 愛莉が詰め寄る。巡はしばしぽかんとした。なにもできなくなっていく自分に、こんなふうに寄り添ってくれる人がいる。見捨てられていないのだと、改めて感じる。

 ぬいぐるみを抱きしめ、巡は手を宙に浮かせた。


「あのね」


「うん」


 浮いた巡の手のひらを、愛莉の手が拾い、握る。巡は頬を綻ばせた。


「お兄ちゃんには内緒だよ。私ね、実は好きな男の子がいるんだ」


「おおっ! そうなの?」


「うん。同じ施設にいる、弱視の子でね。私がペッパーを落としちゃっても、拾って手渡してくれるんだ」


 照れくさそうに話す巡の手を握り、愛莉はベッドに頬杖をついた。誰にも言わずに隠していた、小さな恋の話が紡がれる。

 巡は体が動かなくなってきて、不自由が増えてきている。だけれど、心を豊かに保って生きるのが上手い。本人の気持ちは本人にしか分かり得ないが、巡が巡なりに、今の自分を受け入れて生きているのは、伝わってくる。

 愛莉はうんうんと、頷きながら聞いていた。


 *


 その帰り、ホームで電車を待つ間、チェシャ猫は愛莉に言った。


「次回からは、もう少し近くなる」


「巡ちゃん、引っ越すの?」


「ん。これからは施設じゃなくて、病院で暮らす」


 巡の体の麻痺は、今後、手足などの末端だけでなく全身に及ぶようになる可能性が高い。生活支援が難しくなるため、入院生活になるのだ。

 愛莉は思わず口を半開きにした。先程、巡から、施設に好きな男の子がいると聞いたばかりだ。離ればなれになってしまうと思うと引っ越しを止めたくなったが、しかし、これは巡の健康上の都合で決まったことだ。それに巡の小さな恋心は「お兄ちゃんには内緒」と言われている。

 愛莉は背中で手のひらを組んだ。


「そっかあ。じゃあこれからはもっとガンガン会いに行けるね! あたしもお見舞いに行ってもいい?」


「病院だからな? うるさくすんなよ」


「うるさくしなければ行ってもいいんだね!」


 肯定と受け取って、愛莉がニーッと笑う。チェシャ猫は一瞥だけくれて返事はしなかった。

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