Act.5

猫の飼い主

 チェシャ猫がポイソンのレイシーを討った、翌週の水曜。


「お久しぶりです、シロさん! お兄ちゃんがお世話になってます!」


 片田舎の小さな福祉施設。その談話室で、少女はお行儀よくお辞儀した。チェシャ猫に連れられてきたシロは、にこっと微笑んで返す。


「ご無沙汰してます、巡ちゃん。元気にしてた?」


 椅子にちょこんと座るその小柄な少女は、顔の鼻から上が包帯で覆われている。腕も脚も細くて顔も痩せて、シロの横に立つ兄とはまるで似ていない。だが、赤みのない漆黒の髪だけは、そっくりだ。

 少女――巡は、唯一見える口元で、愛らしくはにかんだ。


「この頃ちょっと、体が思うように動かないけど……元気です。来てくれてありがとうございます!」


 そう笑う巡の前にしゃがみ、チェシャ猫は彼女と視線の高さを合わせた。と、椅子の足元に大きな桃色の丸い塊が落ちている。床にくたっと寝そべるそれは、豚のぬいぐるみだった。愛莉が巡へと、プレゼントしたものだ。

 チェシャ猫はそれを拾い、巡の膝に乗せる。


「ペッパー」


 名前を言いながら渡され、巡はハッとしてその柔らかな豚を両手で抱いた。


「あ! 拾ってくれてありがと」


「この頃、手足が痺れるんだって?」


「そう。それで、この子も抱っこしてても、時々落としちゃうの」


 巡は胸にぎゅっと、ぬいぐるみを抱き寄せた。


「でも私、目が見えなくて……落ちちゃっても、上手く拾えない」


「そんなもん施設の先生に拾わせりゃいんだよ。あんたは自分の体の心配だけしてろ」


 巡の手足の痺れは、今のところ頻度は多くないらしい。とはいえ食事中に食器を持てなくなったり、突然立てなくなったり、日常に支障をきたしている。

 巡は露出している鼻から下を、ぬいぐるみの頭で覆った。自分の体が弱っていくのを自覚しているのだろう。表情を読めなくても、彼女の不安はチェシャ猫にもシロにも充分伝わった。

 シロは巡の前に座り、そっと、彼女の手の甲に自分の手を重ねた。


「大丈夫、大丈夫。みんな味方だからね」


 優しげな声掛けをして、巡の腕、肩を、ゆっくりと撫でていく。


「お兄ちゃんもいるでしょ。だから、大丈夫」


 なんの慰めにもならない言葉なのは、シロにも分かっている。それでも、シロの温かい手に、巡の心は解きほぐされていった。

 ぬいぐるみにうずめていた顔を上げ、再び、唇を見せる。


「ねえ、シロさん」


「ん?」


「お兄ちゃん、いい子にしてる?」


 その質問に、チェシャ猫本人は怪訝な顔をし、シロは噴き出した。


「全っ然! 仏頂面でかわいげなくて困ってるよ。巡ちゃんからも言ってやって」


「お兄ちゃん……シロさんに迷惑かけちゃだめ。お兄ちゃんは昔からそう。怖い人じゃないはずなのに、いつもツンツンして……」


 お説教が始まり、チェシャ猫はたじろいだ。眉間に皺を寄せて、普段以上に険しい顔になる。


「わざとじゃない」


「わざとじゃなくて怖そうな人になっちゃうなら、わざとにこにこしてた方がいいよ」


「難しい……」


「私、目は見えないけど、今もどんな顔してるか分かるからね。どうせ眉間に皺刻んで、睨んでるみたいな目つきしてるんでしょ。だめだよ、ちゃんと笑わないと」


 完全に言い当てられたチェシャ猫は、眉間の皺をより深くして、黙った。シロがぽんぽんと、巡の細腕を軽く叩く。


「大正解! 流石は妹さん」


 チェシャ猫は無言で巡を見上げていたが、やがて立ち上がり、談話室を出ていった。その背中を見送り、シロはまた、巡に向き直る。


「お兄ちゃん、言い返せなくて逃げたぞ」


「そこも相変わらずだなあ。口喧嘩では私に勝てないんです」


「ははは! 強いね、巡ちゃん」


 シロの晴れやかで優しい声に、巡も釣られて微笑む。そして手を浮かせ、シロの手を両手で包んだ。


「シロさん、お兄ちゃんをよろしくね」


 シロは、ん、と短く喉を鳴らした。巡の小さく柔らかな手が、シロの手をきゅっと握る。


「お兄ちゃん、不器用だから、生きてくの下手そうなの。目標がないとだめになりそうなの。そうならないように、シロさん、見ててください」


「うーん……」


 シロは巡を見上げ、唸った。


「僕にはあれの手綱を取るのは難しいよ。巡ちゃんがやってよ」


「そうかなあ」


「そうだよ」


 シロが言うと、巡は彼の手を解いた。代わりに今度は、シロが巡の手の甲を撫でる。


「巡ちゃんが面倒見てやって。お兄ちゃんが頑張れるように、応援してあげて」


 それからシロが談話室を出ると、チェシャ猫は案外、扉のすぐ傍で壁に寄りかかっていた。至って無表情である。

 彼と目が合うと、シロは言った。


「あれ。泣いてるかと思ったのに」


「なわけあるか」


「強がらなくていいんだよ。そんなんだから巡ちゃんに心配かけちゃうんだよ」


 シロに笑いかけられると、チェシャ猫は目を伏せた。シロはニーッと、より口角を上げる。


「強がらなくていいけど、強くいてね。巡ちゃんが安心できるように」

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