万事解決ともいかず

「やったねチェシャくん! 二日しか働いてないのに、五日分の日当! しかも早期解決ボーナスまで出たんだってね!」


 後日、『和心茶房ありす』。僅か二日で元の日常に戻ったチェシャ猫は、店内で愛莉に飛びつかれていた。

 チェシャ猫が警備員、もとい、その姿をしたレイシーを駆除した翌朝、社内全ての電子機器の調子が戻っていた。そして、紛れ込んでいたはずの警備員の存在は、ほぼ全員の記憶から消えていた。共に働いていた警備室の警備員たちですら、誰も覚えていない。ただ、いない人物の名前が巡回記録に残っていて、騒ぎになってはいるらしい。

「ほぼ全員」というのも、例外もいるからである。あの警備員を「本来いないはずの人間」と認識したチェシャ猫、山根、チェシャ猫が報告したポイソン上層部といった一部だけは、記憶に残している。


 記憶を書き換えられている以上、「いないはず」だと気づくのは容易ではない。だが一度見抜いてしまえば、意識する。レイシーの攻撃は、それだけで防げるのだ。


 愛莉はチェシャ猫の腕に頬ずりし、それから彼の仏頂面を見上げた。


「でも、ちょっと意外。日当制だったなら、特定に時間かかってるふりをして引き延ばせば、もっとお金貰えたんじゃない?」


「そんな悠長にしていられる相手じゃなかった」


 チェシャ猫が和紅茶をひと口飲む。愛莉は一層不思議そうに首を傾げた。


「そうなの? 機械壊しちゃうだけで、人が危険な目に遭うレイシーじゃないじゃん」


「そっから説明が必要か。電気を乱せるってことは、データを盗んだり、機密文書がある部屋の扉を壊せるっつーことなんだよ。よりによってポイソンだぞ。もっともレイシーに見られたくないものがたくさんある場所だ」


「わあお! そういう!?」


 やっと危機感を持った愛莉は、勢い余ってチェシャ猫から顔を離した。カウンターの奥でいちご豆乳を作っていたシロが、チェシャ猫に代わって頷く。


「そうだよー。これでデータを持ち出されて、他のレイシーにも共有されちゃったりしたらと思うと。真っ先に狩人から殺されるだろうから、チェシャくんものんびりしてられなかったよね」


 それから彼は、神妙な顔でチェシャ猫の横顔を見た。


「ひとまず当該レイシーは、チェシャくんがやっつけてくれたけど……手放しでは喜べない」


「えっ? そうなの?」


 愛莉がきょとんとする。チェシャ猫は、彼女の頭頂部を一瞥し、頬杖をついた。


「レイシーを殺す間際、山根さんが検証した。わざとレイシー本人に聞こえるように、レイシーの研究室の場所を言った。そしたらレイシーは、残業していた山根さんが立ち去るタイミングを見計らって、伝えた場所に現れた」


「うん。……うん?」


 愛莉はまだ、今ひとつ理解していない。チェシャ猫が和紅茶を啜る。


「つまり今回のレイシーは、理由もなく偶然ポイソンに出現したんじゃない。ポイソンでレイシーの研究が行われているのを知っていて、データの在り処を探りに来てたんだ」


 シロが温かいいちご豆乳を盆に載せて、カウンターから出てきた。


「それに、レイシーは自分たちが『レイシー』と呼ばれているのも、自分たちを追いかける狩人という存在も、基本的には認知していない。それなのに、『レイシーの研究室』を捜していた。つまり……」


 コト、と、いちご豆乳が入った愛莉専用の湯のみが、テーブルに置かれる。


「誰かから『レイシー』という言葉と、ポイソンという場所に研究室があるのを、教わっているんだよ」


 愛莉は数秒、シロを見上げて絶句していた。しばらくすると、チェシャ猫にしがみついている腕にギュッと力を込めて叫んだ。


「えええー! どこかから情報が漏れた!? レイシーを『レイシー』って呼んでレイシーの調査をしてるの、レイシーにバレちゃった!?」


「その可能性が高い」


 シロが盆を抱き寄せ、虚空を仰ぐ。


「幸い、レイシーの研究をしてる山根班は、深夜も残業続きでほぼ常に誰かしらが残ってるから、本当の研究室には侵入されていない」


「うわー、深夜残業しないでほしいけど、深夜残業しててくれてよかったあ」


 愛莉が複雑そうに言う。

 すでに入られているが職員の記憶を消されている、というケースは、恐らくない。レイシーは山根の罠にかかり、彼女が去るのを見計らって行動していたくらいだ。いないはずの存在である自分を他人の記憶に捩じ込む能力はあっても、記憶を飛ばすまではできないと考えられる。

 チェシャ猫が腕を動かし、くっつく愛莉を振り払う。


「大概のレイシーは協調性がない。レイシー同士で情報交換をするという例は、滅多に見られないと聞く。でも今回の警備員が異例で、情報を広げてるかもしれない。漏れた噂を聞きつけてる奴が他にもいそうだしな。今後も、ポイソンには定期的に調査に入ることになった」


 しかし少し腕を浮かせたくらいでは、愛莉は剥がれない。


「そうだよね。警備員さんだけじゃなくて、すでに他にもいるかも……あっ、それじゃチェシャくんのスーツ姿、これからも見られるんだ! やったー!」


「調査に行くたびに金が入る。悪くねえ」


 チェシャ猫も、ポイソンの金払いのよさに関してはご機嫌である。

 ふいにチェシャ猫は、腕に張り付いたままいちご豆乳を飲む、愛莉に目をやった。


 ポイソンに愛莉が突撃してきた二日目の昼を思い浮かべる。あのときチェシャ猫は、警備員風レイシーの尾行をしていた。彼に近づくと温度計の数字が狂う。

 同じ職場の事なかれ主義警備員も、エアコンと携帯の不調を訴えていた。

 しかし愛莉は、影響を受けていなかった。食堂でシロにメッセージを入れていた彼女は、普段どおりに携帯を使いこなしていたのだ。


 そして事なかれ主義の警備員は、愛莉と話している間、「気が紛れる」と笑っていた。同僚に紛れて間近にレイシーがいたこの警備員は、電子機器が壊れるストレスだけでなく、精神的に蝕まれていてもおかしくはない。

 レイシーを弾く愛莉の明るさは、レイシーに弱らされた人間を回復させる力もある。チェシャ猫は愛莉を帰す際、敢えて自分が同行せず、仲良くなった警備員に頼んだ。愛莉が傍にいれば、彼のためにもなると踏んだからだ。


 チェシャ猫の視線に気づき、愛莉は目を上げた。


「あ! 見つめてくれてる」


「別に。見てねえし」


 愛莉のある種の異能力を評価しているが、褒めればうるさそうである。チェシャ猫はふいっとそっぽを向いた。

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