三階、西の突き当たり

 深夜。ポイソンの社屋に、コツコツと足音が響いていた。夜の見回りをする、当直の警備員だ。

 廊下に自分以外の気配はない。午前様で残業する社員も多い会社だが、それぞれ自分の席に根を張っている彼らとは、滅多にすれ違わない。


 警備員は広い社内を、ゆっくりと回遊した。三階を歩き、西の方に向かっていく途中、久しぶりに社員とすれ違う。疲れた顔をした長い髪の女が、コーヒーを片手にふらふら歩いていく。

 警備員は、彼女が出てきた西の突き当たりの研究室の前で、立ち止まった。出退勤の記録によると、今夜はこの部署の所属の社員は殆どが退勤しており、今の女しか残っていない。それがいなくなったこの研究室は、現在、中に誰もいない。

 扉は固く閉ざされている。ここに限らずどこの研究室も、所属する社員か一定以上の地位の者の指紋を認証しなくては、扉を開けられない。


 警備員は、その扉の指紋認証リーダーに、自身の指を近づけた。リーダーがパチッと音を立て、ランプが光り、扉が開く。

 扉の向こうには、機材や資料が乱雑に積まれた、物置のような部屋である。警備員が中に足を踏み入れようとした、そのときだ。


 カチッと、後頭部のあたりで、硬い音がした。 


「残念だったな。ここ、新入社員でも入れる備品倉庫だぞ」


 真後ろから聞こえた声に、警備員は肩を強張らせる。

 ここまで、背後に人の気配を感じなかった。一体いつから、あとをつけられていたのだろう。


 警備員の頭には、拳銃が突きつけられている。

 その銃の主、チェシャ猫は、スーツ姿ではなく動きやすい普段着に、春物のコートを羽織っていた。銃口をレイシーの後頭部に向け、感情の篭もらない声で同情めいた台詞を吐く。


「あんたが欲しがってる極秘資料は、ここにはない。レイシーって、化け物のくせに人間くせえ騙され方するよな」


 警備員――の姿をしたレイシーは、昨日昼間に愛莉を社内から追い出した、堅物そうな初老の男だった。


 *


 最初の違和感は、一日目の午後。聞き込みで警備室に立ち寄ったときだった。壊れたエアコンが妙な音を立てる中、チェシャ猫の腕時計型温度計が、いかれた数字を表示しはじめたのである。その日そこにいた警備員は、三人。内ひとりが、この男だった。


 それからチェシャ猫は、自身の存在感のなさを利用して、警備員をそれぞれ尾行した。その中のひとりを追っていると、決まって羽鳥発明の温度計の数値が狂う。

 疑惑を確信に近づけるべく、二日目はその男だけを朝から尾行し続けた。すると昼に愛莉がやってきた。

 チェシャ猫が見張っていた男は、愛莉を激しく威嚇し、帰るように促していた。明るい愛莉はレイシーを寄せ付けない。男は、自分の邪魔になる愛莉を早く追い出したかったのだ。


 その後、チェシャ猫は警備室の記録を覗き見した。巡回の記録とともに、それをおこなった警備員のサインがあるが、この会社に雇われている警備員の数と、サインにある名前の人数が一致しない。誰かひとり、いないはずの警備員が紛れ込んでいる。

 チェシャ猫は総務部へ出向き、名簿の警備員の名前と顔写真とを照合し、例の男がいないはずの顔であるのを断定した。


 そしてさらにその後で、チェシャ猫は山根を捕まえ、話を聞いた。

 飲み物を買いに自販機へ向かう途中、チェシャ猫が山根に問う。


「いないはずの人が混じっていても、誰も不思議に思わない、みたいな現象を起こすレイシーは、過去に例はあるか?」


 普段から研究室に篭ってレイシーの研究をする山根は、頭の中のライブラリからすぐにその記録を引っ張り出す。


「そうね、いるわねえ。そういうのは常に微弱な電波を放っていて、周囲の人間の脳の電気信号を都合よく書き換えるパターンが多いわ。初めからいた、みたいな感覚にされちゃうのよー」


「脳に直接攻撃してくるのか?」


「そうといえばそうね。怖いわねー」


 レイシーからすれば、機械を微妙に壊すのも、人間の記憶を少しだけ弄るのも、同じからくりなのだ。


「対処法は?」


 脳を弄られてしまうのでは、たとえ異変に気づいても、すぐにまた「いるのが当たり前」と認識させられてしまう。

 山根は自販機の前で立ち止まった。


「簡単ではないけど、単純ではあるわよ。『認識』。それが怪異であることに、気づけばいいの」


 山根の瞳がちらりと、チェシャ猫に向く。


「この手のレイシーの電磁波は、強制力がさほど強くないケースが多いわ。意識を漠然と操作されてるだけだから、それを『おかしい』と認識できていれば、影響を受けない」


「じゃ、勝ったも同然だ」


 今の自分は、ある特定のひとりを、いないはずの人だと認識できている。もう、レイシーの攻撃は効かない。山根は、顔色ひとつ変えずに言った。


「見つけたのね」


「警備員の中に紛れてる。これから殺し方考える」


 さらっと物騒な返しをするチェシャ猫に目を向け、山根は、少し声を潜めた。


「じゃあ、殺す前にひとつ、協力してくれる? 確かめたいことがあるの」


 彼女が自販機の飲み物のサンプルに、目線を移す。


「そのレイシーらしき警備員が、警備室に入ったタイミングで、私にレイシーの研究室の場所を尋ねてほしいの。私は、適当に当たり障りのない部屋を答える」


 山根がなにを確かめたいのか、チェシャ猫にはすぐに理解できた。


「分かった。にしても、こんな頭ん中を書き換えるレイシーなんか、意識して探さねえと見つけられないだろ。過去にもいたけどバレなくて、そのままのさばってる奴もいるんだろうな」


「うーん、そうね。見つかって駆除されてるレイシーばかりじゃない。そういうタイプのレイシーは、見過ごされてるケースも多いはず。報告されているのなんて、全体に比べればほんのひと握りよね」


 山根と別れてからは、チェシャ猫は会社を抜け出し、シロの店で申請書を書いた。その足で役所に提出すると、緊急性の高い本案件は、即刻受理されたのだった。


 *


 そして、今。深夜のポイソン、三階の突き当たりで、チェシャ猫は警備員の姿をしたレイシーを追い詰めていた。

 チェシャ猫は深夜にこの社屋に戻り、対象が巡回に出かけるのを待った。警備室からずっとあとをつけ続け、彼がこの部屋に辿り着くまで、無音で追いかけていた。

 凍りついて悲鳴すら上げないレイシーに、チェシャ猫は、静かな怒りを滲ませた声で言った。


「自販機が狂ってるの、想像以上に腹立つ」


 パシュ。

 空気が裂ける音がして、警備員の帽子が飛んだ。弾に貫かれた頭部から灰が噴き出し、そこを起点に体が黒ずんでいき、やがて全身が灰の山へと化していく。空中を舞った帽子も、粉々に砕けて空気中に飛び散った。

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