ぶっ壊れ自販機

 その日の午後、チェシャ猫は、社内に設置された自販機の前で山根と落ち合い、休憩がてらいくつか質問をした。自販機のコーヒーのボタンを押しつつ、山根がチェシャ猫の質問に答える。


「うーん、そうね。見つかって駆除されてるレイシーばかりじゃない」


 ガコンと、コーヒーが落ちてくる。自販機の取り出し口に手を突っ込み、山根は熱い缶を拾った。


「そういうタイプのレイシーは、見過ごされてるケースも多いはず。報告されているのなんて、全体に比べればほんのひと握りよね」


 レイシーの研究をする山根とは仕事で多少は交流があるが、じっくり話を聞くことはあまりない。ふたりが同じ会社の中にいるというこの機会に、今回の事案に関係ない点なども含め、質疑応答するのだ。

 山根に続き、今度はチェシャ猫が自販機に小銭を入れた。


「脳に直接攻撃してるんだろ。じゃあそいつらが脳を機能停止させれば、一撃で人を殺せるわけだ?」


「そうなるわね。でも、一撃必殺の攻撃力を持つレイシーは少なくて、過去の事例にも片手で数えられる程度よ。それに大概のレイシーは、あくまで人間社会に潜む形をとってコストよく餌を回収してる。目立つ行為をすれば馴染めなくなるから、そういうのは、できたとしても滅多にしない」


「殺すまでに至らないにしても、脳に直に攻撃できるのは厄介だよな。レイシーに狩人だと認識されたら、抵抗する隙も与えられない」


 チェシャ猫の指が、紅茶のボタンを押す。取り出し口を覗き込み、チェシャ猫は手を止めた。紅茶を買ったはずなのに、山根が買ったのと同じ缶コーヒーが出てきている。それを取るなり、チェシャ猫は山根に突き出した。山根が目をぱちくりさせる。


「ん? 奢ってくれるの?」


「違うのが出てきた。コーヒーは飲めないから、あんたにやる」


「あら、ありがとう。たしかにあなた、紅茶のボタンを押してたわよねー」


 しっかり目撃していた山根が、コーヒーを受け取りながら言う。押し間違えではないと確信したチェシャ猫は、自販機を眺め、舌打ちした。


「これも電気で動くからか。壊しやがったな」


「コーヒーと紅茶が逆になってるわけじゃないわよねー。私のコーヒーは正しいボタンで出たんだもの。困ったわね。これじゃどこを押したらなにが出るのか分からないわー」


 山根が哀れむと、チェシャ猫はより不愉快そうに自販機を睨んだ。

 チェシャ猫は紅茶を諦め、山根は缶コーヒーをふたつ手に持って、ふたりは自販機から去った。廊下を歩きつつ、ぽつぽつと会話をする。


「他に聞きたいことは?」


「そうだな……これは少し、方向が違う質問なんだが」


 ふたりは警備室の手前で立ち止まり、壁に寄りかかった。


「この会社の中に、レイシーの研究室があるんだよな。それ、どこなんだ?」


 チェシャ猫が腕を組む。自身の所属部署の所在地を聞かれた山根は、ちらと彼を横目に見て、答えた。


「三階の西の突き当たり。資料も、そこ一箇所に固めてるわ」


「ふうん、すげーな」


「あ、来ちゃだめよー。極秘資料ばっかりだから、あなたは入れないからねー」


 山根はそう言って欠伸をし、コーヒーを口に含む。


「そろそろ部署に戻らないとー。コーヒー、ありがとね」


 壁から背を離して、山根が歩き出す。チェシャ猫は、眠たそうにふらふら行く山根の背中を眺めていた。


 *


「すごい。まだ二日目だよ?」


 昼過ぎの『和心茶房ありす』。シロが抹茶を飲む横で、チェシャ猫は役所に出す申請書を書いていた。手元には、彼専用の猫柄の湯のみ、中は温かい和紅茶である。まだポイソンは定時を迎えていない時刻だったが、彼はもう、勝手に早退してここへやってきていた。

 チェシャ猫が書き物をするテーブルで、シロは向い合わせで椅子に座っている。盆をぬいぐるみのように抱えて、チェシャ猫の癖字を眺めていた。


「それにしても、本当にレイシーがいたとはね。過労の社員がやらかしてるだけかと思ったよ」


「俺もそう考えてたけど、見つけてしまった。あれは人間じゃない」


 チェシャ猫が目は書類から上げず、返事をする。シロはへえ、と感心した。


「立派になって……すっかり一人前だね。もう僕の狩人としての書面上の権利なんかも全部、正式に君へ譲渡してもいいかもしれないな」


 それからうっとりと両手のひらを突き合わせる。


「そうなったら、夢ののんびり喫茶店経営生活! 今もそうだけど、今以上に、もうレイシーのことなんかなんにも考えず、ただただお茶を入れるスローライフ。憧れる!」


 冗談交じりに言うシロに、チェシャ猫は眉間に皺を寄せた。


「あんたがそうでも、多分この店、引き続き俺も羽鳥も深月さんも山根さんも来るぞ」


「ははは。目の前で会議が行われてたら、口挟みたくなりそうだな」


 結局、今とさして変わらなそうである。それからチェシャ猫は、昼間に現れた愛莉を思い出した。


「シロさん、あいつにフードデリバリー委託したのか?」


「違うよ。僕としては、もうチェシャくんへ渡すのは諦めて愛莉ちゃんに食べてもらう気でいたんだよ。でも愛莉ちゃんが届けに行っちゃって……結果的に、ふたりとも食べてくれたみたいで嬉しいな」


 愛莉のあの行動は、シロとて驚かされた。チェシャ猫はペンを止め、ちらりと目を上げ、また申請書にペン先を落とす。


「一応釈明しておく。朝、取りに来なかったのはわざとじゃない」


「本当? よかった」


 シロが柔らかに微笑む。そのどこか作り物っぽい、ネガティブを隠した仮面のような表情を一瞥し、チェシャ猫は書き物を続けた。


「あんた、まだあの一件を気にしてたんだな。俺はもうあの頃とは違うんだよ。事実、店の軽食食ってるし、あんたのお裾分けも受け取ってるだろ」


「そうだよね。愛莉ちゃんもそう言ってた。でも、ちょっと君を構いすぎてたかなって自覚もあったから、不安になっちゃった」


 シロは安堵の微笑みを浮かべ、やや前のめりになった。


「明日も作っていい?」


「ありがたい。けど、もうちょい手を抜いてくれていい。無駄に美味すぎる」


 チェシャ猫はペンを休めず、申請書の余白を埋めている。シロはしばし黙って彼の筆跡を眺め、やがて頷いた。


「僕のお節介を受け止めてくれて、ありがとう。本当、君はあの頃とは変わったね。当時は困惑してたもんね。『なんで俺に構うんだ』って」


 シロの後悔めいた口調に、チェシャ猫のペンが止まりかける。しかし、そのまま文字を生み出し続ける。

 シロは手指を組み、目を閉じた。瞼の裏に、一年と半年と数ヶ月前の、真夏の日々が浮かぶ。


「君は押し付けがましくされるのが嫌なんじゃなくて、甘えてしまう自分が嫌だった。僕は、君がストイックなのを分かっているのに、そっとしておけない自分が嫌だった。でも、やめなかった」


 チェシャ猫は返事をしない。彼が否定も肯定もしないのをいいことに、シロは勝手に謝罪した。


「ごめんね。あの頃の僕はどうしても、弱ってる君を放ってはおけなかった」


 それにも、チェシャ猫は特になにも返さなかった。代わりに、話題を今日に引き戻す。


「今日の、相変わらずおいしかった。感謝する」


「それはよかった」


 シロはにこりと微笑み、抹茶に唇をつけた。

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