フードデリバリー
一方、ポイソンコーポレーション本社では、昼休みの時間を迎えていた。社員たちが食堂へ向かっていくのを横目に、チェシャ猫はハッとした。
「あ、やべえ、忘れてた」
朝、店に寄るように言われていたのが、すっかり抜けていた。そのくせ昼食はシロが持たせてくれたという意識だけはあったので、なにも用意していない。
昨日同様、コンビニで買ってきてもいいが、僅かな時間も調査活動に充てるなら、社食の方が早い。シロが、というか、シロが山根から聞いたから話によると、社食はまずいらしい。
シロから連絡が来ているかもしれない。チェシャ猫はポケットから携帯を取り出して、着信を確認した。しかし画面は真っ暗になっていて、どこを押しても動く気配がない。
この社屋にいると、電子機器が壊れる。自分の携帯も例外ではなかったようだ。チェシャ猫は舌打ちして、携帯をポケットに突っ込んだ。
社員以外にも、交代で休憩する警備員や清掃業者なども、同じく食堂を利用する。チェシャ猫の数メートル手前を、初老の警備員が歩いている。チェシャ猫はその青い制服の背中を眺め、同じくらいの速度で歩いていた。腕につけた、羽鳥の発明品を一瞥する。並ぶ数字は、五十二と、七十。
と、そのときだ。
「こら! 君、待ちなさい!」
「チェシャくーん!」
背後から男の叫び声と、聞き慣れた甲高い声が、同時に飛んできた。チェシャ猫は驚くより先にうんざりして、立ち止まった。
背中に飛びついてきたのは、もちろん、愛莉である。
「見つけたー!」
「あんた、なんでここにいる?」
振り返りもせずため息をつくと、愛莉は一旦腕を離し、チェシャ猫の前に出てきた。
「はいっ、お弁当届けにきたよ」
愛莉の手が、手提げバッグを突き出す。ひと目でシロからの差し入れだと分かったチェシャ猫は、ありがたいやら困惑やらで複雑な気持ちになった。
彼の背後では、愛莉を追いかけてきた警備員が息を荒らげている。
「君ねえ、社内は関係者以外立入禁止だよ」
警備員をちらと見て、チェシャ猫は再び愛莉に顔を向けた。
「どうやってここまで突破してきた?」
「んーとね、走ってきた」
悪びれずに答える愛莉に、チェシャ猫はまた、ため息をついた。
どうも愛莉は、エントランスでの受付も、止めようとする警備員も、全て全力疾走で振り払ってきたらしい。あまりの力業に、もはや感心さえする。
愛莉に代わって、チェシャ猫が警備員に頭を下げる。
「すみません。すぐ帰らせるので」
「ははは。この子は妹さんかい?」
警備員に聞かれ、チェシャ猫は即行、否定した。
「違います」
「妻です!」
愛莉が余計なことを言うので、チェシャ猫はもう一度否定した。
「違います」
警備員は優しい目でふたりを見て、言った。
「一応、社員の同居の家族であれば、建物に入ってしまっても処理が楽になるんだけど」
「ああ、じゃあ妹です」
チェシャ猫と警備員は、互いに融通を利かせてこの場を丸く収めた。愛莉が目を輝かせる。
「やったあ! 巡ちゃんのお姉ちゃんになれちゃった」
俺の妹は巡だけだ、と今すぐにでも言いたかったが、気の利く警備員の手前、チェシャ猫は言葉と感情を呑み込んだ。
愛莉が改めて、弁当の入ったバッグを差し出す。
「チェシャくん、ごはんこれから? 間に合った?」
「まだ食べてないけど、今は……」
途中まで言いかけて、チェシャ猫は背後を振り返った。そして廊下に自分たちの他に誰もいないのを見ると、愛莉の手からバッグを受け取った。
「まあいい。届けにきたのは感謝しとく」
「チェシャくんのためならお安い御用だよ!」
手提げバッグを持って、チェシャ猫は食堂へ向かった。警備員も、自分もちょうど休憩の時間なのだと言って、隣を歩いている。
そして愛莉も、くっついてきている。
「あんたは帰れよ」
チェシャ猫に牙を剥かれ、愛莉はさっと、手に持っていたサンドイッチを掲げた。
「これ、シロちゃんが持たせてくれた。あたしもお昼、ご一緒する!」
「なんでだよ、意味分かんねえ。でもシロさんなら持たせそうだ」
「まあまあ、入館許可の処理は私の方でやっておくから」
警備員がまた、場を丸く収める。
大人数の社員を抱えるポイソンの食堂は、フロアの面積の四分の一を占めるほど広い。社員だらけの中、愛莉は目立つ。説明を求められても面倒なので、三人は隅っこの目立たない席を選んだ。
ここまで来るまでの間に、愛莉と警備員はすっかり打ち解けていた。
「えー、じゃあ、おじさんのとこ……警備室? エアコン壊れてるの?」
「うん。しかもさっき、携帯が真っ暗になって動かなくなってね。散々だよ」
「かわいそう。携帯使えないと不安になるよねー」
「ありがとう。お嬢さんと話してると気が紛れるよ」
誰とでも気軽に話す愛莉は、自分の父親よりも歳上の警備員とも友達のように接する。チェシャ猫はふたりを横目に、シロからの弁当を開けた。やたらと彩りがよく、栄養バランスも考えられている。隣から覗き込む愛莉が、ひゃあ、と感嘆した。
「すっごーい! おいしそう」
「ん。そうか、あんた、シロさんの家庭料理食べたことないのか」
チェシャ猫は箸で煮物を摘まみ、口に運んだ。
「店で出してるカフェ飯みたいなのもかなりハイレベルだけど、こういうのもまた別の良さがある。むしろ、こっちが本領発揮なんじゃねえかとすら思う」
「そんなにおいしいの? お店のサンドイッチもこんなにおいしいのに」
愛莉がサンドイッチをぱくぱく食べつつ、目を丸くする。チェシャ猫は箸を愛莉に差し出した。
「はい。好きなもん、どれか食ってみ」
「えっ!? チェシャくんが使ったお箸使っていいの!? それはもう結婚じゃん」
目立たないように隅に座ったのに、愛莉が大袈裟な反応をする。チェシャ猫は眉を寄せ、差し出していた箸を引きかけた。
「いらねえのか」
「ううん、いる!」
愛莉は箸を受け取り、彩り豊かな弁当箱をひと通り見て、玉子焼きを選んだ。口に入れるなり、目を見開く。
絶妙な塩加減の奥に優しい甘みがあり、食感は羽根のようにふんわりしている。舌の上でとろけるように解れると、品のいい味が口いっぱいに広がる。味覚で脳が痺れた。
「おいしい! なにこれ、玉子焼きってこんなにおいしいものだっけ!?」
そして立て続けに、魚のフライ、鶏唐揚げが、ぽいぽい愛莉の口に吸い込まれていく。
「おいしいー! 勢い余って全部食べちゃう」
「おい、それは待て。流石に待て」
危うく昼食が煮物ひと口になりかけたチェシャ猫は、弁当箱を引き寄せて愛莉を止める。愛莉は味の余韻に浸りながら、照れ笑いした。
「想像以上においしくて感激しちゃった」
「なにが起きたかと思ったぞ」
「ごめんね。あたしのサンドイッチ、半分あげる」
愛莉がサンドイッチの詰まった箱を、チェシャ猫に差し出す。そのサンドイッチも好物であるチェシャ猫は、大人しく手を打った。
弁当とサンドイッチをそれぞれ半分こするという不思議な形に落ち着き、食事を再開する。
愛莉がポケットから携帯を取り出す。
「そうだ、シロちゃんに『無事にお届けしたよ』って連絡しとこ。あたしも分けてもらって、おいしかったっていうのも伝えなきゃ」
チェシャ猫は腕時計、否、腕時計のようにつけている羽鳥の発明品に目をやった。二十七、三十と数字が並ぶ。気温、湿度ともに快適な数値である。
愛莉が再び箸を取った。弁当箱からちくわ天を持ち上げ、口に放り込む。
「これもおいしい。チェシャくん、こんなにおいしいお弁当よく忘れていったね」
それから、店で話していたシロの言葉を思い出す。
「そういえばシロちゃん、チェシャくんがこれ食べたくなくてわざと置いてったんじゃないかって心配してたよ」
「マジでネガティブだな。わざとなわけねえだろ」
シロの後ろ向きな性分は知っていても、予想の斜め上を行く思考には、チェシャ猫でも戸惑う。
「まさかあの人、まだ気にしてんのか、あのこと」
「あのこと?」
愛莉がきょとんとして、チェシャ猫の顔を覗き込む。チェシャ猫は彼女を一瞥して、サンドイッチをひと口齧る。
「別に大した話じゃない。単に、出会って間もない頃、シロさんが……」
彼が徐ろに話しはじめた、そのときだった。三人の傍へ、別の警備員が歩み寄ってきた。
「ここは関係者以外立入禁止だ。そこの子供はなんだ」
いかつい顔をした、初老の警備員である。
侵入者である愛莉が、見つかってしまった。一緒に食事をしていた警備員が、慌てて椅子から立ち上がる。
「待ってくれ、この子は私の方で入館を許可した。許可証は……今はつけていないけれど、このあと渡す」
こちらの警備員はなんとか円満にまとめようとしているのに、あとから来た警備員は、一歩も譲る気配がない。
「ここは会社だ。遊ぶところではない。早く帰りなさい」
ついでにチェシャ猫にも、睨みをきかせる。
「君も、知人だか家族だか知らないが、子供を連れてくるな」
叱られながら、チェシャ猫は「真っ当だ」と口の中で呟いた。どうしてこの食堂で愛莉と共に食事をしているのか、自分も不思議に思っていたくらいだ。
愛莉は、自分がいるとチェシャ猫が怒られると理解した。弁当箱から最後のひとつの玉子焼きだけ、口に詰め込む。
「分かった。帰る」
幸い、食事ももう終わろうとしていた。愛莉と仲良くなった方の警備員が、申し訳なさげにチェシャ猫と愛莉とを交互に見比べている。チェシャ猫は、彼と目を合わせた。
「あの。申し訳ないんですが、こいつをエントランスまで送ってやってもらえますか」
「もちろんです。行こうか、お嬢さん」
警備員が愛莉に微笑みかける。愛莉は椅子を立ち、一度チェシャ猫を振り向いた。
「またねチェシャくん。お仕事、応援してるよ」
「いいからはよ帰れ」
チェシャ猫の冷たい対応に、愛莉は満足げににんまりした。それから事なかれ主義の警備員に連れられて、食堂を出ていく。
叱りに来た初老の警備員は、背中で手を組んで、厳しい顔で愛莉を睨んでいた。
チェシャ猫が腕の温度計を確認する。数字は変わっており、気温が六十度、湿度が三パーセントというめちゃくちゃな数値が叩き出されていた。
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