女王の苦悩

「ここから先はあ、カップルのみ入れるんですよお」


 バイトらしき巫女姿の女が、チェシャ猫を引き止める。門の先へ向かおうとしていたチェシャ猫は、怪訝な顔をした。計測される音波は、この先に近づくほど強くなっている。出処はこの門の向こうのはずだ。

 しかしバイトの巫女は融通が利かない。


「こっちの神様はあ、すでにカップルのおふたりがあ、永遠の愛を祈願する神様ですう。おひとりさま向けの恋愛成就祈願はあ、こっちじゃなくてえ、曲がり角を左ですう。出会いの神様もそっちの方面ですう」


 鼻にかかった声で案内して、チェシャ猫を通せんぼうする。

 チェシャ猫はこの厄介なルールに眉を寄せた。気配のない自分なら気づかれずにすっと通り抜けられたかもしれないが、このバイトがその案内をする係で、他に人がいなければ、流石にこうなる。

 神社側が決めたルールなのだろうから、宮司にでも申し出れば、調べさせてもらえるだろう。しかしもっと手っ取り早い手段がある。

 チェシャ猫は少し道を戻り、ベンチのカップルを見ている愛莉の腕を掴んだ。訳も分からず引きずられる愛莉を連れ、もう一度、門の前へとやってくる。見張っているバイトに向かって、チェシャ猫は愛莉を指さして言った。


「こいつです。これでいいか」


「彼女さんですかあ?」


「そうだ」


「はあい。どうぞお」


 愛莉がいるだけで、バイトはあっさりとチェシャ猫の通行を許可した。年齢差が開いているから少し無理があるかとも思ったのだが、世の中いろいろなカップルがいるのだろう、怪しまれずに済んだ。

 しかし愛莉の方は、目が飛び出しそうな顔をしてチェシャ猫を見上げていた。


「え!? なに、あたしいつからチェシャくんの彼女に!? え、え、なんて呼べばいい? ダーリン?」


「うるせえ。いいから来い」


 折角門の向こうに入れたのに、話がこじれたら面倒である。チェシャ猫はバイトから逃げるようにして愛莉の腕を引っ張った。愛莉の発言で真のカップルではないと察したバイトの巫女が、門の向こうから顔を覗かせ、ふたりを見ている。

 門から数十メートル先に進んでバイトの目を引き離してから、チェシャ猫は愛莉に向き直った。


「話を合わせろ。そういうことにしとけ」


「強引すぎるー! そっか、ここ、カップルじゃないと入れないエリアか」


 愛莉が周囲を見回す。チェシャ猫は愛莉の腕を掴んだままである。


「あんた、このクソ面倒くせえエリアがあるの、知ってたのか」


「電車の中でネットで調べてたとき、見たんだよ。SNSで話題になってた」


 神社の公式ホームページくらいにしか目を通していなかったチェシャ猫は、そこに書かれていなかったこの情報は見落としていた。

 ひとまず、愛莉を恋人役にして入り口を突破できた。音波の数値は上がっている。耳鳴りも強くなって、常にか細くキーンと響いてくる。愛莉から手を離して先を急ごうとしたチェシャ猫だったが、今度は愛莉がチェシャ猫の手首を掴んだ。


「チェシャくん、さっきの巫女さん、まだこっち見てるよ。怒られたら嫌だから、もうちょっとカップルのふりしておいた方がよくない?」


 愛莉に言われ、チェシャ猫は後ろを振り返った。門の番人のバイトは、余程暇なのか、こちらをじっと見ている。チェシャ猫と愛莉の脇を、夫婦らしきふたり組が通り過ぎた。神社側のルール上、このエリアにはカップルしかいない。バラけて行動して、変に目立ってもいけない。チェシャ猫は愛莉の提案を呑んだ。


「行くぞ」


「やったー! 周りが引くほどイチャイチャしよ!」


 カップルしか通行できないこのエリアは、他の参拝客とは殆どすれ違わなかった。縁起の悪い噂のせいで人が来ないのだ。おかげで静かだ。風の音と、木々にとまる鳥の声しか聞こえない。

 チェシャ猫も無言で音波の数値を見ている。愛莉はあまり耳鳴りを感じない。チェシャ猫が時折耳を押さえているのを見ては、自分も耳を澄ましてみたが、全然分からない。愛莉は、レイシーを跳ね除ける自分には感じられないものなのだろう、と独自の解釈をした。


 春風がチェシャ猫のコートの裾を広げる。愛莉はそれを横目に、にんまりと目を細めた。木の葉の揺れる音、鳥の声に包まれて、愛莉は大好きなチェシャ猫を独占したような気持ちになっていた。

 参拝客は少ないが、境内の整備をしている巫は、ときどき見かける。なんだか見張られているような気がして、愛莉はわざとらしくチェシャ猫に寄り添った。普段なら鬱陶しがるチェシャ猫も、今回ばかりは、自分から愛莉を恋人役に仕立てたので、文句は言えない。チェシャ猫から愛莉の手を取ったりはしないが、それでも愛莉には充分だった。


 愛莉はチェシャ猫を見上げ、呟いた。


「ここに来るカップルのみんなも、こんなふうに好きなのに、帰る頃には別れたくなっちゃうのかな」


 チェシャ猫はなにも言わない。愛莉は、勝手に続けた。


「あのね、チェシャくん。絵里香と禎輔くんも、ここにデートに来て、別れちゃったの」


「ふうん。あいつらが」


 チェシャ猫が少し、興味を持った。


「身近に当事者がいるなら、話を聞いてみるか。どのルートで歩いたか、なにか祈ったのか、なにか買ったのか。聞き出せるだけ聞いて……」


「そうしたいけど、絵里香は今、あたしと口きいてくれないの」


 愛莉がぽつり、淋しげに言う。チェシャ猫は、ちらと愛莉を見下ろす。足元に目線を落として、愛莉はため息まじりに話した。


「彼氏ができたからかな、絵里香、今までとちょっと変わっちゃって。あたしはあんまり、大事にされなくなっちゃった気がするの。絵里香にあたしより大切なものができたのは、それは素敵なことだと思うけど、でもちょっと、寂しくて……」


 それからぱっと顔を上げ、チェシャ猫に告げ口する。


「あたしを蔑ろにするくせに、メッセージの返信が遅くなったらすっごく怒ったんだよ。都合よく扱われてる感じがして、ムカッとしちゃった。どう思う!?」


「俺もあんたに対して、そんな感じじゃねえか?」


 チェシャ猫に言われ、愛莉はチェシャ猫の行動を振り返った。普段は「来るな」と威嚇するくせに、事情次第でレイシー避けに利用されることもある。つい先日も、療養中に書類を届けに行ったら、「帰れ」と言われたり「待て」と言われたり、用事が済んだらまた「帰れ」と言われた。今も、「ついてくるな」と言ったくせに、今度は恋人役をさせられている。


「それはあたしがチェシャくんに構うからだし、役に立ちたいと思ってるから使ってもらえるのは嬉しいよ。絵里香のはこう……なんか違うの!」


 上手く言葉にできないけれど、愛莉は絵里香の言動に不満を抱えていた。上げていた顔が、徐々に下がっていく。


「でもね、絵里香が禎輔くんと別れちゃったって聞いて、悲しくなった。この神社のせいなら、なんとかしたい。だから今日、こうしてチェシャくんについてきたの。もしかしたら、原因をやっつけるお手伝いができるかもって」


 絵里香と喧嘩中であっても、彼女の不幸を蜜の味とは思わない。入れ違いになったチェシャ猫を追いかけてまで同行したのは、そういう理由だった。

 チェシャ猫はまた、ちらりと愛莉を見下ろした。それから意外そうに呟く。


「あんた、そんな人間っぽい感情あったんだな……」


「えっ!? ないと思われてたの!?」


 俯いていた愛莉は、再びぶんと頭を上げた。チェシャ猫の不気味なものでも見るかのような顔と、目が合う。


「あんた、なんでもポジティブに捉えるから、そういうの無縁なのかと思ってた」


「酷い! あたしだって怒るし悩むし喧嘩もするよ!」


 愛莉がチェシャ猫をポカポカ叩く。叩かれるチェシャ猫は、謝罪も弁明もしなかった。


「どっちにしろ、口きかねえと平行線だな。言いたいことがあったら言わねえと伝わらないし、誤解があるなら解かないと解けない。あんたのことだから、話しかけようとはしてるんだろうけど」


「そう、なんだよ」


 愛莉は叩いていた手を止めた。


「そうなのに、絵里香と話せない。捕まえられなくて、逃げられちゃう」


「不思議だな。俺を捕まえるときのあんたのスピードを持ってすれば、捕らえ損ねるはずがない」


 いつも逃げる前に首を押さえられるチェシャ猫としては、疑問でならなかった。愛莉はくすっと笑って、チェシャ猫のコートの袖を握った。


「そっか、そう思ったら捕まえられる気がしてきた。多分あたし、ちょっと怖気づいて本気で捕まえにいけてなかったんだ」


 木の葉が風に舞う。ひらりと、愛莉の頭上を通り抜けていく。


「ちょっと驚いた。チェシャくん、意外と相談乗ってくれた」


「相談に乗ったつもりはない。当事者から話を聞き出す足掛かりとして、あんたと当事者が揉めてると不便だっただけだ」


「はい、ツンデレー」


 愛莉はチェシャ猫の腕に、ぎゅっとしがみつく。いつもなら嫌がるチェシャ猫だったが、境内の掃除をしている巫女に気づき、カップルのふりをしていたのを思い出した。嫌がらないチェシャ猫が珍しくて、愛莉は一層、チェシャ猫にくっついた。

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