解釈違い
境内を歩くうちに、愛莉は休憩所の茶屋を見つけた。
「あっ、この茶屋、ホームページで見たやつだ。カップルしか来れないところにあるんだ」
「寄ってくか」
チェシャ猫の普段より少し優しい声色に、愛莉は一瞬どきりとする。
「いいの?」
「今日は下見だ。急いでるわけじゃねえから、休憩を挟むくらい問題ない」
「じゃあ寄る!」
たくさん歩いた愛莉は、少し座りたい気分だった。
茶屋に入り、愛莉は店内を見回した。エプロン姿のバイトがひとりいるだけで、客は自分たちの他にいない。
愛莉は店員に温かい紅茶を注文して、テーブルについた。窓際の、外のスモモの木が見える席を選ぶ。
やがてチェシャ猫が、盆にふたつの紅茶とパウンドケーキを載せて、愛莉の元へ来た。
盆を置いたチェシャ猫が、キャンディ包みされたパウンドケーキを摘んで、愛莉の前に垂らす。
「はい」
「あ! このパウンドケーキ、ホームページで見たやつ!」
食べたいと思っていたのに、注文するのを忘れていた。目の前にぶら下がったそれと、チェシャ猫の顔を、愛莉は交互に見た。
「くれるの?」
「あんた、食べたいって言ってたのに注文してねえから。いらねえならシロさんに土産にする」
「買ってくれたんだ。お金ないのに」
愛莉はパウンドケーキを受け取って、照れ笑いする。チェシャ猫が不機嫌に目を逸らして、愛莉の向かいに座った。
「これ買うくらいはある。あとで経費で落とすけど」
チェシャ猫が足を組み、音波の数値を見て、使い捨て紙カップの紅茶を啜る。愛莉はパウンドケーキの包装の、金のワイヤータイを捻った。包装を開けるパリパリと軽い音が、静かな店内ではやけに広がる。
「パウンドケーキ食べたいって言ったの、聞いてないか覚えてないかと思ってた。あたし自身が食べたかったの忘れてたのに、チェシャくんが覚えてたね」
愛莉はケーキを片手に、紅茶をひと口、口に含んだ。チェシャ猫はテーブルに頬杖をつき、窓の外を見ている。
「まあ、好きな女が欲しがってたものくらい覚えてるし、買うだろ」
それを聞いた途端、愛莉は口の中の紅茶をカップの中に噴いた。外を見ていたチェシャ猫が勢いよく振り向く。
「うわ、汚」
「けほっ、だってチェシャくんが!」
突然柄にもないことを言うから、驚いた。カップルごっこは門の向こうに進むための建前のはずなのに、今こんなことを言うとは、愛莉も想像していなかった。
チェシャ猫はというと、らしくない発言をしれっとかましておいて、音波を計測している。愛莉は改めて紅茶を飲んだ。
「あーびっくりした。チェシャくんの彼女になる人は、これを日常的にくらうのか」
急な刺激は心臓に悪い。数値を見ていたチェシャ猫が、愛莉に目をやる。
「自覚が足りない。俺の彼女はあんただろ」
「ひえー……めっちゃ彼氏面する」
愛莉は肩を竦めて、紅茶のカップで顔を隠した。淡々とした声色で甘い台詞を囁かれると、役作りだと分かっていてもそわそわしてしまう。
愛莉はカップを置き、パウンドケーキを半分にちぎった。
「これ、半分食べる? 恋のご利益があるよ」
「は? いらねえ」
「急に塩対応じゃん……好き……」
愛莉はちぎったパウンドケーキを自分の口に詰め込んだ。ふんわり焼かれた甘みのある生地に、スモモのドライフルーツの甘酸っぱさが絡む。もう半分のパウンドケーキをチェシャ猫の口に突っ込もうかとも考えたけれど、やめた。普段と様子が違うチェシャ猫には、やりづらかったのだ。
茶屋を出るとまた、チェシャ猫は数値を計りつつ歩き出した。しかし今度は愛莉を置き去りにしたりはせず、愛莉が立ち止まっていれば待っており、先に進もうとすれば追ってくる。はぐれる心配がなくなった愛莉が自由に散策していると、やがてチェシャ猫に腕を取られた。
「離れるな。化け物の住処だ」
「ひぇ……はい」
反対方向からカップルが歩いてくる。寄り添っている彼らを見て、チェシャ猫はそっと愛莉の肩に手を置き、自分の方へ引き寄せた。
カップルのふりをしてこのエリアに入ったとはいえ、違うとバレたからといってわざわざ追い出されたりはしないだろう。だというのに、チェシャ猫はやけに愛莉を丁寧に扱う。普段との差に頭が混乱して、愛莉の心臓はばくばく飛び跳ねていた。
愛莉は一瞬、これはチェシャ猫ではなく、彼によく似たジャバウォックなのではないかとまで思った。しかし左右が反転していれば、愛莉なら見間違えるはずもない。
いつもは自分の方からチェシャ猫に抱きついているのに、逆に抱き寄せられると、訳が分からなくなる。普段なんの話をしていたのか、どんなふうに振る舞っていたか、頭から飛んでしまう。
チェシャ猫は顔色ひとつ変えずに歩いていく。石畳の小路を進みつつ、愛莉は頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
先程さらっと出てきた「好きな女」というフレーズが、今になって反芻されてくる。
ここまでに、愛莉はすっかり無口になっていた。静かな分には気にならなかったチェシャ猫も、流石に不思議に思い、愛莉を見下ろす。
「ばかに静かだな。腹でも痛いのか」
「違うよ! チェシャくんこそなんか妙に優しいけど、具合悪いの?」
「別に。今ならシロさんとか見てねえから、誰にもからかわれねえし、まあいいかと思ってるだけ」
目を見ずに言って、チェシャ猫は先を急いだ。愛莉は一層、顔が沸騰した。
ふたりの前に、大きな赤い社が現れた。ここが、縁結びの神の本殿のようだ。愛莉は大人しくなっており、もはやチェシャ猫の腕にもくっつけず、微妙な距離を保っている。
チェシャ猫は社を眺めていたかと思うと、愛莉を振り返った。
「おい。なんでそんな遠くにいるんだ」
「今あたし、チェシャくんの彼女なんだなあって思ったら、緊張しちゃって……」
本殿の横には、別のカップルの姿がある。はにかむ愛莉に、チェシャ猫は牙を覗かせた。
「らしくねえこと言ってんなよ、なんか喋ってろ。いつもの感じ出してベタベタしてこい」
「理不尽! 普段は『うるさい静かにしろ』って言うくせにー!」
「今は静かにするな、うるさくしろ。周りが引くほどイチャイチャすんだろ。なんでかかってこねえんだよ。調子狂うだろ」
わがままなチェシャ猫に、愛莉はぷるぷると震える。
「チェシャくんの方こそ、いつもと違うんだもん。あたしだって調子狂うよ」
愛莉はチェシャ猫の目を見られなくなって、下を向いた。縮こまる愛莉を見下ろし、チェシャ猫はため息をついた。
「あんたなあ……アホだとは思っちゃいたがマジで察しが悪いな。なんで俺がこんなことしてんのか、分かんねえか」
チェシャ猫の瞳が真っ直ぐ愛莉を射貫く。コートの裾が風に浮く。
「神様の前じゃ嘘はつけねえ。一回しか言わねえから、よく聞けよ」
愛莉は口を半開きにして、動けなくなっていた。
「あんたのことはクソうぜえと思ってるし、うるせえし、明るすぎて無神経だし、うるせえしガキだししつこいしクドいしうるせえと思ってるがな」
威厳に満ちた本殿を背に、チェシャ猫が無表情で言う。
「助けられてるのも事実だ。これから先も、あんたに隣にいてほしい」
風が吹いて、石畳を木の葉が転がる。愛莉の髪とスカートの裾が靡いて、チェシャ猫の前髪が彼の片目を隠す。
しばし呆然としていた愛莉は、染めた頬を両手で挟み、その場に座り込んだ。
「うわあああ! 多分あたし今、白昼夢を見てる! 覚めろ覚めろ!」
「あ? あんだよ、気に入らねえのか」
チェシャ猫は腕を組み、愛莉のつむじを見下ろしていた。愛莉の頭はもはやまともに動いていない。
「だってチェシャくん、こんなこと言うわけないもん! なにこれ? スモモのケーキのご利益? 即効性ありすぎでしょ」
「ケーキのせいにしてんじゃねえよ。買う前から俺はこうだった。いちいち言わねえだけだ」
「ひええええ」
丸くなって立ち上がれない愛莉は、真上から降ってくるチェシャ猫の声に打ち震えた。チェシャ猫は依然、恥ずかしげもなく通常どおりのトーンで話す。
「奇声を上げるな。立て」
「無理。メロメロで腰が抜けた」
「立て。いい加減にしろ」
半ば苛ついたチェシャ猫の声にも、愛莉は腰に力が入らない。ついにチェシャ猫が舌打ちし、愛莉の腕を強引に掴んだ。引っ張り上げて立たせるも、愛莉はまだくらくらしていて膝が伸びず、チェシャ猫の胸に倒れ込む。
チェシャ猫の心臓の音が聞こえる。本人の声は冷静なのに、自分の胸の鼓動と同じくらい速い。愛莉は恐る恐る顔を上げ、チェシャ猫を見上げた。
チェシャ猫は愛莉の方は見ていなかった。視線は真っ直ぐ、本殿に向けられている。
どっしりと佇む本殿――否、その手前に立つなにかに向けて、左腕を伸ばし、拳銃を突きつけている。
「来るぞ。『なれ果て』だ」
本殿の脇にいたはずのカップルがいない。代わりに、微動だにしない男の体を引きずって立つ、女らしき姿がある。
白い装束に、乱れた髪。顔は、ない。ぽっくりと丸い孔が、顔面を貫通しているのだ。その顔のない顔が、チェシャ猫と愛莉の方に向けられている。
それまで骨抜きになっていた愛莉は、別の意味で心臓が止まりそうになった。愛莉を抱き寄せるチェシャ猫の手にも、少し力が籠もっている。
「下見だけのつもりだったが、ここまで来たら引き下がれねえ」
チェシャ猫の心臓が早鐘を打っているのは、レイシーに対する緊張感によるものだった。僅かながら呼吸が乱れ、銃口が安定しない。
「耳鳴りやべえな。集中できない」
チェシャ猫が声を殺して呟く。愛莉はただ、石のように固まっていた。白装束の女は、右手に男の骸をぶら下げて、一歩詰め寄ってきた。愛莉がびくっとする。
白装束の女は、顔の孔から黒い靄が溢れさせた。
「わたしは、しあわせに、なれないのに」
グロテスクな見た目から想像もつかない、澄んだ声がする。
「ずるい、ずるい、ずるい。わたしも、あいされたい。あいして、ほしかった」
近づいてくるそれに、チェシャ猫は引き金を引いた。しかし狙いが外れ、弾は白装束の女の髪を掠めただけだった。
チェシャ猫の敵意を感じたのだろう。白装束の女の顔面から、黒くどろどろとしたヘドロのようなものが大量に溢れはじめた。
「あいされない。あいされない。あいされない」
途端に、周囲の空気がドンと重くなった。空が暗転して夜のように暗くなり、木々のざわめきが大きくなった。強い耳鳴りがチェシャ猫を襲う。愛莉は急に暗くなった周囲に驚いて、チェシャ猫にしがみついたまま、周りを見回した。
「えっ、なになに?」
「取り込まれた。今、こいつのフィールドの中だ」
チェシャ猫が粗雑に答える。彼は以前シロから聞いた話を思い出していた。人の住居は、人が暮らすことで結界となり、レイシーの侵入を防ぐ。そこがその人間のフィールドとなる。
この場合は逆だ。レイシーと化したこの神社の結界の中に、自分たちが入った。住居でこそないが、神社も同じように「結界」を持つ場所である。この暗闇は、レイシーのフィールドだ。
白装束の女の顔の孔が、より大きく、ぐわっと開く。そこから黒い蔓のようなものが伸びだし、それが伸びて膨らむにつれ、体が萎れていく。「中身」がみるみるうちに膨らみ、黒く大きな化け物が生まれ出てくる。
獅子のような体躯に馬のような細い脚、鋭く伸びた一角。それはむくむくと巨大化し、チェシャ猫の身長を優に超え、本殿の屋根をも超えた巨体へと成長した。
愛莉がチェシャ猫に抱きつく。
「ぎゃー! 思ったよりでっかい! 怖いー!」
「うっせえなあんた! ただでさえ耳鳴りがすごいのに、鼓膜破る気か」
チェシャ猫が苛立った声で切り返す。的が大きくなった分、弾は当たる。チェシャ猫がろくに狙わずに二弾目を発砲すると、黒い獣の巨体に命中した。しかし多少灰が噴き出るだけで、すぐに再生するのか、倒れる気配はない。
獣の大きな前足が、ぬっとチェシャ猫の愛莉の頭上に翳される。振り下ろされた爪を、チェシャ猫は愛莉ごと飛び退いて躱した。
「っぶね。くっそ……」
「きゃー! かっこいい!」
怯えているはずなのに、愛莉は歓声を上げた。緊張していたチェシャ猫だったが、場違いな明るさの愛莉に妙に冷静になる。
「なんであんたはそんな余裕なんだ」
「チェシャくんの方が強いから」
「いや、だからそれは、入念に準備していればの話であって……」
今はただレイシーの場所を特定するだけのつもりだったから、相手の動きも弱点も似たレイシーの傾向も、なにも分からない。
ただひとつ、今の時点でも分かることはある。
「あんた、そのままはしゃいでろ」
「へ?」
攻撃を仕向けてきた黒い獣だったが、追撃してこない。愛莉の歓声に怯んだのだと考えられる。
レイシーは、愛莉のような明るく元気な存在が苦手なのだ。チェシャ猫の意図を察した愛莉は、ぱあっと笑顔になった。
「じゃあさ、じゃあさ! チェシャくんがあたしを喜ばせてよ。甘い台詞できゅんっとさせて。さっきみたいに素直なって、さあ!」
「逆だ。普段素直だけど、さっきまでひねくれてたんだよ。つうか状況見ろよバーカ。ふざけてる余裕あるように見えるか?」
「だってあたしは彼女なんでしょ? チェシャくんは愛する彼女にそんな態度取るんですかー!」
愛莉が煽ると、チェシャ猫は徐々に調子を取り戻した。愛莉がいつもどおりでいれば、引っ張られるようにして自分も普段どおり、強気になれる。
チェシャ猫は愛莉を一旦離し、拳銃を握り直した。
左手の人差し指が、引き金を押さえる。手に震えはない。耳鳴りはするし暗さで目が利かないが、今なら胸が凪いでいる。
黒い獣の根元、潰れた白装束が、暗闇の中でやけに浮いて見える。その手が掴んで離さない、腐った男の死体。チェシャ猫はそこに、銃口を向けた。
パシュッと風を割く音がして、男の骸が飛び跳ねた。途端に、黒い獣が全身でびくんと痙攣する。
「やめて、さわらないで……ころす」
また、女の声がした。獣が牙を剥き、チェシャ猫を頭から飲み込もうとする。どろどろとした唾液らしき黒いものが滴り、チェシャ猫の頬を濡らす。愛莉がひゃっと短く叫び、チェシャ猫の腕を抱きしめる。
チェシャ猫は頬をそれを腕で拭い、容赦なく、四つめの弾を腐った男に撃ち込んだ。チェシャ猫の頭を覆っていた巨大な口が飛び退き、黒い液を吐いて身をよじる。
獣ががくっと姿勢を崩す。巨大な角が真ん中から折れて、折れた先から灰になる。チェシャ猫がまた、引き金を引いた。ぶら下がった死体が反動で飛び跳ね、女の嗚咽が聞こえた。獣はその巨大な体で、男の骸を覆った。
「しなないで」
悲しそうな声に、愛莉は思わず身を強張らせる。チェシャ猫はまだ、硝煙を上げる銃口を突きつけたまま、警戒を切らさずにいた。
山のような巨躯の獣から、儚げな女の泣きそうな声が滲み出す。
やがて男の骸が、灰の塊となってぼろりと崩れ落ちた。それを大切に庇っていた獣は、顔と思しき場所からどろどろと、黒い雨を溢した。
「あまい、すもも、あなたと……」
黒い液は涙だったのだろうか。男の形をしていた灰の上に降り注ぎ、それも灰となり、獣の全身が削れるように溶けていく。そのまま巨大な体が横たわり、全てが灰になった。
いつの間にか空は明るくなり、石畳に光射している。青々とした木々には、鳥の声が戻った。
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