神様という名の

『和心茶房ありす』に帰ってくる頃には、時刻は夜七時を回っていた。

 愛莉は、カウンター席に座って、携帯で獅子角神社の神話を調べていた。有志の研究者が書いたブログに、神社のホームページにあった以上に詳細な物語が記されている。


 スモモの実に毒を仕込んで男神を殺した女神は、苦しむ男神を見て、胸を痛めた。毒のないスモモをもうひとつ用意して、愛の力で解毒を図ろうとするも、男神の心はすでに浮気相手の別の女神のもの。男神は愛では救えず、息絶えた。


 愛莉は、本殿の前にいた白装束の女を思い浮かべた。彼女の手は常に、死んだ男の手と繋がれていた。男神の不貞を許さなかった女神だが、きっとまだ彼を愛していたのだろう。だから手を離さずにいた。死んでいる体をいたぶられるのも、耐えられなかった。


「かわいそう……うーん、でも……」


 愛莉が唸っていると、彼女の手の横にトンと、花札の茶托が置かれた。


「悲しいお話だよね。だけど同じ悲劇を繰り返さないためにも、彼女には眠ってもらわないといけない」


 優しくそう話すのは、シロである。茶托の上に、愛莉が注文した抹茶ラテを置く。


「もともとね、縁結びの神様は嫉妬深いって、よく言われるんだよ。だから縁結びの神社には、カップルで行かない方がいいんだってさ」


「じゃあ、あの神社の神様は、カップルいっぱい来るからムカついて、レイシーになっちゃったの?」


 愛莉が聞くと、シロは難しそうに答えた。


「まだ解析できてないから、断言はできないけれど……神話から生まれた崇拝物と、想いを遂げられなかった参拝客の感情と、それを嘲笑う人の醜さとか、いろんなものが混ざっちゃったんじゃないかな」


「そっか。いろんな人のいろんな想いが、何百年も降り積もってたんだもんね」


 神様はいなくとも、そういったものの集まったもののなれ果てはいる。チェシャ猫がそんなようなことを言っていた。

 チェシャ猫はというと、窓際のテーブル席で事後申請書類を書いている。ただの下見だけのつもりが、ぶっつけ本番で戦闘になってしまった。

 シロが和紅茶を入れつつ、チェシャ猫にそれとなく問う。


「レイシーを発見したの、カップル以外侵入禁止のエリアだったんでしょ。よく入れたね。宮司さんに相談できたのかな?」


 それには、チェシャ猫より素早く愛莉が答えた。


「聞いて驚いてシロちゃん! あたし、チェシャくんの彼女になりました!」


「そういうことにして突破した」


 チェシャ猫もすぐさま説明を付け足し、シロの誤解を防ぐ。それでもシロは、あまりいい顔をしなかった。


「ふうん……」


 シロがテーブルに和紅茶を置く。チェシャ猫は書類にペンを走らせつつ、淡々と話した。


「門だけ突破できればいいとも思ったが、レイシーの狙いはカップルだ。こいつとそれっぽい感じでいた方が見つけやすそうだったら、そのまんま継続した」


 カップル限定エリアに入ってから、チェシャ猫は他の参拝客や神社の職員を見るたびに、愛莉に対して恋人然とした振る舞いをした。彼らのいずれかがレイシーであれば、音波に影響が出ると踏んだからだ。茶屋での言動も店員に鎌をかけるためのものであり、他意はない。

 本殿の脇にいたカップルに対しても、同様の検証をしたまでだった。それがドンピシャリでレイシーであり、しかも本気で怒らせて、真の姿に変貌させてしまったというのが、今回の流れである。


「レイシーはあそこでカップルを待ち構えていた。普段は人の形状のまま、愛情なり欲求なりを喰って、破局させてたってところだろうな」


「君、しれっと言うけど愛莉ちゃんを利用したんだよね?」


 シロが蔑んだ目でチェシャ猫を見据える。冷たい視線に気づいたチェシャ猫は、一旦言葉を呑んでから、開き直った。


「そうだな。こいつは俺がなんか言うと喜ぶから、演技をするのにはちょうどよかった」


「わー、酷い。最低。愛莉ちゃんを弄んだ」


 シロが後退りするのを、愛莉はカウンター席から見ていた。


「あたしは全然構わないよ。あたしはあたしに意地悪なチェシャくんが好きだから、あれが本当じゃなくて安心した。優しくされるとなんか違う」


「てめえ、人には求愛するくせに」


 チェシャ猫が顔を顰める。利用されても怒っていないどころか、むしろ愛莉はご機嫌だった。


「普段のチェシャくんの方が何百倍も好き。でも滅多に体験できない疑似デートができたのも、それはそれで楽しかった! ひと粒で二度おいしい最高のひとときだったよ」


「愛莉ちゃん、それはそれでどうかと……」


 本人がいいならいいのかもしれないが、シロは愛莉にも引いた。チェシャ猫が愛莉に目をやる。


「シロさんくらい察しのいい奴なら、説明しなくても作戦の意図を理解してくれる。だからあんたも感づいてると思ってたんだが……」


「そんなの分かんないよ。なんか急に優しくなったから不気味だなとしか! でもキャラが違うってほどでもないから、もしかして本当にあたしのこと好きなのかなって思っちゃったよ」


 愛莉がニヤニヤする。チェシャ猫は嫌そうな顔で身震いして、紅茶の湯のみを手に取った。


「ガキ相手にそうなったら気持ち悪いだろ」


 愛莉が変に緊張して大人しくなったのは、チェシャ猫には計算外だった。普段どおりベタベタしていてくれれば、カップルを探しているレイシーが反応する。愛莉が消極的になってしまったら、チェシャ猫が積極的になるしかない。下手な芝居で臭い台詞を言わされたのは、彼のプライドを傷つけた。


 とはいえ、打ち合わせもなしに愛莉を巻き込み、そして自分への気持ちを利用したのは、チェシャ猫も反省している。彼はテーブルに肘をついた崩れた姿勢で、雑に謝った。


「シロさんの言うとおり、あんたを利用した。それは謝る」


「怒ってないのに。パラレルワールドみたいで楽しかったよ」


 愛莉がきょとんとする。それでもチェシャ猫は、妙に律儀な性格をしていた。


「借りを作ったままにしておきたくない。奢るから、シロさんになにか好きなもの作ってもらってくれ」


「えー、どうしよっかなあ。それよりぎゅっと抱きしめてほしいなー。あたしがふらついたのを支えてくれたのは、緊急時だったからノーカン」


 冗談半分に愛莉が要望を出すと、チェシャ猫は舌打ちしてから、両腕を広げた。


「シロさん。通報しないでくれ」


 愛莉は目をぱちくりさせつつ、椅子を立ち、その腕の中に吸い寄せられた。チェシャ猫は彼女の背中に腕を回し、ふわっと抱き寄せる。

 途端に、警報が鳴ったかのように愛莉が黄色い歓声を上げた。


「ぎゃあー! 本当に! 本当にしてくれたー! 言ってみるもんだなあ!」


「で、シロさん。俺が今回ぶっ殺したの、崇拝物が根源になってるんだよな。それを神と形容するとしたら、あの神社のあの本殿は今、建物があるだけで神がいない状態なんだよな」


 チェシャ猫は愛莉を抱きしめながらも、平然とシロに話しかける。愛莉の声で半分以上かき消されているが、なんとなく聞き取れたシロは、盆を抱えて頷いた。


「そうだね。だけどそこに神様がいると人々が信じていれば、いずれまた祈りが蓄積する。そうすれば、また崇拝物が生まれるんじゃない?」


「純度の高い祈りならいいが、混ぜものが入るとああいう化け物になるんだよな」


「基本的には聖なるものなのにね。結局は人間の創作物だから、完全完璧な形にはならないのかもね」


 ふたりが落ち着いて話している間も、愛莉は打ち震えて感激していた。浮かせていた手をチェシャ猫の背中に回し、抱きしめ返す。


「うわあー! これからは貸し、作りまくろ!」


 三十秒程度ハグしていたチェシャ猫は、腕を解いて再び書類に向き合おうとした。腕を外しても、愛莉はチェシャ猫の肩に顎を置いて、べったり貼り付いたままである。愛莉がいると書類を書きにくい。チェシャ猫は諦めて、再びシロに話しかけた。


「レイシーを潰したところで、破局した奴らが復縁するわけじゃねえんだよな」


「喰われた感情が、元の場所に戻るわけではないね」


 チェシャ猫は、絵里香と禎輔の破局を思い浮かべていた。愛莉が気にかけていたふたりだったが、レイシーを駆除したところで、都合よく関係が修復されるわけではない。

 チェシャ猫の無表情を一瞥し、シロは付け足した。


「とはいえレイシーをきっかけに別れただけで、本当は心が繋がってるふたりなんだとしたら、また縒りを戻すよ、きっと」


 救いを持たせるシロに、チェシャ猫はそうか、と短く返す。絵里香と禎輔がどうなるかは、あとは本人たち次第だ。

 ふたりのやりとりを聞いていた愛莉が、顔だけシロを振り返る。


「あたしとチェシャくんはずっとラブラブだったから、喰われてもいないんだよね。やっぱり、レイシーよりあたしの愛の方が強かった」


「あんたが化け物級に明るいから、レイシーも怯んで喰えねえんだろ」


 そういった意味でも、今回も愛莉に助けられた。愛莉が盾になってくれたおかげでレイシーの攻撃を免れ、そしてチェシャ猫も落ち着いて相手の弱点を見抜くことができた。

 愛莉がようやく、チェシャ猫の肩から顔を上げる。


「あ、ねえチェシャくん」


 体を離した愛莉は、チェシャ猫と真正面から向き合い、尋ねた。


「『神様の前じゃ嘘はつけない』って言ってたけど、チェシャくん神様信じてないし、あのあとの言葉は嘘? あたしと一生添い遂げたいのも、嘘?」


「なんだそれは。記憶にないぞ」


 チェシャ猫が気色ばむ。愛莉は記憶を辿って、チェシャ猫の台詞を思い起こした。


「違ったかな。えーっと、『助けられてるのも事実』『これから先も、あんたに隣にいてほしい』、だっけ」


 チェシャ猫の体がぴたっと、固まった。カウンターに戻ろうとしていたシロが足を止める。愛莉は無邪気に続けた。


「その前の、うぜえとかうるさいとかはいつも言ってるし、『助けられてるのも事実』っていうのも、嘘じゃないでしょ。実際あたし、今日もいろいろ協力した。じゃあ……」


 チェシャ猫はしばし口を結んで、愛莉を見ていた。ちらりとシロにも目をやる。シロは彼らの方を振り向いて、チェシャ猫の返答を待っている。

 チェシャ猫はなにか言いかけて、言葉を止めた。開きかけの口の端から僅かに牙を覗かせ、目を伏せてじわっと頬を染める。

 結局なにも言わず、愛莉を腕で押し返して椅子から立ち上がった。書類を手に持ち、店の扉へ向かっていく。

 中途半端にして逃走する彼に、シロが呼びかける。


「おーいチェシャくん」


「書類、役所に出してくる」


 それだけ言って、チェシャ猫は店から出ていった。シロはふっと苦笑いする。


「書類は書きかけだし、役所はもう窓口閉まってるし。そんなに照れなくても……」


「かわいー」


 愛莉は機嫌よさげにカウンター席へ戻り、抹茶ラテを飲んだ。シロは彼女を眺め、微笑む。鬱陶しくはあっても、仕事のパートナーとして、そして自分を引き上げる存在として、彼は愛莉を認めている。チェシャ猫が言葉にしなくても、シロはなんとなく、知っていた。


「よかったねえ」


「うん!」


「でも照れちゃうみたいだから、あんまりからかわないでやってね」


 優しく窘めるシロを見上げ、愛莉はえへへとはにかんだ。今日の抹茶ラテは、一段とおいしい。

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