コンパクトミラー

 愛莉はカウンター席の椅子に立ち膝になって、鞄の中を探った。


「あのね、あのね。昨日、羽鳥さんとお出かけしてきたんだ」


「羽鳥くんと!? なんでまたあんな変人と。大丈夫だった? 悪目立ちしたりしなかった?」


 真っ先に心配するシロに、愛莉は笑って首を横に振る。


「んー、もしかしたら目立ってたかもしれないけど、誰にも迷惑かけたりはしてないよ。それより見て見て」


 愛莉は鞄の中から、目当てのものを取り出した。

 彼女の手のひらに収まるほどの、折りたたみ式のコンパクトミラーである。丸い形に白を基調としたデザインで、端の方に小さく、手書き風に崩された赤いハートが描かれている。金色の縁取りのそれは、可愛らしくて、愛莉らしかった。


「これ、羽鳥さんに貰った!」


 それを聞くなり、チェシャ猫とシロが怪訝な顔になる。


「羽鳥から……」


「うん! 羽鳥さん、ジャバウォック対策に鏡の研究をしててね」


 愛莉が途中まで話すなり、チェシャ猫が彼女に手を伸ばした。愛莉は嬉しそうに、彼の手に鏡を置く。シロも不安げに覗き込み、ふたりは顔を見合わせた。


「あいつ、こんなのまで作るのか。どんな素材でどんなギミックがあるのか知らないが、こいつに持たせて実験台に……?」


「ジャバウォック被害者の層に合致する愛莉ちゃんに、試しに持たせてみたのかな。信じられないけど、羽鳥くんならやりかねない」


「待って待って、違うよ。それはお店に売ってる普通の鏡だよ」


 誤解している彼らに、愛莉がわたわたと両手を振る。


「ジャバウォックが住み着く鏡の条件を調べるのに、あたしに相談してくれたんだよ。で、相談に乗ったお礼として、これ買ってくれたの」


 羽鳥に付き合ったあと、愛莉は店でいちばん気に入った鏡をプレゼントしてもらい、その場で羽鳥と解散した。羽鳥は調べることがあるらしく、その足で大学へ一直線だった。

 疑り深くなっているチェシャ猫が、ここにいない羽鳥を威嚇する。


「あの羽鳥が、そんなまともな気の利かせ方するか? ……いや、するかもしれない。分からねえ。あいつは元から、なにをするか予測できない」


 威嚇しながら冷静になり、分からなくなって、蓋を閉じたままの鏡を愛莉に突き返す。シロが腕を組み、頷いた。


「あの子、自由人ではあるけど、常識的なんだよね。狩人の秘密は口外しちゃだめっていうルールはちゃんと守ってるし、役所からも信頼されてるし……。流石に愛莉ちゃんを実験台にしようなんて、そんな酷いことしないよね」


「そうだよ! 羽鳥さんはジャバウォックが流行に敏感なイマドキ高校生っぽい趣味してるかもしれないから、ってあたしを呼んでくれただけだよ」


 鏡を手に、愛莉が羽鳥を庇う。チェシャ猫とシロはますます、羽鳥が分からなくなった。


「ジャバウォックはレイシーだろ? デザインの嗜好性とかあるのか?」


「さあ……可能性として一応情報収集したのかな……? 羽鳥くん、着眼点が僕らの斜め上なんだよなあ」


 困惑するチェシャ猫とシロを横目に、愛莉は貰った鏡を撫でた。


「イマドキ高校生代表として呼んでもらったけど、実はあたし、こういう鏡、持ってなくって。お手伝いに行ったのに、あたしがお洒落させてもらった気分」


 ジャバウォック対策への協力という点を抜きにして、愛莉は、この鏡が純粋に嬉しかった。


「あたし、お姉ちゃんと一緒の部屋だから、メイク用の鏡もお姉ちゃんと共用なんだ。自分用の鏡を持ったの、初めてなの」


 素直な愛莉に、シロは緊張が緩んで、ふにゃりと微笑む。


「ふふっ、よかったね。喜んでもらえて羽鳥くんも嬉しいと思うよ」


 チェシャ猫はふたりを眺め、和紅茶と豆乳プリンを置きっぱなしにしていた元の席へと戻った。愛莉は喜んでいるが、このジャバウォック騒動のさなか、鏡というプレゼントはどこかナンセンスな気がしなくもない。

 愛莉がてくてくと、チェシャ猫に歩み寄る。


「大丈夫! そんなに拗ねなくても、あたし、羽鳥さんに靡いたりしないよ。もちろん好きだけど、いちばんはチェシャくんだからね」


「そんな心配してねえから、わざわざ弁解に来なくていい。それよりあんた、バイトのシフトで来たんじゃねえのか。さっさと支度しろ」


 チェシャ猫が愛莉を目で追い払う。愛莉は鏡を鞄にしまい、彼に従った。


「そうだった! お仕事お仕事」


 背を向けた彼女に、チェシャ猫は、思い出したように付け足す。


「それはそうと、ジャバウォック被害に遭ってる奴、そういう小さい鏡を持ち歩いてた人が多い。あんたが左右反転してたら殺すからな」


 言った瞬間、愛莉は再びチェシャ猫の方を振り返り、一瞬の隙すら見せずにチェシャ猫の首に抱きついた。


「心配してくれてるのに言い方が物騒。ほんと好き」


「この素早さで首狙ってくんの、怖えな」


 万が一、愛莉に成り代わったジャバウォックが、この速度で首を取ってきたらと思うと、チェシャ猫は気が休まらなかった。

 愛莉が着替えに席を外し、ホールは再び、チェシャ猫とシロだけになった。シロがグラスにわらび餅を盛り付けつつ、感慨深げに言う。


「春休みが明けたら、愛莉ちゃんも二年生だね」


「ふうん、そうなのか」


 チェシャ猫は片付けた資料をもう一度読み返している。愛莉の進級に全く興味を示さない彼に、シロは苦笑いした。


「愛莉ちゃんが何歳かくらいは、君でも分かってると思ってたよ」


「どっちにしたってガキはガキだろ」


「高校生なのは変わらないけど……でもさ、こうやって大人になっていくんだなあと、しみじみしちゃうよ。他所のうちの子って、成長早いよね」


「親戚のジジイか、あんたは……」


 チェシャ猫はシロの世間話を半分聞き流し、資料に目を向けている。シロも、作業がてらの鼻歌感覚で話しかけていた。


「そのうち愛莉ちゃんも、絵里香ちゃんみたいに彼氏さん連れてくるのかなあ。あり得るお歳頃なんだよね。今日だってなぜか羽鳥くんとデート? してたみたいだし」


「……鏡に入ってるときを狙う……鏡に追い込んで、その鏡を割ったらどうなる? ……いや、破片が増えるだけで鏡が機能を失うわけじゃねえな」


 チェシャ猫はすでに、半分以上聞いていない。ジャバウォック対策で頭がいっぱいである。シロは気にせず、マイペースに話した。


「まだ見ぬ彼氏さんに夢中になって、愛莉ちゃんがチェシャくんとこに行かなくなったら、ちょっと寂しいな。僕ね、君と愛莉ちゃんの絡みを見るの、好きなんだよ。娯楽として」


「いっそ鏡を粉々に……無理があるか。そもそも上手く誘導する自体難しそうだ。こっちに敵意があると分かってるレイシーなんて、なにしてくるか分からねえ」


「愛莉ちゃんも大人になっていくわけだから、彼氏さん云々関係なく、そのうちチェシャくん自体に飽きるかあ。今年じゅうかな」


 ふたりとも、お互いに好き勝手にひとり言を呟いている。やがてシロが、ふいに問いかける。


「時にチェシャくん、その後ポイソンから連絡はない?」


「あ? ああ。向こうからはなにも。昨日本社へ行ったが特に変わった点はなかった」


 話題が変わると、ふたりはようやく会話した。シロがわらび餅に、フルーツとこし餡を添える。


「被害が広がってないならよかった。警備員さん風レイシー、自分の持ってた情報を他のレイシーに伝えてないんだね」


 レイシーは、人間に馴染むために協調性らしき演技を見せるが、レイシー同士で協力し合うケースは殆どない。それどころか、自分以外に自分のようなものがいると、それすら知らないレイシーも多い。おかげで、ポイソンの秘密の漏洩は、あの警備員限りで食い止められていると見られる。

 シロがネガティブ思考に落ちていく。


「でも油断はできないよね。またどこかで別のレイシーがポイソンの秘密を知ったらと思うと。仕掛けてくる攻撃はレイシーによって違う。社員さんが襲われるかもしれないし、建物そのものが爆破されるかも……」


「洩れたもんは回収できねえ。ポイソンの社員を全員まとめて守れる方法があればいいんだがな。まあ、それを言い出したら全人類レイシーに喰われるリスクはあるんだから、キリがねえか」


 チェシャ猫に冷たい目で見られ、シロは一旦、嫌な想像を振り払った。起こり得る事態に怯える暇があったら、それを対策する手段を練った方が有意義である。


「問題はどこから洩れたのかだよねえ。ポイソンの秘密を知ってるレイシーが一匹でもいたのなら、少なからず誰かから聞いて知ったということになる」


「小栗は……ポイソンのことは、知らねえか」


 チェシャ猫が心当たりを呟くも、自分で否定する。シロは小さく頷いた。


「今回は彼ではないでしょうね。まだ少年院から出てきてないし」


「あいつ、狩人をレイシーに売りたい人間だろ。院から出てきたら即行レイシーとコンタクト取りそうだな」


「ね。そうしないように、狩人か役所の職員かが監視役として置かれるんじゃないかなあ」


 彼と知り合い、別れたのも、もう三ヶ月も前だ。チェシャ猫のシロの胸には、未だに衝撃が残されている。

 数秒の沈黙ののち、チェシャ猫が脚を組み直して言った。


「ああいう思想のガキもいたくらいだ。今回の情報漏洩も、なんらかの悪意ある人間がやらかしてるかもしれない」


「そうだね。小栗くんのときより情報が広がってないけど、どんな誰がどういう意図で漏洩したのか、そこは気になるよね」


 そんな真剣な話をしているところへ、着替えを終えた愛莉が戻ってきた。


「いらっしゃいませー! あ、なになに? なんの話してたの? あたしも混ぜて」


「んー? 愛莉ちゃんに彼氏さんができたらって話をしてたんだよ」


 シロがしれっと誤魔化す。チェシャ猫は資料から顔を上げた。


「そんな話、してたか?」


「してましたけど?」


 シロはグラスの端にホイップクリームを載せて、愛莉に差し出した。


「愛莉ちゃん、新作の味見、お願いしていい? わらび餅アラモード」


「やったー!」


 新作の香りに誘われ、愛莉が歓声を上げる。彼女の明るい表情と声に、シロはほっと微笑み、チェシャ猫は気の抜けたため息をついた。

 ジャバウォックやら、ポイソンの秘密の漏洩やら、気にかかる問題はいろいろある。だが愛莉を見ていると、肩の力が抜けるのだった。

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