豆乳プリン攻防戦

 その翌日。『和心茶房ありす』で、シロがチェシャ猫に、豆乳プリンを差し出していた。チェシャ猫は先に出されていたいつもの和紅茶を啜り、横に立つシロを見上げる。


「デザート? 頼んでないぞ」


「サービス。前に作ったのをアレンジした、新作だよ。ちょっと味を見てほしくてね」


 味見を頼まれることはよくある。チェシャ猫は添えられていたスプーンを手に取った。豆乳プリンは以前出されたものと違い、表面が茶色い。その匂いだけで、チェシャ猫はなんのアレンジが加わったのか、察しがついた。

 シロは彼の仕草を観察し、にこりと微笑む。


「よし。ちゃんと左手でスプーンを持ったね」


「あんた、人をジャバウォックと疑ってるのか」


「はは。今は全員を疑ってかからないとね。あ、僕も間違いなく本物のシロさんだよ」


「見れば分かる」


 左利きのチェシャ猫は、食器を左手で持つ。シロは盆を抱えて、プリンの表面にスプーンを差し込もうとするチェシャ猫を眺めていた。


「新作はね、さほど甘味を好まない君みたいな人でも注文しやすい味にしてみたんだ。無理に食べてほしいって意味じゃなくて、一緒に来た人がスイーツ頼んでるのに自分は頼まないのは気まずい、みたいなときにね」


 場を大切にする、シロらしい心遣いだ。チェシャ猫はスプーンの先を、プリンに当てた。シロが機嫌よさげに続ける。


「このプリンに使った豆乳は、麦芽コーヒーの豆乳で……」


 そこまで言って、シロは横からさっと、チェシャ猫のプリンを奪った。今まさに掬おうとしていたチェシャ猫は、突然目の前から的が消え、固まった。

 シロがプリンを手に苦笑いする。


「ごめん……君、コーヒーだめだったね」


「だからって、いきなり横から取らなくても。そういうのくれ騙しっていうんだぞ」


「言い訳を聞いてくれ。飲めないのは把握してるから、コーヒーを勧めたりはしない。でもね、ほろ苦いスイーツを作ろうって考えたら真っ先にコーヒーを思い浮かべてしまって、そして味見担当として真っ先に思い浮かべたのが君だったというだけなんだ。決して、君がコーヒー飲めないのを忘れていたわけではない」


 言い訳が饒舌なシロを、チェシャ猫はしばしじっと見て、ため息をつく。


「臆病だな。別にコーヒー出されたくらいじゃ殺さねえよ」


 前にシロがレイシーに取り憑かれたとき、チェシャ猫は、シロが自分にコーヒーを出したという理由で「シロではない」と見抜いた。


「あのときは、他の状況も明らかに異様だったから疑っただけ」


 今ここで天然ボケをかましたのは本物のシロである、と、チェシャ猫には直感的に分かる。シロはコーヒー豆乳プリンを片手に、カウンターへと戻った。


「信じてくれるのは嬉しいけど、もっと警戒していいよ。この近辺にも、ジャバウォックが出たんだから」


 シロは無傷のままのコーヒー豆乳プリンを冷蔵庫に戻し、代わりに前回と同じ、黄色い豆乳プリンを取る。合わせて、カウンターの内側に置いていた封筒も手に持った。


「今日、君に来てもらったのは、プリンの味見のためだけじゃないんだよ。これを読んでほしかったの」


 替えのプリンと共に、封筒がチェシャ猫の前に置かれる。役所から取り寄せた、ジャバウォックに関する資料だ。

 チェシャ猫はスプーンを指の谷間に挟んで、封筒から中身を抜き出した。


 昨日昼頃、ジャバウォック被害者と見られる二十代女性が、心療内科を受診した。ここ数日他県に旅行へ出掛けており、帰ってきてから、時折人が変わったように揉め事を起こすようになった。解離性同一性障害を疑われた彼女は、心療内科を勧められ、昨日受診した。

 なお、旅行先では、土産物として現地の彫刻が施された手鏡を購入している。また、旅行から帰ってきた彼女は、旅行前は決まった方向に分けていた前髪を、旅行後からは時々左右を変えるようになった。他にも、いつもと少しだけ、容姿が微妙に違って見えるときがあるという。

 女性は、意思にそぐわない行動をしている自分に恐怖し、すっかり塞ぎ込んでしまった。ベッドから動かなくなった代わりに、それ以来人格が変わることもなくなった。という報告である。


「旅行先で購入した鏡にジャバウォックが憑いていて、ジャバウォックと共にこの辺に帰ってきた。そして彼女はジャバウォックにコピーされ、精神を吸い尽くされた。現在、ジャバウォックはすでに別の鏡に転移している。と見られる」


 シロが壁に寄りかかる。


「いよいよ近づいてきたよ。僕も君も、明日は我が身だ。怖くて鏡を見られなくなりそう」


 シロのやや自嘲気味な言い方に、チェシャ猫は、左手の指に挟んだスプーンを一瞥した。お互いに、いつどこで偽物にすり替わるか分からない。シロがこの資料を見せる前に自分の利き手を確認したのも、肯ける状況だ。


「このとおり僕はビビリだから、役所にお願いして、ジャバウォックに関するデータを片っ端から送ってもらった。一八七一年当時のデータと、この頃発生してる方のデータ、全部」


 シロの視線が封筒に向く。チェシャ猫は重なった資料の端を、指でさばいた。事例の報告だけでも、二十枚以上ある。

 丁寧に読み込むのは面倒なので、ざっと目を通す。観測された日時、被害者の特徴、戻ってからの精神状態など、それぞれの事例が箇条書されている。

 いずれの被害者も、今回心療内科へ搬送された女性と同様、問題を起こして人間関係を壊している。人によって、重度は違う。身に覚えのない兄弟喧嘩で済んでいる人もいれば、知らないうちに犯罪の容疑者になっていたという、最悪なケースも見られる。


 チェシャ猫は資料を捲りつつ、豆乳プリンにスプーンを差し込んだ。

 被害者の特徴は様々で、これといった共通点は見られず、老若男女全てに被害が発生している。

 ただ、一八七一年当時は、比率で見ると貴族が多い。これは単に、貴族階級でもないと記録が残されない当時の情勢もあるのかもしれない。

 最近日本で発生している事例では、女性が多い。特徴として多いのは、メイク直し用にコンパクトミラーを持ち歩いていた人、その次に多い特徴が、単身者である。


「漠然とだけど、被害者に偏りがあるな」


「うん、女性がメイン層だね。報告されてる個人の個性を見ても、ファッションやメイクにこだわりが強い人が多い。日頃から鏡を見る習慣のある人がリスクを負うのは、想像どおりだね」


 先に目を通しているシロも、同じ部分に着目していた。


「単身者が多いのは、なんでかなあ。チェシャくんはまさに単身者だけど、どう? 鏡、意識する?」


「歯を磨くときくらいしか意識してねえな」


「だから愛莉ちゃんに、ダサいとかモサいとか姿勢が悪いとか言われるんだよ」


 チェシャ猫の生活の雑さに小言を言い、シロはまた、資料に話を戻した。


「日常的に鏡を見る機会が多い人が、必然的にリスクが高まる。それだけなのかな?」


「鏡を見る回数で言えば、鏡の製造業者とか販売業者なんかは、それ以上に鏡を見るんじゃねえのか?」


 チェシャ猫が言うと、シロはハッとした。


「たしかに! なんで気づかなかったんだろう。それに、車のミラーみたいな、自分の顔を見る以外の用途の鏡もある」


「でも、報告が多いのは顔を見る用の鏡を携帯していた女性だな。単純な『見る回数』以外に、なにかあると見た」


 チェシャ猫が豆乳プリンを掬い、スプーンを口に運ぶ。まったりした奥ゆかしい甘さの、やや硬め食感のプリンである。


「面倒くせえ。しかもジャバウォックは、銀が効かねえんだろ」


 イレギュラー中のイレギュラーに、チェシャ猫は会う前からうんざりしていた。シロも考えながら、ため息をつく。


「うん。鏡が好きだからかなあ。窓の反射みたいな、鏡でなくとも鏡の代わりになるものもあるけど……被害者は、銀を使用した鏡を携帯していた人が多いよね」


 銀の弾丸を武器にしてきたチェシャ猫としては、銀が効かない相手は不愉快そのものである。ジャバウォック応戦用に、なにか新しい武器を持っておかなくてはならない。


「銀以外でレイシーに嫌われがちなものといえば、強い光、塩……どれも実用的じゃねえな」


 基本的に、狩人の武器は銀を前提とする。種類を問わず、大抵のレイシーは銀による攻撃で死ぬ。銀に並ぶほど強い威力と汎用性があるのが光だが、これは昼だと効果が薄い上に夜だと目立ちすぎる。さらに人間の目にも害を及ぼすほどの光なので、推奨されない。塩は効く相手には効くが、効果のあるレイシーの範囲が狭い。

 チェシャ猫に続いて、シロも案を出した。


「黒水晶や黒メノウ系の天然石。これは本物じゃないと意味がないから、ちょっとリスキー。あとは……イワシの頭」


 魔除け効果があるといわれる天然石は、武器にするというより、身を守る装備としてつけている狩人は多い。イワシの頭は、日本古来より伝わる魔除けの方法だが、これはレイシーに限らず、人間も嫌がる。現にチェシャ猫も、眉間に皺を寄せていた。


「持ち歩きたくねえな、イワシの頭」


 シロは彼の反応にくすっと笑い、続けた。


「昨日、羽鳥くんも役所に資料取りに来たんだって。あの子、狩人じゃないけど、実家が特殊だから融通利いちゃうんだよね」


 レイシーに関する資料は、狩人と役所、それと指定研究機関以外には持ち出し禁止である。ただし羽鳥家のような、古来から狩人の仕事に手を貸してきていた存在は、特例的に許される場合もある。


「羽鳥くんなら、ちょうどいい武器を作ってくれるかも。あの子、僕らとは全く違う視点を持ってるから。それこそイワシの頭でなにか作ってきたりして!」


 後半に冗談を投げ込み、シロは壁から背を離した。


「さてと。コーヒー豆乳プリンはどうしよっかな。深月くんも羽鳥くんも甘いもの好きだし、愛莉ちゃんもコーヒー苦手だし……」


 新しい味見役を考えながら、シロがカウンターへ向かっていく。チェシャ猫は資料を封筒に戻し、ぽつりと言った。


「別に……俺でいいだろ。俺みたいなのに向けて作ったんだから」


「でも君、コーヒー苦手でしょ?」


 シロが驚いた顔で振り返る。チェシャ猫は頷きながらも、催促した。


「そうだけど、あんたがそういうつもりで作ったものなら……」


「えっ!? 君そんなかわいげのあること言う子だっけ? 誰? さてはジャバウォックだな」


 シロが後退りした。よかれと思って言ったのに警戒され、チェシャ猫はカッと牙を剥いた。


「俺は元から、出されたものを粗末にはしない。あんたこそ、一度出したものを引っ込めるなんてシロさんらしくないぞ」


「おーっと、乗ってきた。いいねいいね、信頼あってこその警戒だよ」


 チェシャ猫の反応を面白がって、シロは冷蔵庫を開けた。一度しまったコーヒー豆乳プリンを再び取り出し、カウンターから前のめりになり、プリンを持った腕をチェシャ猫の方へ伸ばした。


「はいどうぞ。鏡から出てきた反転チェシャくんなら、苦手なはずのコーヒーが平気なってるのかもしれない」


「性格や嗜好まで反転するというのは、あんたが冗談で言った仮説だろ。この資料にそんなデータはなかった。なんならジャバウォックは、元の人間と自然に入れ替わるために、不自然な言動は慎むはずだ」


 シロの挑発に苛立ちつつも、チェシャ猫は椅子を立ってカウンターに歩み寄る。

 そのとき、扉の鈴が鳴って、外から来客がやってきた。


「やっほー、シロちゃんお邪魔します! チェシャくんもいる!」


 元気よくやってきたのは、愛莉である。シロがにこりと、愛莉に笑いかけた。


「いらっしゃい愛莉ちゃん」


 チェシャ猫はというと、愛莉を一瞥しただけでなにも言わず、シロの手の中のプリンにスプーンを突っ込もうとした。

 しかしシロは、プリンを素早く横にスライドさせてスプーンを躱す。


「そうだ。山根さんはコーヒー党だった。コーヒーが苦手なチェシャくんが無理に味見するより、好きな人に食べてもらった方が本望だな」


 どうぞと言われたのに躱され、チェシャ猫は普段以上に険しい顔になった。


「あんた、今回は流石に……わざとだろ」


「ごめん、そのとおり。二回目はわざと。面白いから」


 正直に言って、シロはプリンを手の中に隠した。


「君には近いうちに、抹茶豆乳プリンをご用意するよ。お楽しみに」


「あんた今、『面白いから』って言ったな……」


 チェシャ猫はカウンターに手をついて、スプーンを浮かせている。扉の前の愛莉は、目をぱちぱちさせた。


「どういう状況?」


「大変だー、愛莉ちゃん。チェシャくんがジャバウォックかもしれない」


 シロはまたいたずらを仕掛けて、コーヒー豆乳プリンを冷蔵庫へと片付けた。

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