三月ウサギの社交の場

 一方その頃、深月はなんとか調達した男友達ふたりを連れて、社交の場へとやってきた。


 しかしひとつ、気がかりがあった。なんと予約した店をキャンセルなかったのである。今日舞台になる店は、レイシー出現エリアの真ん中辺りに位置する、創作イタリアンの店だ。

 正直不安ではあるが、飲み会は自分たち以外のグループでも行われている。倍率の高さを考えれば、大丈夫だろうと判断した。それにこの件のレイシーは、死人を出さない。万が一被害があったとしても、翌朝には戻ってくるのだ。


 数分外で待っていると、女性三人連れが合流した。ひとりは深月の知人でこの会の主催のひとり、あとのふたりは彼女の友人たちだ。

 店に入り、予約していた個室へと案内される。初対面だらけの中、六人はそれぞれ名前と職業だけの短い自己紹介をし、会が始まった。


 賑やかなテーブルで、深月は少し、昔の出来事を思い出していた。あの日も、こんな合コンの夜だった。


 *


 十年程前。当時深月は、大学生だった。成人して酒が飲めるようになり、毎日が楽しくて仕方なかった。

 今日が楽しければ、それでいい。未来のことは、今心配したってどうしようもない。そのときになったら考えればいい。

 そんなふうに、楽観的に生きていた。


 それが祟ったのか、彼はレイシーに襲われた。

 大学の友人らとその知人で集まって飲み、メンバーのひとりの手頃な女を引っかけたのが間違いだった。


 いつの間にか紛れ込んでいたそのレイシーの女は、深月を人けのない路地へと誘い込むなり、肌がどす黒く染まり、ぶつぶつと呪詛を唱えはじめた。女を丸ごと呑み込むように、周囲が深い闇に染まる。

 深月はたまらず逃げ出した。耳の奥に、様々な音がわんわんと反響する。怨念めいた女の声、男の罵声、赤ん坊の鳴き声。許しを請う男の叫び声、女の悲鳴、嬌声。

 膨れ上がっていくブラックホールが、逃げる深月を追いかける。逃げても逃げても、燃え広がる炎のように、背後の闇は膨らみ続ける。足がもつれる。闇はどんどん自分を呑み込んでくるのに、走れなくなっていく。

 もはや、前も見えない。暗闇の中、深月は叫んだ。


「助けて!」


 そのとき、誰かが前から、深月の腕を引きつけた。引っ張られると同時に、これまでの闇が嘘だったかのように視界が拓けた。


 自分を支えていたのは、和服姿の、壮年の男だった。

 彼は袖の捲れた腕を伸ばし、拳銃を突き出している。その先では、追いかけてきていた何者かが初めに見ていた女の姿に戻って、黒い灰を噴き出して倒れていた。


 呆然とする深月に、和服の男がにこっと笑う。


「怪我はないか、小僧。よく逃げ切った。頑張ったな」


 その男は、霊障退治屋、通称「狩人」と名乗った。


 すっかり縮こまっている深月を、狩人の男は自宅へ招き入れた。そして、今日見たものは忘れるようにと諭した。


「いや、忘れられないっすけど!」


「じゃ、忘れなくてもいいから口外しないように。俺たち狩人の命が危うくなるからね」


「なんなんですか、あれ。あんなのがいるなら、俺もうアパートでひとりになりたくないです」


 正体が分からないものほど、恐ろしい。せめてあれが何者なのかだけでも知りたい。そう言った深月に、狩人の男は丁寧に説明してくれた。

 レイシーという化け物と、それを狩る、狩人。深月はそのとき、自分の知らない世界をひとつ知った。


 狩人の男の家には、もうひとり、青年が住んでいた。


「あれ、女癖の悪い奴ばかりを狙ってるレイシーじゃなかった?」


 端正な顔立ちで、冷ややかな目で深月を見る。彼は狩人の男の甥だという。


「そんな連中のために、叔父さんが命懸けで戦うの、馬鹿らしくない?」


「ははは。警察だって消防だって自衛隊だってそうだろ」


 叔父は明るく笑うのに、甥の方はむっすりしている。狩人の男は、深月の肩を叩いた。


「今日は泊まってけ。白、こいつに着替え貸してやれ」


「え……やだ」


 甥が眉を寄せるも、狩人は気にしない。


「明日、役所に行って誓約書を書かせる。その前に外に出て、万が一にも情報洩らされたら敵わないだろ。だからそれまで、お前がこいつを見張ってろ」


「なんで僕が……まあ、サポート業務だと思えば、仕方ないか」


 奔放な深月に嫌悪感があるのか、甥は深月にいい顔をしない。深月は、そろりと会釈した。


「よろしくお願いします、えっと……白さん」


 そんな彼に、狩人がまた笑顔を向ける。


「シロちゃんでいいぞ!」


「ちょっと、叔父さん。勝手になにを……」


 甥――シロは、終始深月に不快感を顕にしていた。


 *


「深月くーん、聞いてる?」


 声をかけられて、深月は我に返った。目の前には色鮮やかな料理とカクテル、賑やかに笑う男女。

 届いたばかりの酒を呷り、深月は思った。

 あの頃のシロちゃんは、少し、チェシャ猫と似ているなと。


 時間は刻一刻と過ぎていき、コース料理が全て出てきてしばらく経ち、やがてお開きの時間となった。

 深月がまとめて会計を済ませ、残りの五人を店の外へと呼ぶ。女性三人の内ひとりは、深月と意気投合して、真っ先に彼の方へと駆けてきた。


「ねえ、このあとどうするー?」


 ふたりの様子を見て、友人の男がにんまりする。


「なになに? そこ、いい感じ?」


「いい感じー!」


 すっかり酒が入った深月の頭からは、レイシーの件など消えていた。仲良くなった女性と、次の店はどこにするかなどと話し合いはじめる。

 それからふと、首筋に寒気を感じた。


「ん、なんかここ、風が冷たいな」


 どこからか、冷たい空気が流れてくる。火照った頬が、冷えた風を敏感に感じ取る。

 店と店と境目に、暗闇を携えた狭い通路がある。室外機に阻まれた、人ひとりようやく通れる程度の隘路だ。深月は吸い込まれるように、そちらに歩み寄った。雑草とゴミにまみれたそこを、覗き込んでみる。

 そして、えっと声を上げた。

 自分と同じくらいの歳と思われる、男が倒れている。

 一瞬のうちに、深月の脳内に様々な思考が流れた。死体? いや、ただ酔い潰れて寝ているだけか? もしかして、件のレイシーにやられたのか?

 やけに、空気が冷たい。冷たいなんてものではない。周辺一帯が凍っているみたいだ。こんなところで寝ていたら、この倒れている男は。

 関わりたくないが、放ってはおけない――。


「あのー、大丈夫っすか?」


 深月が男に手を差し出した、その時だった。倒れていた男が急に腕を伸ばし、深月の手首を掴む。深月が手を引っ込める前に、寝ている男は腕だけ動かし、深月を狭い路地へと引きずり込む。


 声を出す隙すらなかった。


 男の方へと体が傾いた途端、周囲が真っ暗になった。足元が見えない。手を引くはずの倒れた男すらも、引きずり込まれる自分の腕さえも、暗闇に呑まれている。


 一瞬で酔いが覚めた。深月の脳裏に、十年前のトラウマがフラッシュバックする。

 逃げても逃げても逃げ切れない、深い闇。耳を塞いでも騒がしい嫌な声。


 なにも見えないのに、闇の中に落ちる感覚だけはある。落ちながら、体温が奪われていく。全身が冷たくなっていく。


 だがそれは、ほんの一秒にも満たなかった。


 襟首がくんっと、後ろから引っ張られる。ハッと気がつくと、いつの間にか周囲が、元の飲み屋街に戻っていた。横を見ると、自身の襟首を掴むチェシャ猫が、通路の闇を見据えていた。


「よく見つけてくれた、深月さん」


「えっ……お前」


 困惑する深月を引き付け、チェシャ猫は左手を自身のコートの中に突っ込んだ。そしてホルスターから拳銃を抜き、深月に腕を伸ばす寝たままの男に、その銃口を向ける。


「事後申請になるが、処理、頼むぞ」


 役所に申請書を出せなかった場合は、処理が面倒になる。真横に立つ役所の職員にそれだけ言って、チェシャ猫は引き金を引いた。

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