Act.1
気配なき黒猫
和紙でできた白い椿に、赤いインクが滲む。仄かな抹茶の香りが漂う、静かな喫茶店。
和装の店主が、差し出した花札を模した茶托に、温かい和紅茶を置く。
「一週間、この人を張り込んだ甲斐があったね。『確定』だ」
「そうだな」
和紅茶を差し出された青年は、鋭い目つきで手元に置かれた携帯の画面を見ていた。携帯には、ぼんやり歩く人物の写真が映し出されている。
「間違いない。こいつ、人間じゃねえ」
この店の店主、時宮白、愛称『シロ』は、その端正な顔でテーブルに置かれた携帯を覗き込んだ。写真の人物は、四十代ほどの男。ダウンコートにジーンズパンツ姿の、どこにでもいそうな男だ。
「にしても、君、よくこれに気づいたね。見た目、なんの変哲もない人なのに」
「新しいバイト先に向かう途中、同じ時間に同じ場所で必ず会う。しかも服装が変わらなかった」
携帯の持ち主の青年は、映し出された男を睨む。シロはますます感心した。
「それで、バイトがない日に同じ場所で待機して、追いかけてみたと……」
和紅茶が湯気を立てる。シロは画面の男の行動を振り返った。
「毎朝八時頃、下北沢にいて、徒歩で神奈川方面に向かう。それから夕方になると狛江を経由して深夜に調布を徘徊して、また朝になると下北沢に戻ってくる」
青年の目が、携帯からシロに動く。
「このコースを毎日ぐるぐる回ってる。歩くペースは一定。一秒たりとも立ち止まらない。食事もトイレ休憩もなし」
「人間じゃないねえ」
シロは改めて認めてから、改めて青年の強面に目を向けた。
「人間には不可能な移動をする相手を追跡するの、大変だよね。僕ら人間には不可能なんだもん」
「幸いこいつの場合は、きれいに同じ時刻に同じ場所に出る。見失っても、別日に見失った時間、場所から再スタートできる。ランダムに移動するタイプが殆どの中、こういうのは助かるな」
「チェシャくん、この手のいちばんスタンダードな追跡調査がいちばん得意だよね」
「まあ、スタンダードだから慣れてるというか……」
『チェシャくん』と呼ばれた彼は、複雑そうに言った。
「全然気づかれない」
「普通は時間的にも距離的にも、間隔開けないと、相手に気づかれちゃう。その点君は、ギリギリまで接近するし長く追跡しててもバレないしで、すごいよ」
シロはにこっと、そしていたずらっぽく目を細める。
「流石"チェシャ猫"。まるで姿を消してるみたいだ」
「そう言うとなんか特殊能力みたいだけど、単に存在感がないだけだからな」
チェシャ猫と呼ばれた男は、自嘲的に言った。シロが困った顔で腕を組む。
「その気配のなさは、この仕事にすごーく向いてるね。けど、店に入ってくるときくらいは存在感出してよ。気がつくといるからびっくりするんだよ」
彼の目線が、店の扉に向く。扉の上には、大きめの鈴。
「開けたらあの鈴が鳴るはずなのに、チェシャくんはなぜか無音で入ってくるよね」
と、話していたところへ、まさにその扉が大きく開かれた。鈴がチリンと鳴る。入ってきたのは、胸に赤いリボン、チェックのスカートの制服姿の女子高校生である。
「お邪魔しまーす! あ! チェシャくんいるー!」
栗色のロングヘアを靡かせ、明るく元気な弾ける声と共に現れた彼女に、チェシャ猫は顔を顰めた。彼が椅子を立つ隙きすら与えず、少女はチェシャ猫の椅子へと突進した。
「久しぶり! 一週間ぶりくらいじゃない? 会えなくて寂しかったんだよー!」
躊躇なく胸に飛び込んでくる彼女に、チェシャ猫は辟易した顔でシロに助けを求めた。しかしシロは、苦笑いするだけで、ふたりを残して店のカウンターへと向かっていく。
「愛莉ちゃん、いらっしゃい。今日も元気だね」
「それが取り柄だからね! ねえねえチェシャくん、一週間もどこ行ってたの?」
膝に座って甘える少女――姫野愛莉に、チェシャ猫は答えもせずにため息をつく。彼は愛莉の、この喧しさにうんざりしていた。返事をしないチェシャ猫に代わって、シロが答える。
「チェシャくんはね、追跡調査中だったんだよ。毎日休憩もせず同じコースをずーっと回ってる人を、朝も夜も追いかけてたの」
「え! なにそれ。変な人のストーカーしてたの? 超暇じゃん!」
愛莉がチェシャ猫を向き直ると、チェシャ猫はカッと牙を剥いた。
「ストーカーでも暇でもねえ。それが仕事だ」
愛莉の肩を押しのけて、彼は膝から愛莉を降ろす。
「レイシーの疑惑のある奴を見つけて、地道に調査して、決定づける。それも『狩人』の仕事なんだよ」
『和心茶房ありす』。
この店は一見ただの、アリスモチーフの可愛らしい喫茶店……なのだが、しばしば、『狩人』たちの会議室となる。
カウンターに腕を置いて、シロが言う。
「同じ時間に同じ場所にいる、くらいなら、そういう生活習慣の人なのかもしれないんだけど、服装や歩くペースもずっと変わらないとなると、ちょっと妙だなって思うでしょ?」
「うん、あまりに機械的すぎて、変な感じするかも」
愛莉が頷く。シロはにこりと微笑んだ。
「殆どの人は、すれ違う他人なんか気にしないから、気づかないんだけどね。こういう違和感を見つけて、追いかけて、『人間じゃない』確証を掴む。それが狩人のお仕事なんだ」
「チェシャくんはその、『人間じゃない』……『レイシー』だって確認するために、その人を追いかけてて、お店に来なかったんだね」
『レイシー』、彼らがそう呼ぶのは、この世の人ならざる者たちである。
人間の生活の営みに紛れ、人のように存在している、奇怪な存在。今回チェシャ猫とシロが調べていたそれも、名もなきレイシーの一種だ。
チェシャ猫が愛莉を横目に言う。
「本体の異様な行動以外にも、判断材料はある。レイシーの多くが、周囲の環境に微妙な影響を及ぼす」
それは彼自身、この仕事をしながら身に感じていることだ。
「代表的なのが、そいつの周辺だけ異様に寒いとか、やけに空気がベタベタするとか、虫が多いとか、動物が激しく威嚇するとか」
「へえ……そんなの、すれ違っただけなら見過ごしちゃうよ」
愛莉が言うと、シロが頷いた。
「そう。狩人であっても気づかないのが殆ど。繰り返し同じ人に会うことで、確信に近づけていくんだ」
名前も戸籍も持たない、人間に擬態して群衆に混じる、怪異。彼らはすれ違う人々から、生気や幸福感、大切な記憶、なにかしらをじわじわ奪う。
「ただ、すごく怪しくても、ただの変わった人だっただけでレイシーじゃなかった! なんていったら大問題になっちゃうからね。かなり慎重に調査するんだよ」
シロが補足する。愛莉はふたりの顔を交互に見て、ふうんと鼻を鳴らした。
「それで、今回はレイシーで間違いないんだね」
「うん。次は役所に駆除の許可申請書を出して、実戦だね」
シロがチェシャ猫に目線を投げる。
「頼んだよ。狩人、チェシャ猫くん」
『狩人』――それは、レイシーを発見し、排除する者たちの名である。
チェシャ猫は、シロに拾われた雇われ狩人。シロは狩人の家系に生まれながら、その仕事を引き継がず、喫茶店を営むマスター。愛莉は、彼らに懐いている単なる客、兼、店のバイトだ。
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