Bonus Stage
「鏡割れちゃったから、新しいの欲しいなあ」
客が途切れた、『和心茶房ありす』。ウェイトレス姿に着替えた愛莉が、ぽつりと溢した。
「買ってもらうまで持ってなかったけど、いざ持ってみると結構便利だったのに。チェシャくんが割っちゃうから」
「あんたがジャバウォックに渡そうとさえしなければ、割らなかったんだけどな」
チェシャ猫は役所から届いた書類を読みつつ、和紅茶を飲んでいる。愛莉は彼の前の席に座った。
「羽鳥さんに申し訳ないなあ」
「羽鳥は物が壊れるのが好きな奴だぞ」
「そうだった。報告したら喜んでくれるかも」
そんな会話を、シロは抹茶を立てながらカウンターから聞いていた。少し身を乗り出して、彼らのやりとりに参加する。
「愛莉ちゃんが大事に使ってた物を壊したのは事実なんだし、責任取ってユキが新しいの買ってあげたら?」
「ユキ?」
愛莉がシロを振り向く前で、チェシャ猫が気だるそうに書類を睨む。
「仕方ねえな。小遣いやるから、勝手に買ってこい」
「えー、デートじゃないの? 一緒に買いに行こうよ」
愛莉はまたチェシャ猫に顔を向けてから、数秒固まって、シロの口から出た名前を繰り返した。
「ユキ?」
「え? ユキ……あっ、もしかして愛莉ちゃん、チェシャくんの本名、まだ知らなかった?」
シロが抹茶から茶筅を浮かせて言う。愛莉は呆然とシロを眺めたのち、再びチェシャ猫を見た。彼は特に愛莉と目を合わせるでもなく、書類ばかり気にしている。
愛莉は一気に高揚し、頬を赤くした。
「知らないよー!? だっていつもみんな、チェシャくんとかチェシャ猫って呼んでるんだもん!」
「ははは、ごめんね。隠してたわけじゃないんだよ。僕も他のみんなも、普段からそれなりの頻度で本名で呼んでるし。愛莉ちゃんの前でも、自然と言ってる気でいたよ」
「じゃ、あたしは偶然、毎回居合わせてなかったの? すごいな!?」
愛莉は赤い頬を手で押さえ、チェシャ猫の無表情を覗き込んだ。
「えっと、ユキくん? シロちゃんとユキくんなの? ホワイトアンドスノウ?」
チェシャ猫は書類を読んでいて、愛莉を無視する。代わりに、シロが答えた。
「ホワイトアンドスケルトンかな。『透』という字を書いて『ユキ』だから」
空中に指で字を書いて、シロは目を細める。
「ね。チェシャ猫みたいでしょ?」
「なんだっていいだろ。それよかシロさん、この依頼書のレイシー、前にも似たのがいなかったか? かなり厄介だった記憶がある」
愛莉とシロの会話をぶち切って、チェシャ猫が書類を掲げる。だが愛莉は強引に話の軌道を修正した。
「なんだっていいというか、なにであっても最高なんだけどさ。チェ……透くん?」
「うるせえから黙れ。で、シロさん、このレイシー急ぎの案件じゃねえの」
「そうだねえ、早めに駆除した方がいいかも。出現する時間帯が決まってるようだし、次の機会に調査して、できればその次には駆除したいよね」
シロももう、仕事の話に切り替えている。
愛莉は書類越しにチェシャ猫を見た。彼と知り合ってワンシーズン経つが、ようやく本当の名前を知った。覚えたての名前が、じわじわと胸に馴染んでくる。
「ゆ……」
愛莉はなにか言いかけて、口籠った。火照った頬を手で押さえて、下を向く。
「……チェシャくん」
「あんた、そのしおらしくなるやつ、気味悪いからやめてくんねえか」
ようやく、チェシャ猫が平板な声で返事をした。
「前にも言ったけど、調子狂う」
「えー!? さっき『うるせえから黙れ』って言っておきながら!?」
「うるせえ黙れ」
愛莉が普段どおりに叫び、チェシャ猫は変わらず冷ややかにあしらい、和紅茶を飲む。それを微笑ましく眺めるシロの手元からは、作りたての抹茶のほろ苦い香りが漂っていた。
続・笑わないチェシャ猫の霊障討伐録―ジャバウォックの詩― 植原翠/授賞&重版 @sui-uehara
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