役所の通達

 カウンターの中で茶の支度をしているシロを窺い見て、愛莉はチェシャ猫に向かい合って椅子に腰を下ろした。


「ねえねえねえ、そのレイシー、いつ駆除しに行くの? あたしも行っていい?」


「教えねえし来ていいわけねえだろ。あんたは関係ない」


 首を突っ込まれても厄介だ。チェシャ猫は愛莉に見られないよう、ダウンコートの男が映っていた携帯をそっと引っ込めた。

 冷たくあしらわれても、愛莉はへこたれない。


「分かったー! じゃあ次の機会は呼んでね。あたしがお役に立てるときは、いつでもどこでも。チェシャくんのためならなんでもする!」


「なんでだよ。一生呼ばねえ」


 ふたりのやりとりを聞いて、カウンター越しのシロが可笑しそうに笑う。


「あはは、愛莉ちゃんはいい子で待っててね。特にこの頃は物騒だ。あんまりレイシーに関わらない方がいい」


 湯のみを用意しながら、彼は軽やかに話した。


「なにせ今朝、役所から大物レイシー注意喚起の通達があった」


「あ? なんか出たのか」


 チェシャ猫がシロに顔を向ける。シロは手元で抹茶を点てながら、返した。


「そうなんだよ。よりによって、三月から区長が代わる、役所が大変な時期に……」


「ああ、そういや今の区長、二月いっぱいだったか」


 チェシャ猫が思い出したように言う。現在の区長の任期満了は、今月末だ。

 役所との関係が強い彼らだが、直接関わるのは「地域安全課」だけである。区長の交代は、さほど影響はない。とはいえその「地域安全課」は、トップが変わって多かれ少なかれバタついているのだ。

 シロはその役所から来た通達を、チェシャ猫と愛莉に告げた。


「ジャバウォックが再来してる。チェシャくんに話したことあったっけ?」


「ジャバウォック……」


 チェシャ猫が繰り返す。彼の前で、愛莉がきょとんとした顔になった。ふたりの様子を一瞥し、シロは話しだした。


「一八七一年、世界じゅうの狩人を震撼させたレイシーだよ。通常は鏡の中にいて、その鏡に映った人の姿をコピーして、勝手に行動する。そしてそのうち別の鏡に入って、また違う人の姿をコピーして……という感じで、他人の姿で好き勝手する迷惑な奴だ」


 愛莉が興味津々に尋ねる。


「ドッペルゲンガーみたい! 本物の人とコピーであるジャバウォック、おんなじ顔をした人が同時にふたり存在しちゃうの?」


「そうだね。コピーされた人からすれば、記憶にないことを勝手にやられるんだよ。自分の預かり知らないところで、人間関係を壊されたり、最悪は人を殺してしまったり……そうして人間の負の感情を煽って、餌にする。と、考えられている」


 シロの回答は、どこか曖昧だった。


「というのも、当時の解決時、ちゃんと倒せたわけじゃなくって、鏡の中に逃げられて追えなくなってしまったそうなんだ。だからはっきりした情報が記録されてない。歴史の中では、ジャバウォック被害者は『自分のしたことを覚えていない』という脳の病気として処理されてる」


 鏡の中から現れた偽物に成り代わられても、傍から見れば、まさか偽物にすり替わっているとは思われない。医療も未発達の当時でなくとも、脳の病気とされるのが自然な流れだ。まして、ジャバウォックが殺人など犯していれば、罪を逃れるために忘れたふりをしているようにすら見える。

 チェシャ猫が頬杖をつく。


「けど、ふたり同じ人間がいれば、どう考えてもおかしいんだからすぐ駆除できそうじゃねえか」


「それが、ジャバウォックは常に外にいるわけじゃなくて、殆どの時間、鏡の中に逃げてるみたい。たまに出てきて悪さする、という感じ」


 シロは困り顔で肩を竦めた。


「しかも、本人がいる場所には現れない。同時にふたりいれば明らかだけど、片方ずつしか姿を見せないんだよ」


「ふうん。ドッペルゲンガーは会ったら死ぬと言われてるけど、ジャバウォックはそもそも会えないわけだ」


 チェシャ猫は和紅茶をひと口、口に含んだ。

 ジャバウォックは逃げ隠れる上に、元々存在する人間に器用にすり替わる。過去の狩人たちが追い詰めきれなかったのも頷ける。


「そんなら手こずるかもな」


「うん。狩人たちが、情報共有のためにラベルとして名前をつけたほど」


「ジャバウォック」という名前は、この厄介なレイシーを駆除しきれず未来へ託してしまった先人たちの、やりきれない思いの証だ。

 チェシャ猫がシロの話を振り返る。


「鏡の中にいるときは、駆除できないわけか。決着がつかなかったのも、逃げ込んだまま出てこなくなったということか?」


「そうみたい。とあるイギリスの狩人による、『逃げ切られた』という記録で終わってる。ジャバウォックが知人に化けたとき、本物と偽物の違いを明確に判断できたようでね。本物の安全を確保した上で、偽物であるジャバウォックを追ったものの、鏡の中に籠城されてしまったと」


 シロは当時の狩人たちの苦労を憂いで、虚空を仰いだ。


「出てこなくなったから、一応終息はした形だけど……なにも終わってはいないんだよ。駆除し損ねたレイシーが、今もどこかで息を潜めてる。危険だけが未来に残されてしまった」


「で、それが今になって、また動き出したんだな」


 チェシャ猫が和紅茶に息を吹きかける。


「たまたま性質が似てるだけの別物の可能性は?」


「ゼロじゃないけど、当時のジャバウォックでほぼ間違いない。ジャバウォックが閉じこもっていた鏡が、保管場所から紛失してるんだって」


 シロは抹茶に、温めたミルクを注いだ。


「こういう、実在する生身の人間にすり替わるレイシー、いちばん厄介だよね。下手したら本物と偽物を間違えて、本物の方を殺してしまうかもしれない」


 偽物に成り代わられたり、憑依されていたりすれば、人間は人間らしくない行動をする。人間らしくなければ、レイシーに見える。しかし器にされているだけで人間は人間であり、攻撃されたら死んでしまう。

 シロがそう話すのを見て、チェシャ猫は思い出したように、ああと呟いた。


「それはよく知ってる。シロさんにレイシーが取り憑いたとき、ちゃんとあんたから叩き出しただろ」


「はいはーい! 叩き出したの、あたしでーす!」


 愛莉が元気よく手を上げる。シロは決まり悪そうに苦笑した。


「その節はどうも。この件の話になると、君たちには頭が上がらないよ」


 シロはミルクを入れた抹茶に生クリームをホイップし、チョコレートシロップを振りかけた。それを盆に載せ、チェシャ猫と愛莉のテーブルへと運ぶ。


「はい、愛莉ちゃん。抹茶ラテ、サービスするよ」


「わーい! ちょうど今日はこれを飲みたいと思ってたの」


 シロの特製抹茶ラテを前に、愛莉の目が輝く。ふいに、チェシャ猫は彼女に差し出された湯のみに目を止めた。

 白い釉薬の茶器に、細やかに描かれたティアラを被った赤いハート。この店に通いはじめて長いチェシャ猫でも、初めて見る器だ。

 自分の手元にある和紅茶にも、目を向ける。愛莉と同じく白ベースの茶器で、黒猫らしきシルエットが描かれている。これも、今日初めて見たものだ。


「シロさん、湯のみ、新調したのか?」


 チェシャ猫が尋ねると、カウンターに戻りかけていたシロがぱっと振り向いた。


「やっと気づいた! そうだよ、それは今日からリリース。チェシャくんと愛莉ちゃんのための専用茶器!」


 それを聞くなり、愛莉が大きく目を見開く。


「そうなの!? やったー!」


「えへへ、常連さん向けに、特別にね。小さな違和を見逃さない狩人さんは、いつ気づくかなってわくわくしてたの」


 無邪気に笑うシロを一瞥し、チェシャ猫は再び、和紅茶の入った湯のみに視線を戻した。こっくりしたまろやかな白に、黒い猫。多分、自分のふたつ名、というか、あだ名が『チェシャ猫』だから、猫。


「シロさんて、特別とか粋とか、そういうの好きだよな……」


「あ、さては喜んでるね。全然笑ってないけど、僕には分かるよ」


 シロはにんまりして言うと、カウンターへ戻っていった。チェシャ猫が分かりやすくない代わりに、愛莉ははっきり大喜びする。


「嬉しいなー、専用カップ嬉しいなー! しかもチェシャくんとお揃いだ。えへへ」


「あんた、バイトなのになんで客みたいに俺の正面で茶飲んでるんだよ」


 チェシャ猫が鬱陶しがると、愛莉は一層嬉しそうに頬を染めた。


「シフトまで、まだちょっと時間があるから」


「うぜえ」


「そうやってあたしに冷たいチェシャくんが大好き」


 邪険にされるのも喜ぶ愛莉は、ある種、無敵である。


「あ、そうそうシロちゃん」


 愛莉は今度は、シロを振り向いた。


「クラスの友達がまた、近いうちにこのお店に来るって。今度は彼氏連れてきてくれるよ」


「わあ、本当? 嬉しいな」


 シロは素直に、目を輝かせた。


「最近、お客さんがぱらぱら増えてきたんだ。愛莉ちゃんが口コミしてくれるおかげだよ」


「こんなにかわいくておいしいお店なのに、流行らない方が不思議だよ。あたしの人脈で人気店にしちゃうからね」


 愛莉が得意げに言うと、シロはまたしても嬉しそうに目を細めた。


「叔父さんの店を改装して喫茶店にしたまではいいけど、全然流行らないから寂しかったんだ。お客さん呼んでくれてありがと」


 ふたりの会話を聞き、チェシャ猫は和紅茶に口をつけた。たしかに、閑古鳥が鳴いていたこの店に、ここ最近、客がちらほら来ているのを彼も見ている。愛莉の明るさはチェシャ猫には鬱陶しいことこの上ないが、その明るさに惹かれて集まる友人の多さに、シロが助けられている。そしてシロ自身も、愛莉に引っ張られるように、彼女に元気を貰っている。

 愛莉が抹茶ラテに唇をつける。


「ジャバウォック……もしクラスの友達がジャバウォックとすり替わってたら、あたし、気づくかなあ」


 シロは微笑みながらも、真剣に返した。


「ジャバウォックは、そのまんま鏡から出てきたみたいに、本人とは左右が反転してるんだって。きれいに左右対称の人なんかそうそういないから、見慣れた人がそうなってたら、違和感はあるかも」


「合点承知! 学校の友達も、先生も、よーく見ておくね」


 愛莉が大きな身振りで敬礼する。


「もし見つけたら、追い詰めて、鏡に追い込んで、その鏡を割ったらどうなるのかな?」


 なにやらやる気満々の愛莉に、チェシャ猫が和紅茶の湯のみを口の前で止める。


「共有するまではいいが、あんたは首を突っ込みすぎんなよ。この店のバイトであって、狩人じゃないんだからな」


「もう、チェシャくんたら心配性なんだから。あたし誰よりレイシーに強い自信あるよ」


 底抜けに明るい愛莉は、漠然たる悪しきものであるレイシーたちから嫌厭される。レイシーの方から、愛莉に寄り付かないのだ。それはチェシャ猫も分かっているが、得体のしれない化け物に関われば危険なことに変わりはない。


「レイシーは例外だらけなんだから、あんたの明るさが効かない奴もいるかもしんねえだろ。余計な動きはするな。俺とシロさんに報告だけしろ」


「はあ、チェシャくんの命令口調かっこいい。きゅんきゅんしちゃう」


 チェシャ猫の警告を聞いているのかいないのか、愛莉はうっとりと目を細めた。手応えを感じないチェシャ猫は呆れ顔で愛莉を見て、ため息を和紅茶に吹きかける。


「こいつ、どうしたら大人しくなるんだ……。シロさん、なんとかしてくれ」


「ははは。愛莉ちゃーん、お客さんを困らせちゃだめだよ」


 シロは冗談っぽく助け舟を出し、壁にかかった時計を指さした。


「シフトの時間だよ。愛莉ちゃんは今は従業員です」


「あっ! ほんとだ、チェシャくんにメロメロになってると時間の経過が早い!」


 愛莉は抹茶ラテを飲み干すと、鞄を抱え、カウンターの奥へと駆け込んだ。忙しない彼女を見送り、チェシャ猫はげんなりと俯き、シロはそれを面白そうに見ていた。


「愛莉ちゃんがいると、お店が明るくなるね」


「活きがよすぎる。構われる方は溜まったもんじゃない」


「嫌われてるよりいいじゃないか」


 シロはどこか他人事である。チェシャ猫が不機嫌顔で和紅茶を啜っていると、シロは虚空を見上げた。


「あのくらいの年齢の子には、君みたいにちょっと尖った歳上のお兄さんがかっこよく見えるんだろうね。一過性のもので、すぐ飽きてくれると思ったんだけど、意外と長いな」


「本当だよ。いつまであのガキに絡まれないといけないんだ」


 愛莉はかつて、レイシーに襲われたところをチェシャ猫に助けられた。正確にはチェシャ猫は愛莉を助けようとしたのではなく、彼のターゲットの側にたまたま愛莉がいただけなのだが、愛莉には関係ない。それ以来、愛莉はチェシャ猫にぞっこんなのだ。


 愛莉が引っ込んだ店内は、やけに静かになる。チェシャ猫はようやく落ち着いて茶を飲み、シロはカウンターの向こうでノートパソコンを開く。


「さて、役所に許可を取る申請書作らないと。人間じゃない根拠を箇条書きにして、画像を添付して……。チェシャくん、今日、印鑑持ってる? 印刷したら捺印頂戴」


 狩人業務に入るシロを横目に、チェシャ猫が頬杖をつく。


「毎度ながら、この事務仕事がいちばん面倒くせえな」


「仕方ないよ、お役所仕事なんだから。それにこの頃は、エセサキュバスとか寄生型とか、事後報告が相次いだから、深月くんに注意されちゃった。これまで以上に真面目にやらないとね」


 狩人の仕事は、役所の委託業務である。役所への申請書、或いは役所からの依頼書に始まり、報告書に終わる。シロはパソコンの画面に顔を向けたまま、穏やかな声でチェシャ猫を宥めた。


「万が一にも、間違えて人間殺しちゃったらまずいからね。役所の判子があれば保険が利くんだから、そこはリスク管理していこう」


「分かってる。やらないとは言ってない。面倒くせえだけだ」


 と、そこへ、店の奥から愛莉が戻ってきた。


「着替え完了! いらっしゃいませ、チェシャくん!」


 和服風のワンピースにエプロンをかけて、店のウェイトレス姿になっている。ポニーテールにした長い髪は、愛莉が歩くたびに左右に揺れた。

 とはいえ、愛莉がバイトモードに入ったところで、店の中に客はチェシャ猫しかいない。従業員に切り替わっても、愛莉はそれまでと変わらずチェシャ猫のいるテーブルへと駆けつけるのだった。

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