出動、狩人
後日、深夜一時。東京郊外の寂れた路地裏で、チェシャ猫は待機していた。
彼はファー付きフードのモッズコートに顔をうずめ、暗闇に白い息を吐く。左手には、サプレッサー付きの拳銃。銀の実弾が込められた、本物の銃である。
腕時計を確認する。あと三分、と、口の中で呟く。
一週間かけて実態を調査した、ダウンコートの男。否、その姿をしたレイシー。それがここを通りかかるまで、残り三分。
シロが役所に申請書を出した翌日、役所からGOサインが出た。あとはチェシャ猫自身のタイミングで、レイシーを駆除する。
調査の中で判明したコースから、最も人目につきにくい時間帯、場所を判断する。彼が選んだのは、人々が寝静まった深夜帯の中で、特に住宅地や繁華街から離れた、この路地裏だった。
ダウンコートの男は、零時五十分頃に商店街を通り抜け、その先の公園を五十五分に突っ切る。次の角を左に曲がり、古びた廃屋の前を通り、コンビニの前を通り、一時頃、この路地へと向かってくる。
あと一分。定刻まで、刻一刻と時計の針が迫る。
拳銃の安全装置を外し、トリガーに指を置く。一週間張り込んで、毎日同じ時間に同じ場所にいた。今夜も、あれはここを通りかかるはずである。
あと三十秒。通り道の方へ銃口を向け、胸の内で数字を数える。
あと十秒、五秒、四、三、二、一。
時計の針が、定刻を指した。しかし、なにも通りかからない。チェシャ猫は目を疑った。時計の針が進む。ダウンコートの男がここを通るはずの時間を、一分過ぎた。
これまでの一週間、レイシーの行動は常に一定で、時間がずれることなどなかった。困惑しつつ、チェシャ猫は路地裏から出た。その背中に、聞き慣れた明るい声が飛んでくる。
「あれっ? チェシャくーん!」
夜の闇にはあまりに不似合いな、太陽のような晴れやかな声。チェシャ猫は、銃を握りしめて息を呑んだ。
彼の方へ手を振って走ってくる、ジャージ姿の愛莉がいる。街灯の細い光に照らされた彼女の手には、コンビニの袋が提がっていた。
「チェシャくんだー! 暗闇の中で真っ黒な格好してるから、見落とすところだった! なになに、なにしてるの? もしかしてレイシー駆除しに来た?」
「うるせえな。何時だと思ってる」
チェシャ猫は愛莉の口を手で塞ぎ、周囲を見渡した。住宅地を避けたとはいえ、この時間に騒げば近所迷惑である。
押し黙った愛莉を睨み、チェシャ猫は彼女の口から手を離した。
「ガキがこんな時間になにしてやがる。この辺、あんたの家から遠いだろ」
「もうすぐテストだから、友達の家でお泊り勉強会してたんだよ。で、あたし、ゲームで負けたからお菓子買いにコンビニに……あ、チェシャくんも来る? 一緒にゲームしようよ」
「勉強会じゃねえのかよ。いや、それより、こんな時間にガキがひとりで外を出歩くな」
コンビニの袋の中には、お菓子や飲み物が詰まっている。それを掲げる愛莉と話しながら、チェシャ猫は諸々を察した。
愛莉は今日はたまたま、この辺りに住む友人の家にいた。そしてたまたまこの時間に、コンビニへ出かけた。
レイシーの忌避剤になる、姫野愛莉が。
おかげで一定の動きを繰り返すレイシーに、今日に限ってイレギュラーが発生した。コンビニの前を通るはずだったレイシーは、コンビニに現れた愛莉を避け、別の方向へ向かってしまったのだ。
チェシャ猫は大きく項垂れ、拳銃の安全装置を戻した。
「あんたのせいで計画が狂った……」
「え? なに、あたしなんかした?」
「ったく、便利なときもあるけど、このパターンもあんのか……」
チェシャ猫は把握しても、愛莉は自分のせいでなにが起きたかなど分からず、きょとんとしている。わざとではないし、こればかりは仕方がない。
レイシーの動きは多少変わったが、歩く速度は変わらないはずである。それならば、まだ近くにいる。
コートのポケットから携帯を取り出し、チェシャ猫はその画面を愛莉に突き出した。
「あんた、コンビニの近くでこいつを見なかったか?」
画面に映っているのは、ダウンコートの男である。愛莉はぽかんとした顔で画面をまじまじと見て、思い出したように手を叩いた。
「見た! なんか変な動きだったから、気になった人だ」
「変な動き?」
「公園の方から来て、コンビニの近くまで来たと思ったら、くるっと背を向けて元の道を戻ったの。忘れ物でもしちゃったのかな。でも走ったりはしてなかった」
やはりレイシーは、愛莉に弾かれたように、反射的に道を戻ったのである。となると、コースが反対回りになったか、とチェシャ猫は推測する。しかし愛莉の話す続きは、彼の予想を裏切った。
「でねー、公園の近くに、ぼろぼろのおうちがあるじゃない? あそこの方に曲っていったよ。あの家、人住んでないと思ってたからびっくりした」
「あの廃屋か……」
そこは、前を通り過ぎるだけで、レイシーが入っていく通路ではなかった。コースが完全に変わっている。
チェシャ猫は廃屋の周辺の地形を思い浮かべた。建物の脇に狭い路地があり、建物を挟んだ反対側の道路へ抜けられる。その向こうの道は、彼もまだ見ていない。廃屋の先、レイシーがどこへ向かうのか、全く予想できない。
しかしチェシャ猫は諦めなかった。
「コースの調査を一からやり直しなんぞしてられるか。一週間かけたんだぞ、こっちは」
話しながら事態を察したらしく、愛莉も頷いた。
「いいぞ、その調子! ちょっとくらいコースが違ったって、チェシャくんなら追い詰められるよ」
「あんたのせいだからな」
特に悪びれるでもない愛莉にひとこと突き刺してから、チェシャ猫は携帯をポケットに戻した。
「繰り返しになるが、こんな時間に出歩くな。友達の家だかなんだか知らねえが、送ってやるから早く戻れ」
「えへへ、ありがと。チェシャくんて、なんだかんだあたしに優しいよね」
「あんたになんかあった場合、責任取るのが嫌だからだよ」
チェシャ猫は優しいのではなく、単に常識人なだけである。
レイシーを追うのは一旦後回しにして、チェシャ猫は愛莉が友人宅に着くまで付き添うことにした。思いがけず大好きなチェシャ猫と会えた愛莉は、叱られてもご機嫌である。
「今日、絵里香の家に泊まってるんだ。絵里香ってすんごくゲーム強くてさ。先に十回負けた方が追加のお菓子買ってくるルールだったんだけど、あたし、一回も勝てなかった」
コンビニの袋を揺さぶって、愛莉は飛び跳ねるような足取りで歩いていた。
「あ、チェシャくん、絵里香のこと覚えてる? ほら、あたしたちが出会った運命の日、あたしを心霊スポットに案内した子! 蝶島絵里香!」
「どうでもいい。深夜なんだから静かにしろ」
暗闇の中、街灯の僅かな光だけが薄ぼんやりと道を照らしている。今夜は月が細い。おかげで、月明かりもない。
愛莉を送る道程で、コンビニの前を通り過ぎ、傍の廃屋が見えてきた。愛莉曰く、先程のレイシーはこの建物の方向へと曲がったという。チェシャ猫はちらりと廃屋に目をやった。
家主が亡くなったかなにかで、放置されて何十年も経ったであろう家屋である。外壁に蔦の張った、二階建ての住居だ。一体どれだけ長く人が住んでいないのか、すっかり蜘蛛の巣だらけで、周囲にゴミが散っており、庭木は伸び切っている。
並んだ窓には汚れたガラスが嵌っており、その奥に、夜の闇よりさらに重い暗闇を内包している。玄関口になる扉は半開きになっており、まるで闇を呑み込むように、口を開いているかのようだった。
その不気味な廃屋を横目に、チェシャ猫が立ち止まる。
「……あ」
愛莉も、彼の横顔を見上げて歩みを止めた。
「ん? どうしたのチェシャくん」
「静かに」
建物の二階、燻った窓の向こうに、一瞬、なにか動くものが見えた。その小さな影の動きを、彼は見逃さなかった。
直感した。廃屋の方へ曲がったレイシーは、建物の脇を抜けたのではなく、建物の中に入ったのだ。
しかし窓に姿が見えたのは一瞬だ。ここから窓を狙って狙撃しても当たらない。
第一、あの影がレイシーとも限らない。姿を確認するまでは撃てない。
愛莉は声を潜めつつ、それでもわくわくが滲み出した声で問うた。
「なにかいた? レイシー?」
「まだ分からない。こういう場所は、ホームレスとか犯罪者とか、生きた人間が根城にしてる場合もある」
そうだった場合は、レイシー以上に厄介である。
愛莉は落ち着きなくそわそわしていた。
「でも多分レイシーだよ! 見失ったらまた捜すの大変だよね。突入しちゃおうよ」
建物のいちばん右端の窓がまたひとつ、ゆらりと影を映した。今度は一階だ。
そしてその窓の位置は、ちょうど街灯の灯りに照らされている。おかげで窓の中の「それ」が、チェシャ猫の目にはっきりと映った。
のっぺりした平たい顔に、離れた小さな目。
ダウンコートに、丸顔の中年。それは間違いなく、チェシャ猫の携帯に画像を残していた男そのものだった。ゆっくりと歩くそれは、窓に沿って移動しつつ、顔だけこちらを向けていた。
目が合った。
窓の奥に、ダウンコートの男が消える。まるでチェシャ猫と愛莉から逃げるかのように、ふっと暗闇の中に溶けていった。
チェシャ猫が舌打ちする。
「あいつ、こっちに気づいてた」
彼の声色に、微かに緊張の色が差す。
レイシーに顔を覚えられてはいけない。一度戦闘になったレイシーは、自身を狩ろうとする者を覚える。だから狩人は、その存在を伏せなくてはならない。
あのダウンコートのレイシーがチェシャ猫と愛莉を覚えたのなら、もう見逃せない。攻撃される前に仕留めなくてはならない。
あのレイシーの特徴のひとつに、一定の速さで常に歩き続け、立ち止まらないという点がある。つまり相手は、廃屋の中で休むことはない。歩き回っているうちに、また外へ出てくる。
愛莉がチェシャ猫の袖を掴む。
「レイシーが勝手に出てくるまで、ここで待ってみない? 絵里香には『ちょっと遅くなる』って連絡しとくよ」
また、窓に微かな動きが見えた。今度は愛莉の目にも止まった。
「いた! 今、二階に!」
「ん。二階に戻ってやがる」
チェシャ猫は眉を寄せ、再びなにも見えなくなった窓を睨んだ。
先程まで一階にいたのだから、そのまま玄関から出てくると見込んだのだが、レイシーは再び二階に姿を現していた。一階と二階を行き来しているのか、と、途中まで考え、チェシャ猫はハッと隣の少女を思い出した。
「あんたがここにいるから、出てこられなくなってんのか」
「そっか! レイシーはあたしを避けてるんだ」
愛莉が手を叩く。
廃屋の入り口に愛莉がいれば、レイシーは建物から出られない。袋の鼠だ。これはチェシャ猫には願ってもない好機だった。
「けど裏口とか、他に出入り口があるかもしれないな。このまま二階で追い詰めれば……」
チェシャ猫は再び窓を睨むと、建物に近づき、扉の外された出入口を覗き込んだ。中は真っ暗だが、闇に慣れてきていた目には、古い靴箱やゴミなど、人の生活の形跡が見て取れた。携帯で辺りを照らし、廊下の奥に階段を見つける。
チェシャ猫は、振り返りもせずに愛莉に言った。
「あんた、そこで入り口塞いでろ」
「んっ?」
愛莉の返事も待たず、チェシャ猫は廃屋の中へと足を踏み入れた。携帯を懐中電灯代わりにして、土足で玄関を上がる。床にはやはりゴミが散乱していて、横を見れば壁紙が破れている。
奥に見えた階段を上り、二階へ上がる。蜘蛛の巣だらけの廊下を覗く。チェシャ猫は携帯をしまい、コートの内側から拳銃を取り出した。
二階にはいくつか部屋があり、扉はいずれも開け放たれている。その一室から、その男はゆらりと現れた。
ゆっくり、ゆっくり、ペースを崩さずに、廊下に沿って歩いている。ただ、顔だけは窓の外を見ている。離れた小さな目で、外を眺めながら、壁沿いを行ったり来たりしているのだ。
チェシャ猫は、その男に銃口を向けた。
窓の外を見ていた男は、チェシャ猫の方へ向かってきて、約一メートル程度まで距離を詰めてから、チェシャ猫に気づいた。
音も気配もないチェシャ猫に、今の今まで気がつかなかったのだろう。落ち窪んだ目をくわっと見開き、歩く向きを百八十度切り替えて、チェシャ猫を避けた。柱にぶつかりそうになって、また向きを変え、開いていた扉から部屋に入っていく。
チェシャ猫も、扉の中を覗く。ゴミ屋敷と化した和室を、ダウンコートの男がうろうろしている。
一定の速度で動くその標的を見つめ、チェシャ猫は計算した。距離、歩行速度。僅かな隙間風があるが、これくらいなら弾には影響なし。
彼の指が、引き金を引く。空気を割く音がしたその直後、ダウンコートの男が踏み出した次の一歩と、チェシャ猫の放つ弾丸が、きれいに交差した。男のこめかみに弾がめり込み、機械のように動いていた男が初めて動きを停止した。
埋め込まれた弾丸の周辺から、ぼわっと黒い煙が舞う。生白かった男の顔がみるみる黒ずんでいき、砂のように崩れていく。目印だったダウンコートも、乾いた泥みたいに溶けていく。
やがて、畳の床にこんもりと、黒い灰と弾丸だけが残った。
人ならざるもの、それどころか生物ですらないレイシーは、死骸が残らない。代わりに、存在を形成していた残骸、謎の黒い灰を残す。
チェシャ猫はコートに拳銃をしまい、代わりに試験管を取り出した。灰の前にしゃがみ、ゴム手袋を嵌めて灰を採集し、蓋をする。
レイシーの残骸である灰の採集も、狩人の仕事のひとつである。
灰を拾いつつ、チェシャ猫は、レイシーの気味の悪さを再確認する。この灰は時間が経つと日光で浄化され、自然に消える。ただ、その場に放置するわけにもいかないので、掃除までが狩人の仕事だ。
とはいえ、このゴミ屋敷の中ならば、放っておいても変わらない気がする。
試験管をしまうチェシャ猫の丸まった背中に、元気のいい声が降ってきた。
「ぎゃー! 虫!」
振り向くと、愛莉がチェシャ猫を追って走ってきていた。チェシャ猫が怪訝な顔をする。
「おい。入り口塞いでろと言ったはずだ。なんでここにいる?」
「チェシャくんのかっこいいお仕事姿が見たかったから! てか、やばいやばい! 廃墟の中に佇むチェシャくんかっこよすぎ! あとなんか変な虫いた!」
「一気に喋るな」
愛莉がチェシャ猫に駆け寄る。その際残っていた灰を踏んづけると、灰はじゅわっと溶けて、浄化されて、粉ひと粒残さず跡形もなく消え去った。
しゃがんだままのチェシャ猫は、愛莉を見上げた。
「あんた、こういうとき便利だよな」
底抜けに明るくてレイシーを寄せ付けない愛莉は、その明るさパワーで灰を浄化できるらしい。
灰掃除の手間が省けたチェシャ猫は、立ち上がり、手袋を外した。
「で。あんたの友達の家はどっちだ。さっさと行くぞ」
「ちょっとー! あたし、チェシャくんのお仕事が終わるの待ってたんですけどー!?」
不服そうながらも、愛莉は嬉しそうにチェシャ猫の腕に抱きついた。
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