異世界に昇る 14

 僕は真壁の手を振りほどいた。

「まずいですよ!」

「わかってるがどうしようもねえだろ! 9階まで行かないと異世界に行けないんだから!」

 僕たちの会話を聞いて、女性は「異世界!?」とひるみ上がった。

 僕は彼女に向き合った。

「僕たち今、エレベーターで異世界に行こうとしています。

 手順通りに操作して、女性が乗ってくるところであなたが乗ってきて、今、1階のボタンを押したからもうちょっとで異世界にたどり着くところなんです」

「嘘でしょ?」

 女性はガクガクと体を震わせた。

「待て」

 真壁は僕を彼女から隠すように、僕の前に立った。

「5階で乗ってくるのは、異世界の存在だといわれている」

 真壁に指摘されて気づく。姿形はこちらの世界にいる人間の女性と何ら変わりはない。しかし彼女はこのエレベーターが止まるフロアにつながる、奇妙な空間から乗ってきたのだ。考えてみれば彼女はどこから来たのだろう。今までの言動だって僕たちを止めて元の世界に帰るよう懇願しているようにしか見えなかったが、こういう怪物の一種という可能性を見落としていた。

 万が一にも異世界の住人だとしたら、僕らは異世界の存在を連れ帰ってしまうことになる。

 結果、僕たちは何もせず、ただ彼女を見つめていた。

 彼女は腕を壁に押しつけ、僕たちをにらんだ。

「ねえ、戻って! 異世界なんて、嫌、絶対嫌!」

 このままでは、パニックに陥ったこの女性まで異世界に連れて行くことになる。彼女は無関係だ。なんとか下ろさないと。

「確か、まだやめられるんですよね?」

 たどり着くまでに操作をすれば、まだ引き返せるはずだ。

「やめたら俺たちどこに飛ばされるかわからねえぞ」

 真壁の返答を聞いて、女性はヒステリックに悲鳴を上げて、肩にかけていたカバンを僕たちめがけて振り回した。僕は真壁に押さえつけられるように床に伏せた。

「どうするんですか?」

「まずこの女をどうにかしないとエレベーターまで壊されるぞ」

 それはまずい。エレベーターが壊れたら一生閉じ込められたままかもしれない。

 女が操作盤めがけてカバンをたたきつけようとしたところで、真壁は飛び起きた。彼女の目の前で、バチン! と大きな音を立てて手を叩く。猫だましを仕掛けたようだ。利いたようで、彼女の動きが止まった。

 真壁はそのまま彼女を押さえにかかるが、彼女も必死で抵抗する。

 このまま本当に、10階まで連れて行ってしまっていいんだろうか。

 横をちらりと見る。彼女が異世界の存在ではないと証明するには、ショルダーポーチに眠る懐中電灯で彼女を照らして、真実の姿を視るしかない。それをやるには、壁に貼りついているこの大鏡が邪魔すぎる。うっかり懐中電灯の光を当ててしまったら、3人ともどうなるかわかったものではない。

 僕は、操作盤のボタンを殴りつけた。まだ8階だった。エレベーターの動きが止まった。

「おい!」

 真壁が僕のしたことに気づいて、怒鳴りつけた。隙をついて女性が真壁を突き飛ばす。

 僕はショルダーポーチから懐中電灯を取り出した。

「やっぱり彼女を連れて行くわけにはいきません」

「おい」

 真壁の怒りがたぎる目と、僕の目が合った。

「頼みがあります。絶対彼女をなんとかします。

 そのためにはあの鏡がどうしても邪魔なんです」

 鏡を指すと、彼女はうつろな目でこちらを見ながら、よろよろと立ち上がった。

「額を押さえろ。人間、起き上がれなくなる」

 真壁がささやくと、僕はすぐに彼女の額をめがけて左手を伸ばし、そのまま側面に押さえつけた。彼女は両手で僕の左手を引き剥がそうと必死で爪を立てる。

「真壁さん!」

 叫ぶ前に、一瞬だけリュックサックが持ち上げられて体が浮く。直後に、急に陰ったように中が暗くなった。

 真壁は、僕の折りたたみ傘を差してひざまずいていた。どうやら勝手にリュックサックの脇ポケットから拝借したようだ。

 僕のところからは、壁面の鏡は見えなくなっていた。

 女に一瞬だけ隙ができる。恐怖の色が見えた。

「ごめんなさいっ」

 ショルダーポーチから引っ張り出した懐中電灯を点灯させて、光を当てた。

 急に雨が降ってきた。

 これから塾講のバイトなのに、と焦っていると、男の人の声がした。

「よかったら、使いませんか?」

 その人は人なつっこい笑顔で、折りたたみサイズの傘を差しだしてきた。

「君……」

「あ、今日オレ普通の傘も持ってますから!」

 左手に持った長傘と、白い歯を見せて笑う。

「明日は来る?」

「来ます来ます! フルコマです!」

 彼と話していると、不思議と明るい気持ちになった。梅雨の合間に訪れる、すがすがしい晴れの日のような。

「2限のあと、ここに来てくれる?」

「喜んで!」

 男の子のまぶしい笑顔につられて、少しだけ、光が差しこんだような気がした。

「絶対、返すから」

 彼から折りたたみ傘を受け取って、教育学部棟を飛び出していく。パンプスに泥がはねるのも気にせず、雨の中を走って行った。

 ……響。

「そうよ、そう! 私、ユイも心配だけど、あの人から借りた傘も返さなくちゃ!」

 彼女は自分のカバンに這い寄る。放り投げたカバンを、大事そうに抱え上げた。

 懐中電灯の光を消して、真壁の方をゆっくりと振り向いた。

「僕たちの世界の人です。大丈夫、一緒に帰りましょう」

 真壁に向かっていうと、扉を開けるボタンを押してくれた。ゆっくりとエレベーターの扉が開く。

 扉の向こうでは、ほのかに明るくなった地平線から、ビルの影が見えていた。

「ここは……」

 3人ともエレベーターを降りて見回すと、あまりに見慣れた光景が広がっていた。

「大学の、前……」

「あの」

 戻ってきた感触を確かめている彼女に、声をかけた。

「お名前と、できれば所属を――」

 最初はひるんでいたものの、「佐橋まい、教育学部3年……」と答えだした。

 肩に手が置かれた。

「君が正解だったみたいだな」

 真壁は僕の傘を差しだしてきた。とても丁寧に、きれいに折りたたまれていた。

 僕はそのまま受け取る。

「お礼とかないのかよ」

 すこしすねたように言う真壁に、ありがとうございます、といった。

 真壁は僕に正面を向けた。

「ありがとうございました」

 あまりにまっすぐお礼を言われて、気恥ずかしさで調子が狂いそうだ。

 元来た方を振り向くと、さっきまで乗っていたはずのエレベーターは跡形もなく姿を消していた。

 お互い見失わない程度に歩き回って、小さな異変などはないか目をこらして眺めて回していると、交差点の真ん中に、大きなトランクを持った少女がぽつんとたっていた。

 彼女は振り向いて、僕に向かって手を振った。幼い顔つきの、いつもの笑顔だった。

 やっぱりちゃんと、戻ってこられたようだった。

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