異世界に昇る 6

 せめてもう1人誰か連れて行けないだろうか。

 昨夜は主立った準備と講義の課題を終わらせると、ベッドに倒れ込んでそのまま寝られたからいい。やることが終わると、金曜日の夜まで悪夢にうなされるのかという不安と真壁と2人きりになる憂鬱がダブルパンチで頭から離れなくなってしまった。

 当然、頼める相手は響しかいない。なんてったってエレベーターで異世界に行くのだ。馬鹿にされるか、やめとけと忠告されるか、そんなことのためにエレベーターを使うなと怒られるか。超常現象に立ち会った経験のない人間がOKするなら、絶対に連れて行くべきではない。

 今週はもう響と講義で会うことはない。昼休みになって、メッセージを送った。

”今週末、といっても金曜日の5限終わりからなんだけど、空いてる?”

 返事はすぐに来た。

”どこかでオールする?”

 ほぼ正しい。次の文字を打とうとすると、通知が来た。

”ごめん、土曜から親が来るわ。”

 忘れていたが、世間的にはゴールデンウィークなんだっけ。そうなれば親も様子を見に来たくなるだろう。親子水入らずの貴重な時間と準備の時間を僕の身勝手な用事で潰すわけにはいかない。

”ならごめんね”

”別の日が大丈夫なら行くけど?”

 すぐにメッセージが来た。以前、飲みに行ったり遊びに行ったりしようよ、と言ってくれたことがあった。そういう約束だと思っててくれればいい。

”そうしたら、また今度週明けに”

 返信すると、スマホの画面を落とした。いくらこちらが困っていても、響には響の都合があるのはどうしようもない。というか、本当に来てもらうなら響にもそれ相応の準備をしてきてもらわなければならないのだ。1人暮らしの響は僕以上に自由に使えるお金は限られるはず。僕の不安を抑えるためだけに、異世界に行く手間と金と時間、場合によっては命までかけてもらうなんて、僕はあまりに身勝手だ。

 響は普通の大学生としての友達、今日がダメなら明日にしようかと代わりの約束ができる仲でいてくれるだけでいい。僕は響に憑いたカシマさんを、響はなぜか知らないけど怪奇現象に巻き込まれやすい僕をほんの少しでもお互い理解しあっているだけでも奇跡に近いというのに。

 今日は中里さんの助言もあり、夕飯の残りを適当に詰めてきた弁当を持参した。3限の教室は飲食できるはずだ。移動しようと外に出ると、雨が降っていた。天気予報によると、にわか雨が今週いっぱい続くらしい。続く雨に気分が暗くなりながら、いつも持ち歩いている折りたたみの傘をリュックから取り出した。

 吹っ切ると決めてからは、僕は驚くほど講義に集中できた。響ほどではないが苦手な関数も、人が成長する過程には課題があることもするする頭に入っていく感じがした。

 今日の最後の講義が終わって帰ろうとすると、スマホが震えた。なんと響から着信が来ていた。

”ごめん夕介今総合のC棟の東口にいるんだけど、もし近くにいたら来てもらっていい?”

 うちの大学には、総合棟と呼ばれる一般教養の講義に使われる教室が入った建物がいくつかある。総合棟は北から順にAからC、西にいってD、Eのアルファベットが割り振られている。ちなみに僕や響が数学基礎の講義で使っている建物は正式にはF教室という名前らしいが、味気ないしわかりにくいのでほとんどの人が大講堂と呼んでいる。

 響がいるというC棟は、僕がいるA棟から目と鼻の先にあるので行くことにした。A棟から間にあるB棟を突っ切ってC棟まで伸びる渡り廊下を行くのが近道だが、講義が終わった直後の今はA棟やB棟から出てくる学生の間を縫っていかなくてはならない。折りたたみの傘を差して一旦脇の道路に出てからC棟に向かうと、入り口の軒下で響が手を振っていた。傘をすぼめて近づくと、拝むように手を合わせてごめん、と言われた。

「傘がないので生協まで入れてください」

「アパートまで送るよ」

 本当に申し訳ない、と頭を下げる響を傘に入れて歩き出した。

「傘忘れたの?」

 何気なく聞くと、響は急に立ち止まってモジモジと恥ずかしそうに体を揺すらせた。右腕が後ろに伸びたこの状態を続けられないので、少し後ろに下がった。

「実はな」

「うん」

「傘貸しちゃったんだよな」

 立ち止まって話していてはこちらまで恥ずかしくなってくる。「歩きながらでいい?」と聞くと、響はついてきた。

「今日の2限が終わって教育学部の5棟を出ようとしたら、傘がなくて困ってる人がいてさ」

「うん」

「その人に折りたたみの傘貸しちゃったんだよ」

 僕は思わず立ち止まった。

「誰に?」

「教育学部の人」

「名前は?」

 はにかんだまま、響は押し黙った。

「もしかして通りすがりの名前も知らない人に傘貸したの?」

 響は自分の手で顔を覆った。

「だって本気で困ってたみたいだし、急いでたっぽいし、あまりにかわいそうで」

 僕は思わずにらむような目で響を見た。

「夢見ちゃった?」

「夢見ました」

 恋は盲目。下心が親切心に昇華されたのでよしとしよう。

「今までどうしたの」

「近いところなら走って行って、総合C棟には学科の中で一緒に行く子がいたから入れてもらった。

 5限を一緒に受けてる知り合いがいなくて途方に暮れていたら、ふと夕介のことを思い出したんだ。もしかしたらまだいたりしてって」

「ちょっと誇らしい」

「形容詞間違ってるだろ」

 2人で笑い合った。こんなことが起こるなら、雨が降っても響が傘を持ってなくてもいいかな、と思ってしまう。でも残念ながら、もう響の住むアパートにたどり着いてしまった。

「来週の講義で」

「よかったらその日の夜、飲みに行こう」

 手を振って僕らは別れた。本来ならそれまで会うことはないはずだった。

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