異世界に昇る 7
ただでさえ慌ただしい朝が、僕がそのままキャンプに行くことになったので、さらにバタバタしていた。
「寝袋持った?」
「持った」
「授業の用意はしてある?」
「リュックに入ってる」
「お金は余分にある?」
「前借りしたから」
「授業休んじゃダメよ」
「もちろん」
「本当に気をつけるのよ」
「わかってる」
学校行事以外で初めて外泊するからか、いつになく母親が気を揉んでいた。
気持ちも落ち着けてトイレを出ると、景午とすれ違った。
「おはよう」
「――人生の夏休み、か」
にらむように僕を見ると、弟は洗面所に入っていった。
冷ややかな声が、耳に入って、そのまま肺を刺したように、胸が痛んだ。
1本早い電車に乗って大学に着くと、キャンプ道具、いや、異世界行きの用意をした荷物をコインロッカーに預ける。本来は体育の授業でかさばる着替えとかサークルで使う道具の保管をするために使うのだから目的外使用にあたりそうだが、そのまま教室に持って行くのも迷惑極まりない。
申し訳ないと思いつつも、百円玉を押し込んだ。
母親の言いつけ通り講義には出席し、少しだけ学生サポート部会の集まりに顔を出し、空き教室で昨日の残りの唐揚げを入れたおにぎらずで昼食を摂り、今日最後の講義を受けに行こうとすると、スマホに着信が入った。なんと、相手はまたもや響だった。
指定された教育学部の建物に行くと、幽霊のように立ち尽くしている響の姿があった。風邪でも引いているんじゃないかと思うくらい、覇気がない。
「どうしたの?」
「ここでずっと待ってるんだけどさ」
スマホを握る手が震えている。ひどく動揺しているようだ。
「本当は、今日の2限終わりに返すって言ってくれたのね。だからここで待ってたんだけど……」
昨日、響は名前も知らない相手に傘を貸した。おそらくここで待ち合わせて返すという約束をしたのだろう。もう3限も終わりに近づいている。にも関わらず、響はずっとその人のことを待っていたのだ。人の傘を借りておいて待ち合わせにも来ないとは、と前なら憤慨するところだった。
「時間は大丈夫なの?」
「一応次の時間入ってるけど」
「響、一旦次の講義に行こう。
その人、響との約束を忘れちゃったんだよ」
本来ならとっくに約束の時間は過ぎているのだ。待っている義理もない。
「そうならいいんだけどさ」
響の声が震えている。
「
傘を貸した人の名前だろうか。
「
教育学部の教授か? 響のことを向こうも知っているということは、学科の受け持ちだろうか。
「そしたら?」
「長谷川先生自身からは貸した傘なんか戻ってくるかあ? みたいなことを言われた」
ひどい。声まねしているつもりだろうが、事態は笑えなかった。
「長谷川先生の後ろからゾロゾロ学生がついてきてたんだけど、そのうちの1人が傘を貸したところを見てたらしい。あ、その人が佐橋さんだって名前も教えてくれた」
まさか佐橋さんを擁護する展開になるのか? 根はいい子なんだよって?
「その人は、友達が昨日の夜から佐橋さんと連絡が取れないって言ってるって話をしてた」
「……え?」
「なんか、オレから傘を借りたのを最後に、佐橋さんのことを誰も見てないって言うんだ」
響の顔が青ざめていった。
「今日の講義にもゼミにも来ていないし、同じバイト先だって人が、佐橋さんが時間になっても来ないし電話も出なくて、無断欠勤するような人じゃないのにって話してて……。サボったりするタイプの人じゃないから珍しいね、って話にもなったらしいし。
まさか事故に遭ったんじゃないか、とか、事件に巻き込まれたんじゃないか、とか考えたら……もしオレが傘を貸していなければって」
「それは違う!」
「頭ではわかってるけどっ」
響の手を握ると、冷たかった。
「オレがこんなだから、怖い」
自分にはカシマさんが憑いているから。悲痛な叫びが聞こえてきそうだった。
佐橋さんが現れないことがひどく不安なのだろう。自分が傘を貸したせいで、事件や事故に遭ってしまったのではないか、と。
「5限は?」
「ある」
「なら、絶対に講義に出なさい」
「嫌だ」
「嫌でも」
「そんな場合じゃ」
「1週間も休んだ期間があるでしょ? 明日親御さん来るんでしょ?
響がそんなんじゃ泣いちゃうよ」
赤井さんに襲われたあと、講義を休んだ。欠席が増えれば成績にも影響するし、単位を落としてしまうかもしれない。講義をさぼったりしたら両親も不安になるだろう。響の中の記憶で見たご両親は、目を覚ましたことにすごく喜んでいた。
ここは無理矢理でも説得して気持ちを切り替えてもらわなければ。
「佐橋さんは」
「無事だから」
「絶対?」
「絶対」
佐橋さんの居場所がわからないのは事実かもしれないが、たまにはサボりたくなってどこかで遊んでいる可能性だってある。
グズグズ言う響を講義の教室に押し込んでから、僕も自分が受ける講義の教室に駆け込んだ。すでに講義は始まっていて、遅刻扱いになった。母は、遅刻してはいけないとは言っていない。周囲の視線の冷たさもものともせず、厚かましく教科書を広げた。
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