手を貸してくれませんか 7

 息を吸おうと顔を上げると、手が壁に触れた。

 ちゃぷん、と音を立てて、揺れるのに合わせて体が上下する。肌には液体がまとわりつく感触がして、水の中にいるのだとわかった。

 目を開ければ一面の青、真上は雲一つない青空、周囲には一面ライトブルーの壁面、隣で揺れるコースロープ。僕の中の記憶にはないが、ここはどこかの屋外プールの中だった。

 タイムを聞いて、よしっ、とガッツポーズする。自己ベストだ、と思った。隣を泳いでいたメンバーがゴールしたのを確かめてからコースロープをくぐり、プールサイドに上がる。明らかに競技用の水着を着た、見覚えのある若い男女がぞろぞろ目の前に現れた。

 ナイス! と言い合いながら、彼らとハイタッチをしていく。コーチらしき男性から、もしかしたらカナトに敵うかもしれない、と言われた。頼むぞ、と肩をたたかれる。

 赤井さんの時と同じことが起こるならば、おそらく僕は、懐中電灯で照らした人の記憶を見ているはずだ。懐中電灯を響に向けたわけだから、今はおそらく、響の記憶を遡っていることになる。

 ドアを開けると、仲間内で談笑しているのが見えた。すでに全員制服姿だったので、時間が飛んだのだろう。何人かは同じクラスになったことがあったはずだ。そのグループの中に入っていった。

「何話してんの?」

 声をかけると、ああ、と笑った。

「夏といえばこれだろ?」

 1人が、手首をぶら下げたように腕を差し出している。お化けのポーズ、怪談か。

 仲間に加わり、お互い知っている怖い話をしあった。

 うちの1人が、「聞いたら呪われるって話なんだけどさ」と前置きした。

「カシマさんって言うんだけど」

 僕はあっ、と息を飲んだ。しかし、今は映画を見ているような状態に近いわけだから、僕の意思で干渉することはできないのだろう。やめろとも言えず、彼の話を聞くはめになった。

 彼は、ほぼ僕の推測通りのカシマさんの話をした。違うところといえば、カシマさんの正体が具体的に語られたこと。聞いたら呪われるというのは、どうやら話を聞いた人のところに現れるという意味だったらしいこと。物語のために脚色されたのだろう、あの世に引きずり込まれるという部分がなく、殺されるという話になっていたこと。そのくらいだ。

 怖ーと仲間内で盛り上がっているさなか、さっさと帰れー、という、男性の声が聞こえた。

 談笑していた部屋、おそらく部室だろう、から出て、帰ることになった。すでに夕暮れ時になっていた。

 場面が切り替わって、田んぼがどこまでも広がる道をするすると通り過ぎていく。視線から察するに、自転車に乗っているのだろう。もう日没は迎えていて、西の地平線から差し込む夕日が田園風景に落ちていた。

 僕の通っていた高校は学区が広い。もしかしたら、電車が1時間に1本あるかないかくらいの、人が少ないのどかな田舎町に、響の実家はあるのかもしれない。電車通学している僕と同じ高校出身でありながらアパートの部屋を借りている理由が、少しだけわかった気がする。

 やがて高い生け垣が立ち並びはじめ、集落にさしかかっていくと、辺りはいっそう暗くなった。人どころか車すら通る気配もなかった。

 響はこんな真っ暗な道を、いつも通ってきていたのか。

 やがて曲がり角を曲がると、自転車は急ブレーキをかけた。

 道のど真ん中に、人が立っている。顔を覆うほどの長い髪の、女。電灯もまばらな通りだというのに、女の周囲だけはぼやっと白いシルエットが浮かび上がっている。十字路に立っていた少女とは違って、明らかにこの世のものではない存在だとわかる、おどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。

 女はこちらを向いて立っていて、男性のような低い声で言った。

「手を寄越せ」

 女は、自分の手を伸ばしてきた。見るも痛々しい、ただれた腕だった。直感的にカシマさんだと気づき、ジリジリと後ずさる。

「手を寄越せ」

 女はふらふらと歩いてくる。この一言で、カシマさんだと確定した。伝聞の中に出てくる答えを言えばよかったのかもしれないが、普通はまず思い当たらない。自転車にまたがったまま、静かに後ずさって距離をとった。

 長い髪の奥から、カシマさんと目が合った。

 当然、逃げるという選択をとった。

 すぐに自転車を方向転換させてペダルを踏みしめた。息をつく間もないまま、自転車のペダルを漕いで、漕いで、とにかく逃げた。

「手を寄越せ」

「足を寄越せ」

 カシマさんからと思しき声は後ろから迫ってくる。どこを走っているのかすらわからなくなっても、カシマさんが迫ってくるとわかると、逃げ続けるしかなかった。

 右へ左へ、生け垣やブロック塀やトタンの壁の間を縫うように自転車をこぎ続ける。チラチラ振り返ると、カシマさんはあきらめることなく追いかけてくるようだ。いつまで続くかわからない逃亡劇に、頭がおかしくなりそうだった。

 全速力でこぎ続けたせいか、ふいにペダルから足を離して、踏み外した。自転車は速度を保ったままその場で回転して横倒しになった。地面に体が打ち付けられた痛みで、起き上がることすらままならない。

 手を寄越せ、足を寄越せというフレーズとともに、カシマさんは近づいてくる。

 やがて獲物を見つけ、襲いかかってきた。

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