夜の星を見上げて歩こう 8

 女性の首吊り死体を発見した後、僕に残っていたわずかな正気は、警察に通報するという判断を下した。震える手でリュックを漁り、スマホを取り出す。ロックを解除しようとしたところで、後ろから手が伸びてきた。

 当然、僕は悲鳴を上げる寸前だった。だが、そういった反応もお見通しだったろう、もう片方の手で僕の口が塞がれた。

「待てよ」

 聞き覚えのある声が、耳元をくすぐる。僕の手からスマホが取り上げられた。

「こんなんで警察に捕まっても、おもしろくないだろ?」

 僕のスマホの光で、顔が照らされる。昭和の怪談の手法でこれほど怖い思いをすることはなかった。これからもないだろう。

 近づいてきた人間の正体は、真壁だった。

「で、でも、でもでも」

「うるせえな。ちゃんと見てみろよ」

 真壁に言われたとおり、窓の方を懐中電灯で照らしてみると、吊られていたはずの女性は跡形もなく消えていた。

「なんで!」

「大声出すな、近所の人に通報されるぞ」

 真壁は再び僕の手を握って、懐中電灯の光を消した。

「懐中電灯片手に人の家に入ったとわかれば、現行犯逮捕は免れないからな」

 真壁は懐中電灯とスマホを、僕のリュックサックの中に押し込んだ。冷静になって考えてみれば、小学生でもわかることだった。

 なぜお前はここにいるのだ、とか、人のことは言えないがいつの間に人の家にずかずか上がり込んだんだ、とか、山ほどある質問を全部飲み込んで、僕は真壁の指示に従うことにした。僕らは何もせず退散することになったのである。

 これ以上物音を立てないように戻りながら、指紋や靴下の跡などを拭き取っていく。実際、不法侵入なのだが、サスペンスドラマの犯人を連想させるので、犯罪者みたいだと実感させられた。

 家から無事に脱出すると、待ち合わせの時間と場所だけ決めて一旦家に戻ることにした。一夜明けて、僕は警察に追われることもなく大学に登校し、今、真壁と駅前のカフェテラスのテーブルに正対して座っている。

「だから言ったろ? 次は無事に帰ってこられるかわからない、と」

 目の前の男は頬杖をつきながらにやついている。はっ倒したくなる衝動に駆られたが、何も言い返せなかった。

「あったあった。ここだろ、昨日行った家は。

 3年前に住人が自殺してる」

 何やらスマホをいじっていたが、どうやら事故物件かどうかを調べていたらしい。確認すると、確かにあの家のようだった。空き家になっているっぽいな、と真壁がつぶやいた。

「昨日はどうしてあそこにいたんですか」

 昨日から聞きたかったことをようやく聞く機会ができた。けれども真壁はどこ吹く風といった感じで答えた。

「図書館から出て行く君を見つけたから後をつけてみたんだ」

「ストーカーじゃないですか!」

「あの家には、窓から空を見上げる女性を見に行っていたんだろ?」

「まさか、昨日が初めてじゃないってことですか?」

 おぞましさに身震いしながら真壁の返答を待っていると、画面を切り替えたスマホを差し出してきた。掲示板とはこういうサイトをいうのだろうか、話し言葉で書かれた短文の塊がずらずら表示されたウェブサイトが表示されている。書かれていたのはマンションの窓から夜空を見つめる女性がいて、ある日その部屋に行ってみると実は首を吊って死んでいた、という話だった。

「怖い系の都市伝説を集めている掲示板サイトだそうな。赤いマフラーの女もあったはずだ」

 真壁はスマホを自分の手元に戻した。

「これは」

「ライフワークの一環で、ありとあらゆる怪談の類いを収集している。この大学で文化人類学を学ぶのも、そのためだ」

 僕と違って、真壁は明確に学びたいことがあって大学に入ったらしい。その点だけは、素直に感服した。

 一応、真壁がでっち上げたサイトでないかを確認しておこうと、自分のスマホでさっきの話を検索してみた。確かにいくつか似たような話が書かれているサイトが出てきた。どうやら都市伝説としては本当にある話らしい。

 赤井の時といい、今回といい、流布している怪談にあまりに状況が似ている。

「おまえ、この状況でもまだ大丈夫だと言い切れるのか?」

 真壁が顔を上げて、僕の顔を覗きこむ。

 2度も怪談に似たような状況に遭遇したとなると、3度目がないとは言い切れない。しかも3度目は命に関わるようなものだったら……。

 黙りこくった僕に、真壁が語りかけた。

「これ以上お互い会わないと決めて、関わらないという方法もあるだろう。もしかしたら君はそれで解決することなのかもしれない。

 でも、それで解決しなかった場合、君たちはどうするつもりなのかな?」

 昨日の夜、あの家に真壁が現れなかったら。赤井がマフラーを取った姿をさらしたときもそうだ。僕や響はどうなっていたのだろう。

「夕介……」

 呼びかける声が聞こえたので横を向いてみると、真っ青な顔をした響が立っていた。

 誰よりも僕と真壁が会うことを心配していた響に、この状況を見られてしまった。

「響!」

「何だよ、やっぱり、おまえ真壁に会ってたのかよ……」

 響は僕に目を合わせてくれなかった。違う、と口から言い訳が出そうになったが、今日ここで会っているのは紛れもない事実なのだ。僕はそのまま黙っていた。

「カシマさん」

 真壁が気安く呼びかけると、響は「立川だ!」と叫んだ。すぐにしまった、と響は口を塞いだ。

「立川君か」

 真壁は頬杖をつきながら響をまじまじと見ている。響は顔を隠すようにそっぽを向いた。

「ずっと思っていたんですけど、カシマサンって何なんです?」

 空気が読めていないのは十二分に承知の上で、真壁にささやいた。人の名前らしいとはわかっているものの、なぜ響に対してその名で呼ぶのか、ずっと疑問に思っていた。

 真壁は僕に顔を向けて「何だ、そんなことも調べなかったのか」と言った。

「カシマさんってのは、手足を失った郵便配達員だとかケロイドの女性だとかまあ様々な説があるものの――」

 言いかけて、真壁はやめた。口元を触ったまま、何も言わなかった。

「何ですか、教えてくださいよ」

 僕が顔を近づけて問いただしても、曖昧な返事しかしない。珍しく真壁の方がたじろいでいた。

「夕介」

 響が僕に呼びかけた。

「知らない方がいい。何も聞くな」

 響は、まるで真壁に肩入れするように忠告してきた。怯えているようにも見えた。

 その隙に、真壁が黙って席を離れようとしたので、とっさに腕をつかんでしまった。まずい、と思ってすぐに手を離す。

「この先は彼の言う通り聞かない方がいい。君が平穏を望むというなら」

 真壁はこちらを向くことはなかった。

「カシマさんは自己責任系、話を聞いたり読んだりするだけで呪われるという話だ。

 たかが怪談じゃないか、というなら何も言わない。だが、今の君に聞かせて身の安全は保証できない」

 真壁はそれだけ言い残して去ってしまった。今更ながら、助けてくれたお礼すら伝えていない。

 僕は、響に向き合った。

「今日だけだから」

 信じられないのだろう。響は顔をこわばらせたまま何も言わない。

「もう、会うことはないから」

「そっか」

 数秒経って、絞り出すような響の声が聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る