異世界に昇る 10
大学に着く頃には、雨はやんでいた。
傘をすぼめると、真壁が立ち止まってこちらを見てくる。待たせているようなので、ぬれた傘を雑に巻いてリュックの脇に突っ込んだ。後できれいにまき直そう。
目的の総合のD棟に着くと、先にトイレに行くぞ、と声をかけられた。5限が終わってからでは混雑するから、という。確かに僕たちが入ったのは狭いトイレだった。
用を足して時間を確認すると、5限が終わったころだった。
手を洗ってトイレから出て行こうとする真壁に声をかけた。
「少しだけ、寄り道してもいいですか」
置いていかれそうになったので手を洗いながら声をかけると、真壁はあからさまに嫌そうな顔をした。
「忘れ物はないかって聞いただろ」
「ちょっとだけ、響の様子を見てきたいんです」
手を拭ったハンカチをポケットに押し込む。待たせている真壁は機嫌の悪い子どもみたいにむすっとしていss。
「なんで」
「心配なんです。ちょっと。傘を貸した人がいくら待っても姿を現さなかったらしくて不安になってました。その人の知り合いも、その人と連絡が取れないといっていたらしく、事故や事件に遭ったんじゃないかって心配してて。
今ならちょうど講義が終わって帰るころですから、会えると思うんです。いるとしたら総合棟か教育学部棟だから、そんなに距離もありませんし」
真壁はため息をついた。
「過保護過ぎね?」
その一言に、二の句が継げなかった。
「立川君だったよな、彼がその、傘を貸した相手のことを心配するのはいいとして、それをなんで君が心配してやらなきゃならないんだ。お互い大学生だろ。いくら仲のいい友人とはいえ、そこまで気を遣ってやらなきゃいけないのかね」
冷たい言葉がザクザク刺さる。なんてひどい人だろう。顔がこわばっていった。
真壁は僕に距離を詰めてきた。
「そういえばおまえ、なんで学童クラブのボランティアサークルなんかに行ったんだ?」
いきなり何を言い出すのだろう。
「今関係ないですよね」
「経済学部は教員免許取れないよな? 就活で有利になると思ったか?」
「だから何なんですか」
「君は立川響が行くからというだけで、学童のサークルに行ったのか?」
至近距離で聞いてくる真壁に、目をそらさず答えた。
「そうだとしたらどうなんです?」
あまりに非情さに憤慨したので、聞き返してやった。真壁は恐れをなしたのか顔を引きつらせて、小刻みに体を震わせている。
チリン、と鈴の鳴る音がかすかに聞こえた。
「
真壁は僕の両腕をつかんで、やめよう、と言ったはずだった。真壁の本来の声とは別に、耳障りな低い声で来い、と聞こえたのだ。
「
口では、今の君は危険過ぎる、一旦出直そうと言っているように動いたのに、何をぐずぐずしている、こっちへ来るんだ、という変声機を通したような男の声が同時に混じる。気持ち悪い。何なんだ、この声は。
混乱して固まっていると、真壁は手を離した。そのまま腕をどうするか考えあぐねているように、僕のことを眺めている。
チリン、チリリリン、と鈴なのかベルなのか音が大きくなっていく。どこから聞こえてくるのだろう。動かそうとしても首も回らなかった。
「
真壁の声が、知らない男の声にかき消される。懐中電灯を使いたかったけれど、使えなかった。真壁から聞こえてくる得体の知れない声が、真壁の本心だったとしたら。真壁を照らして真実だとわかってしまうと思うと、怖くてショルダーポーチに手を伸ばす気にすらならなかった。
逃げなきゃ、そう思った時には真壁をすり抜けて廊下に飛び出していた。
真壁が追ってくるなか、エレベーターを通り過ぎて出口へ向かう。
チン、と音が聞こえたと思うと、急に周囲の景色が変わった。
左右を無機質な白と銀の壁に囲まれていて、右手の斜め前にはいくつかの押しボタンが規則正しく二列に並んでいる。正面は出入り口になっているらしく、外にいる真壁がこちらを向いて立っていた。
僕は今、なぜかエレベーターの中にいるらしい。
前のめりになった真壁は、手を伸ばして僕の手を取った。真壁が乗り切っていないのに、左右からゆっくりと扉が閉まっていく。
真壁が僕の腕を引っ張るので、危ないじゃないかと腕を引き返すと、急に重力が向きを変えて、背中側に倒れ込んでいく感覚があった。僕はそのまま真壁を引きずり下ろすように、腕を引いた。
背中を打ち付けた痛みと同時に、重力はまた元の向きにかかったのを感じる。受け止めた真壁を支えるようにして、エレベーターの床にへたり込んだ。
エレベーターの扉が音もなくピタリと閉まる。
僕たち2人は、天井から降り注ぐ人工的な白い照明と、四方をビニル製の壁紙と金属の板で囲まれた空間に取り残された。
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