国会議事堂
廊下を歩く途中で、無所属と書かれた十七号室のドアが開いた。
若い秘書らしい男性が出て来て、参観者にわずかに動揺した表情を浮かべる。それでも彼はドアを開け、おそらく議員なのだろう。年配の男を先に通した。
同じとき、廊下の先から、別の男達がこちらに向かって来た。
右肩が少し傾き、身体が上下する不自然な歩き方、右足に障害があるのだろう。太めの体型は年齢から考えると高血圧症や糖尿病に悩んでいそうだ。
徳岡。あれは、たしかに徳岡……。
思わず心臓が鳴った。
身体がかってに見学の列をはずれ、ふらふらと近づいていく。
「失礼ですが、徳岡議員ですか」
「ああ、そうですが。あんたは?」
「倉方です。倉方玜介の妻です」
「倉方?」
表情は全く変らない。その様子から彼の感情を推しはかることは難しかった。
「徳岡先生とご親交があった倉方玜一郎は
「申し訳ないが、年を取ると記憶が薄れる。その倉方という人物とは、どこかで知りあっていたのかね」
「先生、急ぎませんと」
秘書らしい男が言った。急いでいるようには見えなかった。
「では、失敬」
「あの」と、更に追いすがった。
「まだ、なにかあるのかね?」
なぜかわからないが、彼に以前会ったような気がした。ホテルのビデオで見たからだろうか?
「以前にお会いしたことはありませんか?」
「仕事柄、多くの人と会う。後援会かなにかで、ご一緒したのかな」
「いいえ」
「ふむ、わたしには覚えがない」
「そうですが……」
彼は手を上げると、右足を不自然に動かしながら歩み去った。
遠くから、見学者を先導する衛視が怖い顔でにらんでいる。陽菜子は頭を下げて、見学者のなかに戻った。
自宅に帰ったのは、二時間くらい。規制線は外され、警官もいなかった。しかし、数時間して、ドアフォンが押され一ノ瀬と見知らぬ男が訪れた。
「ホテルにご連絡しましたら、もうお戻りだと。それで、その。ご自宅に帰ってらっしゃるとわかったので」と言ってから、「奇麗になりましたな」と、廊下から部屋をのぞき混み、彼は愛想笑いをした。
「これから、署までご同行願いたいのですが」
「えっ? 今からですか?」
「今からです」
「それは強制ですか?」
彼は顔を上げた。
「まあ、なんちゅうか。そういうことではないですが」
覚悟していたことが始まった。もしかしたら自宅に帰るのを待っていたのか。東雲が言った安全な場所という意味が理解できた気がした。
「着替えてからでも、いいかしら」
「こちらでお待ちします」
陽菜子は品のよい濃紺スーツに着替えた。できるだけ真面目に誠実に見えるようにと願った。それは意味がないかもしれないが。
──意味がない? 生きることさえ、意味がないのかもしれないのに。
警察署に着くと取調室らしい部屋に通された。前に任意同行のときに入った談話室とは、あきらかに部屋の雰囲気が違う。
一ノ瀬は椅子の背をテーブル側に向けると、ラフに両足を広げてすわり、穏やかな声で、「お茶でも飲みますか?」と聞いた。
「お茶? いえ、大丈夫です」
「そうですか……。さて、まずは形式的なことですが。あなたのことについてお話します。間違っているようでしたら、ご訂正して下さい」
「わかりました」
「倉方陽菜子さん、三十七歳、出生地はベルギー王国。お父様の赴任先で誕生された。ブリュッセルに八歳までおられ、その後、帰国。帰国子女枠でカトリック系私学の聖母学院へ入学。そうそう、あなたが六才のとき……、妹さんが不慮の事故で亡くなっていますね」
「そうです」
「お母さまは、しばらく心療内科に通院されている。帰国当時を知る人によると、あなたはとても大人しい少女だったらしい」
帰国してすぐの時、日本語が難しかったのだ。一九八〇年代のブリュッセルは、フラマン語とフランス語が主言語だった。
日本語の勉強をしてはいたが、やはり母国語として習ってない言葉は発音が奇妙になった。特に母親が教える気がないと、簡単に忘れてしまう。
妹の死後、母は神経を病み、自宅のアパートメントから外へ一歩も出る事ができなくなっていた。陽菜子は買い物にもひとりで行く。日本ほど治安のいい場所ではないが、幼かったために、それを異常とも思っていなかった。
「帰国後もお母さまが通っていた心療内科の先生によると、あなたは我慢強く、その年齢にしては大人びていたと。いつか爆発するのではないかという危惧を感じる少女だった聞きました。
そして、聖母学院中等部に進学。中学三年で、今度は米国へ引っ越した。四年後に再び帰国子女枠で、倉方玜介氏と同じ大学に進学。大学生で付き合いはじめ卒業後、今の職場に就職した後、結婚……」
一ノ瀬は驚くほど詳細に陽菜子の生い立ちを説明した。就職から結婚、新婚旅行先から、不妊治療先の医師の名前まで告げた。陽菜子でさえ忘れていた事実が暴かれる。まるで丸裸で彼の前に座っているような羞恥心を覚えた。
「わたしよりもわたしのことをご存知みたい」
彼は薄く微笑んだ。それから、「ご不快でしょうが、仕事ですから」と呟いた。
「まるで、最初からわたしが犯人だと確信して捜査しているようね」
「いえ、あらゆる側面から、あらゆる人を調べています」
「そう、それで?」
「実は……、目撃者が現れたのです」
「目撃者? では、犯人を見た人がいたのですか?」
一ノ瀬は困った表情をした。前に取り調べを受けた不愉快な男より正直な表情だった。
「覚えておいでですかね? あの夜、警察に電話した人ですが」
「ええ、とても助かりました。見つかったのですね」
「まあ、そういうことで……。名前は伏せますが、彼が」と言って、一ノ瀬は陽菜子の顔を凝視した。「あなたが走ってきて、それでご主人が倒れたと証言したのです」
背筋が凍り付くというのは、こういう事をいうのだろうか。
(つづく)
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