Frightened 怯え



 東雲がレセプションホールで手続きしている間、陽菜子は所在なくオープンテラスで待っていた。屋根だけの開放的な大理石のフロアを歩きまわると、ヒール音が耳障りだと思う。


 プルメリアの甘い香りが漂ってくる。


 あでやかなサロンを身にまとったスタッフが、ウエルカムドリンクと果物をテーブルに置き、陽菜子に「どうぞ」と、ほほ笑む。


 彼らはサンダル履きで、大理石のフロアで靴音がなく、所作は静謐せいひつだった。スタッフも、建物も、木々も、すべてが艶やかな南国の絵画のようで、この美しく完成された景色のなかで自分を異質な存在に感じる。


 スタッフがにこやかな笑みを浮かべ、「他のテーブルのほうがよろしいでしょうか」と、丁寧に聞いてくる。


 その瞬間、背筋をぞわりとした戦慄が走った。自分は丁寧に扱っていい人間じゃない。ニセモノなのだ。


 やわらかい笑顔の影に隠されたスタッフの侮蔑が透けて見える。


(ご主人様は、今回は、どんな女を連れてきたんだ。おい、女、おまえは何人目か知っているか)



「どうした」

「いえ。終わったの?」

「ああ、行こう」


 スタッフが運転する屋根付きのカートでコテージに向かう。


 深とした森のなか、間隔をおいてコテージが並び、すべて海を望める位置に建てられていた。

 木々の狭間から海が見える。

 優しく熱を含んだ風が、すっと通り過ぎた。



「お待たせいたしました」


 カートが停車した。

 白い門柱のある建物前だ。白く低い門柱の先に建物が見える。

 

 木戸を開けて中にはいると、飛び石となった石畳の通路があり、左右は池になっていた。


 その先はオープンリビング。正面にはインフィニティのプライベートプールがあり、プールの周囲を、コの字型に部屋が囲んでいた。


 正面には視界を遮るものはなく、シンガポール海峡が広がっていた。


「いい場所でしょ。右側の部屋を使って。着替えとかは揃っているはずだ」

「ありがとう」


 ドアの正面に大理石でできた洗面所がある。水を流すと少し匂った。

 バスルームはシャワー室とバスタブが別になり、使い勝手がよさそうだ。


「水は飲めないから、冷蔵庫のミネラルウォーターを使うといい」と、慶輝が叫んだ。


 声が弾んでいるように聞こえる。

 そろそろ夕闇が近く、海の向こう側、太陽が残酷なまでに明るいオレンジ色で、さざ波がキラキラと輝いていた。


「どうですか?」と、ドアから東雲が顔を出した。


 聞こえないふりをした。

 身体が気怠く、警察に追われ逃げてきたことさえ、どうでもよくなった。


 波の音だけが耳にとどく。


 もう、すべてがどうでも良いことに思えた。玜介のことも、警察のことも、心配しているだろう親のことも。この気怠い暑さは、すべての思考を停止させる。


「そうでしょ」

「なにが?」


 彼が聞いたが、あえて答えを求めてなかった。


 波音は常に人懐かしく物悲しい。太古に海で生活していた記憶が古い細胞に残っていて、それが人の記憶を呼び覚ますのだろうか。記憶とは、しかし、不思議なものだ。


 湿気がこもった生暖かい空気が身体にまといつく。


「また、上の空ですね。でも、不安そうではない」

「ええ」と言ってから、なぜか、「いいえ」と否定した。

「それで?」


 東雲慶輝の態度は部下であったころより親しげだ。別の意味では距離が近い。いつの間に、これほど近づけてしまったのか。


 彼の目に暗い影が映る。太陽光の影響だろうが、深い闇に引きずられるような目をしている。なにか説明できない奇妙な感覚、まるで玜介を見ているような。


 慶輝は変わった。


 いつからだろう。自然で微細な変化だったから、気づかなかった。しかし、明らかに前と違う。もっと大人で落ち着いた冷静沈着な男に見えた。迷子の子犬のような雰囲気が消えている。


 オフィスでは、常に坊ちゃんという仮面を被っていたのかもしれない。


 今の彼は、必要なこと以外は口数が少なく、以前のように気軽な雰囲気はない。いったい、この男はいくつの顔を持っているのだろう。


「聞きたいことがあるわ」

「なんですか」

「なぜ、ここまでして、わたしを助けるの?」

「いけませんか」

「あなたの振る舞いは度が過ぎてる。以前、あなたの父親から、あなたから去って欲しいと頼まれた。でも、あなたは親に逆らい、プライベートジェットまで使って、ここまで来た」

「いけませんか」


 彼の父、東雲慶一朗は秘書に任せることもできただろう。それなのに、わざわざ息子から離れるようにと足を運んだのだ。


「あなたのお父様にお会いしたわ。事件の調査をやめて欲しいと」

「そうでしたか」と、彼はすっとぼけた。

「知っていたんでしょ。父親が来たことを。事件に関わるなと告げたことも」


 彼は歯をみせずに、真一文字に口を結び、口角をあげて笑った。その顔は成熟した大人に見えた。


「もう、だませないか」

「お父様の言葉には、別の意味があったのね。わたしに逃げて欲しかったのでしょうね。ここにいるのも、了承済みってわけ」

「そうですね。父も知っている」

「あの代議士、徳岡のことは、もしかして、企業絡みの問題があるの? それも東雲グループとの」


 彼は大きくため息をついた。


「ここに、すわって話しましょう」


 彼はオープンデッキにあるソファを軽く叩くと、簡易キッチンの扉を開け、冷蔵庫からビール缶を持ち戻ってきた。


「何が聞きたい」

「すべてを」

「わかりました」


 陽菜子が、ベッドになりそうな広いソファマットに足を組んですわると、彼は向かい側ではなく、隣に腰を下ろした。


 そして、「疲れたな」と、呟いた。その声は、とても艶っぽかった。


(つづく)

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