toxic 毒



 シャワーで全身を丁寧に洗った。

 クローゼットにあった部屋着に着替える。身体がだるく、ベッドに横になると、すぐに眠りに落ちていく。



 ──わたしを見つめる視線が苦しい。



 深夜に目が覚めてしまった。

 胸がざわつき息苦しい。

 ガラスドアを開け外に出てみると、暗くなって気温が下がったのか、少しだけ肌寒い。羽織りものが必要だが、風が素肌に心地よくもある。


 闇に目が慣れると、プールサイドに人影が見えた。

 半裸の慶輝が寛いでいる。


「眠れないわ」

「僕もだよ……。おいで」と、彼が軽く笑みを浮かべる。

「海に降りよう」


 彼は気怠げに立ちあがり、軽く背中を曲げて、コテージの擁壁に設えた階段をおりていく。あとを追うかどうか迷った。ぬめりけを帯びた階段は足もとが悪い。


 得体がしれない感情に戸惑っているのか、それとも、彼に惹かれる自分が嫌なのか。埋め込み式の薄暗い照明を頼りに降りて行く。


 途中、足を滑らせそうになると、彼が支えようとして躊躇ちゅうちょした。陽菜子が気づかないふりをする。中途半端に伸びた手を、そっと下ろす。その手がかすかに震えているように思えた。


 コテージから離れ、海に近づいていく。


 明かりが遠ざかり夜の暗さが増す。振り返るとコテージを照らすオレンジ色の光が揺れている。まるで向こう側におとぎの国があるように見えた。


「どこまで行くの?」と、聞いたが彼は答えない。


 静かな海から、ざーざーという規則的な波音が耳に届く。


 うち捨てられたようなビーチチェアが砂浜においてあった。

 昼間には鮮やかな白色も、夜のなかでは、みすぼらしく映る。


 彼は二脚持つと、ジャブジャブと海にはいった。水面にビーチチェアを広げ、こちらを見た。


「ここに来てごらん」


 生暖かい水にくるぶしを浸して海に入りると、星明かりのなかで、彼が誘うように手をふる。ビーチチェアに横になる。ゆったりと寄せては返す波が微かに身体を揺らす。


 頭上の星をながめた。

 文明世界から遠く、世界にはふたりしかいない。静謐な時が流れ、深い海の底に沈んでいく。


 彼が手を伸ばして空中でとめた。その手は、まるで別の生き物のように、そっと陽菜子の手の甲に重ねられる。


 肌寒い海の上で、大きな手はとても暖かく、やわらかく、心を満たす。


 寄せては返す波の音が永遠を教える。

 手のひらを返して彼の手を握った。世界に完璧な瞬間というものがあるのなら、その瞬間は完璧だった。神の存在があるのならば、その瞬間ほど神に近づいた時はなかった。


 ──ああ、あの日と同じだ。玜介と感じた、あの短かった瞬間と同じ。



「とても穏やかだわ」

「よかった」と、彼が頭をもたげ、腕で支えて、こちらを見た。


 彼のなかに存在する、なにかの美徳、ある種の優しさに感動する。社会という鎧をまとうことで普段は隠されているが、本来彼が持つ無垢な純粋さが、この自然のなかに満ちていた。


 そういえば、玜介には、いつも女の匂いがした。

 タバコと酒に、ただれた女の匂いが染み付く根無し草の男。それは、慶輝にはないものだ。


「会社はどうしたの?」と聞くと、「あなたが休職した後に退職した」と返ってきた。

「では、今はなにをしているの?」

「前から東雲グループの投資部門を担当していて。毎日、金をあっちにやったり、こっちにやったり。世界的に金融が不安定だから、投資はかなり危うい綱渡りが続いています」


 会社勤めの頃よりも、慶輝は穏やかに言葉を選んだ。真っ当な正しさみたいなものが、彼にはあるにちがいない。では、一層、自分と関わってはいけない気がした。


「キスしていいですか?」


 上半身をひねり、夜を通して彼をながめた。不思議な表情で見つめる目に、どうしようもなく惹かれた。


「そうね」という声に、少ししょっぱい味のする唇が重なった。


 なぜか取り返しのつかないあやまちをしたような気がする。


 それでも陽菜子は声にだして笑った。気分が良かった。


 並んだビーチチェアは、ふたりの動きに合わせて動き、そして、気づくと波のなかに落ちていた。


「こうやって、どこまでも堕ちてくのね」

「どこまでも、僕はあなたの側で落ちていきます」


 夜は長く、夜は短く。

 合わさった肌は海水に浸り、いつまでも冷たく蒼ざめ、温まることはなかった。



************



 翌朝、陽菜子は、クローゼットに用意されていた淡いピンクのポロシャツに白いコットンパンツを穿いた。うきうきと幸福な気分だった。

 エレベータを使ってラウンジに向かう途中、ポケットに手を入れ、そして、なにかが指先に触れた。


 慶輝がメモでも入れたのだろうか?


 乱雑に四つ折りにされた便箋には、拙い文字で、『おまえが 死んでよかった 美月子』と、書きなぐってあった。


 便箋が指から離れ、ふらふらと空気中で波打ち、フロアに落ちる。それはスローモーションのようだった。

 周囲の音が消えた。


 美月子……。なぜ、彼女が、なぜ、どうして?


 ふいに、母の絶叫が蘇った。美月子、かわいそうな手に負えない妹。彼女は川に溺れて死んだ。いったい誰が、こんな悪趣味なイタズラをするのだろうか?


 それとも彼女が溺れたというのは間違いだったのか?


 そんなはずはない。確かに近所にあった小さな川で溺れた。大雨のあとの増水で水かさが増していたのに、『アツイ』と言って川に飛び込み、流された。


 六歳の記憶は朧げで、途切れ途切れの断片として残っている。


 夏の暑い午後や、

 崩れた洋館や、

 大雨の後の泥水や流木が流れる川、

 落書きした机、

 フェンケ先生の怖い顔、

 犬が吠えていた庭の片隅……。


 それらは、霞がかかった記憶の切り抜きでしかない。美月子の最後は、と考えて、葬式の記憶がないことに気がついた。


 もう一度、床に落ちた便箋を見た。書きなぐった汚い字。彼女が成長すれば、こういう字を書いたかもしれない。

 メーキングスタッフの女性が、清掃道具を押して近づいてくる。


「こんにちは」


 彼女は、おどおどとした笑みを浮かべ、フロアに落ちた便箋に気がついて拾った。


 ──シィィィイイ……


 疲れた女性が落としものを差し出す。その手が幽霊のように、ひらひら動いて、気づいたときには払いのけていた。理由もわからず、門から飛び出して走った。


 強烈な太陽がむきだしの肌を襲う。


 南国の樹木は、どこまでも自由に生い茂り、暑さに身体が怠くなるはずが、かえって寒かった。気分が悪く吐きそうだが、部屋に帰り、ひとりになるのが恐ろしい。


 ゆっくりと廻りを見渡した。そして、どこかにいるかもしれない美月子を探した。


 周囲は木々が鬱蒼と茂っている。


 幸せそうな人びとが幻のように通り過ぎていく。これは幻想、幽霊にちがいない。ここには誰もいない。それでも、クリスマスを祝う飾りが見え、かりそめの幸福に酔う姿が思い浮かんだ。


 慶輝はどこ……。


『おまえが 死んでよかった 美月子』


 もし、これが彼のしたことならば……、疑問が頭をかすめた。


──美月子!

──でも、ありえない。妹は死んだ。あの暑い日に、遠いベルギーにある川で溺れて。


 陽菜子は頭を振って否定した。否定すればするほど、薄暗い影がわき上がり、悲鳴をあげそうになる。

 もしも、慶輝が玜介を……。その考えを、強引に心の片隅に押しやった。




 その夜、悪夢を見た。


 人は誰も眠っている間に夢を見るらしい。だが、陽菜子は幼い頃から夢を見た記憶がない。眠りは常に深く、目覚めると記憶に残らない。ただ暗黒の闇が穴をあけている。


 はじめて覚えていた夢に、うなされ寝汗をかき目を開いた。薄暗い部屋の明かりに、慶輝の心配そうな顔が照らされている。


「かなりうなされていた」

「怖い夢をみたの」

「どんな?」


 おびえたような彼の顔を見て、言葉をのんだ。


「忘れたわ」


 慶輝に便箋のことを話せない。この幸福な時間を壊したくなかった。例え、これが嘘で固めた世界でも、生まれてはじめて得た安らぎだからだ。


「本当に?」

「ええ」


 悪夢は断片的で、誰かが自分を殺す夢。震える指で彼の頬に触れた。


 慶輝がベッドに上がると、左手で陽菜子の肩を抱いて「もう、大丈夫、怖くない」と、優しく髪を撫でる。

 陽菜子を抱き上げ膝にのせると、ロッキングチェアで揺らすようにリズムを取った。


 低く穏やかな静かな声で歌を唄っていた。それは古い英国ウエールズ地方の子守唄で、幼い頃に聞いた覚えがある。


「Huna blentyn yn fy mynwes,

(眠れ我が子 胸に抱かれ)



Clyd a chynnes ydyw hon;

(暖かく居心地がよいなかで その真実のなかで)


 Breichiau mam sy'n dyn am danat,

(母の腕の中 母の愛のなかで)


Cariad mam sy dan fy mron

(誰にも、あなたを傷つけたりさせない)」


 Cariad mam sy dan fy mronという最後のフレーズを彼は何度も繰り返した。


 いつのまにか眠ったのだろう。気がついたときは太陽が地平線から昇るときだった。


(つづく)

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