tenacity 執着



 透き通った白いカーテンが海風に揺れる。


 ベランダに野生の猿が降りてきて、プールの端っこにすわった。餌をもらえるかどうか、こちらを伺って値踏みしているようだ。


 一度だけ、キーーっとなくと、老人みたいな赤ら顔で彫像のように固まった。

 

 慶輝が話している。


「例のDNA検査の結果ですが。あなたにとっては、しゅうとの倉方玜一郎氏のですが」

「連絡が来たの?」

「はい、坂野上からメールが来ました。いろいろなぼやきと一緒にね。……結果は考えていたように、あなたのご主人と自殺された彼の父親は親子関係があった。つまり、倉方玜一郎として亡くなった男は、倉方玜介氏の父親です」


 自殺したとされた男は玜介の育ての父ではなく、実際は徳岡なのだ。では、徳岡議員として生きている男が、倉方玜一郎ということになる。


 交通事故を起こしたのは、自分の顔を手術する理由になっただろう。ずっと独身を通した徳岡。だからなりすましが簡単だったかもしれない。


「玜介はそれを調べて、あの丸の内で殺されたの? 実の父親、いえ、実際は育ての父に」

「それは違います。徳岡議員を殺害してなりすましたにしても、玜介氏を殺害する理由がない。仮にも育てた自分の子どもを殺すか。でも」

「で、も?」

「想像してください。あなたの夫は、父親に対して、どんな感情を持っていたんでしょうか?」


 どんな感情? あの男は気にしないかもしれない。

 育ての父と実の父、その両方への感情など、とうに蓋をしていた。


「坂野上が徳岡議員に会ってきました。彼は今期で辞職するらしい。次の選挙には出馬しない。年齢も年齢だ」

「なぜ、玜一郎氏は徳岡議員になる必要があったの?」

「坂野上の話では恨みではないかと。玜一郎氏は再婚した女性に騙されていたことになる。前妻から話を聞いた限りでは、塔子という女性に溺れていたらしい。頭がおかしくなる位に夢中だったと。そのために家族を捨て、教師を捨て、すべてを捨てた。そして、玜介氏が彼の息子ではないことを、ある時点で知ったとき、彼はその計画を描きはじめた、という推論が成り立つんじゃないかな」


 プール側にすわる猿は、まだ、そこにいる。けっして近づいてはこない。


「そうだったの……。可哀想な方ね、とても」


 玜介には抗いがたい魅力があった。切れ長の鋭い目は一重で、そこに暗い光が浮かぶと、視線を外すことができなくなる。


 中毒性のある男が、ときにそういう人が生まれる。


 どんなにクズだとしても、どれほど嫌いだと思っても、彼が目の前にいてそっと触れるとき。あの、うんざりするほど魅力的な視線、肌の熱や息遣いだけで、すべてを許して蕩けていく。

 あの独特の匂い、肌にからむ熱……。色気のある男というのは彼のような男だ。


『おまえが嫌なことはしない。嫌なら言えよ』


 手が太ももに触れている。誘うような態度で、いつも問いかけてくる。選択権はこちらにあると言うように、けっして、自分がしたいと言わない。クズだから。


『まるで選ぶことができるみたい』

『俺、ずるはしてないぜ』


 駆け引きのような結婚生活。


 ──そう、ずるくない。ただ、クズなだけ。


 彼の母は男をとりこにする妖婦のような女だった。妙に納得できる。

 玜介も同じタイプの人間だから。女たちは彼に夢中になる。殺したいほど憎い男。倉方玜一郎は塔子の罠にはまり、逃げ場を失った愚かな男かもしれない。


「徳岡議員が坂野上に告げたことがあります……、今年の夏、玜介氏に会ったそうです」

「会った。それはホントなの?」

「そんな嘘を、あえて言う必要はないでしょう。何を話したのか聞いたところ、坂野上の言い方によれば、寂しげにって、これは彼の印象にすぎないですが。ともかく寂しそうに『想像にまかせる』と、それだけで」


 冷静になれば、玜介は薄っぺらな人間だった気がする。

 常に他人を軽蔑していたが、彼が一番軽蔑していたのは、自分自身だったにちがいない。


「玜介の母は自殺したということだけど。本当は?」

「真実は闇の中でしょう。玜一郎氏と塔子さんの間に何があったのか。それを知っていた唯一の人間は、子どもだったご主人です。わかっている事は本物の徳岡議員が殺害され、倉方玜一郎として埋葬され自殺したことになった」

「怖い話ね」

「そう、怖い話です。だが、表にでない怖い話は世間には数多くある。誰も知らないほうが幸せという話が沢山あるはずです。世の中は平凡なようで、片隅に闇を隠している。あなたは真実を知るために、そうした秘密を掘り出したいですか」

「その個人的な事情と、あなたが、わたしをここに連れて来た大人の事情は違うのでしょ」


 東雲はふたたび口角をあげて笑う。会社では見たことのない顔だが、魅力的だと思う。

 彼は姿勢を変え、腕を曲げて頭を支え、穏やかにほほ笑んでいる。


 ──なぜ、そんな顔をするの?


「どうしました?」

「なぜか、あなたに聞けと言われている気がして。なりすましの徳岡議員が何人の人を殺して、そのことで、あなたの会社は困る立場になるんじゃないかってことを」

「そうです。困ります」

「前から知っていたの? つまり、徳岡の秘密だけど」

「一九九四年に、徳岡の交通事故が起きています。あの後、先生は、しばらく療養して復帰された。その後、彼は変わったらしい。僕はまだ幼い頃ですが」

「徳岡が議員辞職するのは、この件で脅されたってこと?」

「いや、脅しちゃいない。ただ、一九九四年当時、急に我が社との関係を清算したってことです。あなたの事件で警察が捜査本部を立て、一課の精鋭部隊を投入したのは、単に自殺か他殺かわからない玜介氏の事件が理由じゃない。玜介氏が徳岡の息子だからです」

「それに比べれば、わたしも玜介もちっぽけな端役ってわけね」

「いいじゃないですか。端役であるほうが、生きるのは楽です」


 猿がまだ居座っている。人を怖がらないのは、おそらく、つねに餌をもらっているからだろう。


「面白いわね。世間の知らないところで殺人事件が起き、そのために大企業の息子が動き、そして、小さな存在であるわたしを、ここに導く。なぜ? 放っておいても良かったでしょう」

「前も言いましたが、可愛くない人ですね。警察は議員辞職を待って、逮捕状を請求するそうです。高齢だし、逃げることもないので、議員の逮捕許諾請求はしない方向だとか」

「それは、あなたの企業グループに痛手なの?」

「まあ、影響がありますが、そのための手をいろいろ打っています。僕は、ただあなたを誰かの駒にしたくなかったんです」


 彼の本心はわからない。人は複雑だ、ある人の幸福を願いながら、同時に不幸も願う。

 陽菜子が玜介を愛しながら憎んでいたように。冷たくしながら、心配したように。


「あの猿、いつまであそこにいるのかしら」


 慶輝は海を眺めていた。陽菜子の声が、その夕闇に溶けていく。


「じゃあ、ゆっくり寛いで」


 彼はコテージの門に向かった。スマホでスタッフを呼んでいる。


「どこへ行くの?」

「ビジネスセンターで少し仕事を片付ける必要があって。気にしないで、父親を落胆させない成果を上げておく必要があるだけです。僕のことは心配いらない」

「ありがとう」

「感謝の言葉をはじめて聞いた」

「そうだったかしら」

「まあね」と、彼はドアを閉めた。


 その時、心のなかに穴があいた。


 ──なぜだろう?


(つづく)

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