dangerous 危険な



 昨日の悪夢を忘れた。忘れたかったから記憶を消したのだ。怖い夢を見たという微妙な感覚だけが残っている。


 身体が気怠く、おき上がるには努力が必要で、肘をついたまま中途半端な姿勢で地平線を眺めた。


 海が見える。


 慶輝はいない。少し落胆する自分を持て余す。たぶん、朝食に行っているだろう。


 慶輝はとてもストイックだ。

 日々ルーティンはいつも同じ。毎朝六時に起床すると、プールで汗を流しサウナに入ってから、コテージにある自転車でラウンジに向かい、朝食をとる。


 プライベートコテージに滞在する人のためのラウンジがレセプションホールの隣にあり、自由に食事ができた。

 ルームサービスも可能だが、慶輝はラウンジでの食事を好んでいる。


 その後、ビジネスセンターで仕事をして、午後には陽菜子と合流してプールか海で遊び、時に車を出して寂れたショッピングモールに付き合ってくれる。夕食を取ってから、また部屋で仕事をする。おそらく日本との時差二時間に合わせているのだ。



 少し前に、『これまで辛かったでしょう』と、彼が言った。まだ明るいにも関わらず、酒の匂いがして、珍しく酔っているようだ。


『ずっと、ひとりで、辛かったでしょ』

『辛い?』


 ──辛い……、ひとりで辛い?


 世の中には、感じてはいけない感情ってあるものだ。辛いと感じることなど、無意味でしかない。感情は捨てればいい。


 そんなことを聞くなんて、本当に理解できない男だ。




 ぼうっとしていると美月子という名前が浮かんでくる。無意識に目前で手を振った。妹が生きているなんて、ありえない。


 しばらく、ベッドでごろごろしながら、記憶を消していく。

 珈琲を飲み、配達された雑誌を持って部屋のプールではなく、施設内にある大型プールに向かった。


 プールサイドにある日除けテントに寝そべって、周囲の人びとをのんびり観察した。


 昼すぎに慶輝があらわれ、プールサイドを歩いて、こちらに向かってくる。

 その均整のとれた鍛え抜かれた身体に女たちが視線を送る。陽菜子はサングラスを外して、彼を見た。


 日焼けした肌、白いバスタオルを無造作にかけた上半身。トレーニングパンツだけの姿は、とても魅力的だ。


 彼は周囲を見回している。陽菜子の居場所を探して、別のテント内をのぞき、陽気な声で「エクスキューズミィ」と謝っている。


 ──なぜ、わたしに関わるのだろう? 


 この質問をすると、彼はいつも少しだけ面白がっているような表情を浮かべ陽菜子を見つめた。陶酔と同時に醒めた目つきで監視するように見ていた。それは時に煩わしく、時に感動的だ。


 慶輝が近づいてくる。愛嬌たっぷりの表情で、ビンに雫がついたジンジャエールをテーブルに置いた。


「ねえ、人はどこから来て、どこへ行くの?」

「相変わらず、唐突な質問だなぁ。ゴーギャンですか?」

「いいえ、ブレードランナーの台詞」

「ああ、あの映画、暗くて印象的な映画でしたね」

「ずっと、あの映画の世界で生きてきたような気がして」

「こんなに太陽が輝いているのに」

「ええ、こんなに太陽が輝いているのに」


 ジンジャエールを口にふくむ。

 一緒に飲み込んだ氷が喉を冷やしながら落ちていく。午後のこの気怠さをどれほど愛しても足りないくらいだ。

 彼は防水クッションが敷かれたロングチェアに、どさりと身体をあずけると、推理小説を読みはじめた。


 それは、いつもの午後だった。

 たとえ、これらの日々が薄氷の上に乗っているとしても。


 遠くで黒い雲が発生して周囲が薄暗くなり、突然の激しいスコールになった。ここではよくあることで、人びとは建物内に駆け込んで行く。


 テントを叩く雨音を聞きながら、その様子を見ていた。


「夕食の着替えに戻るかい」


 部屋に戻りたくなかった。それは警告音のように小さく胸の奥で鳴っていた。身体中の血液があわだつ。


「ええ」と、それでも従った。


 建物に入ると、スコールが止むのを待っている人びとが、雨音に負けないように大声で話している。

 彼等を遠巻きにしてカートを頼みコテージに戻った。部屋は見慣れたいつもの様子で、なんら変化はない。


 慶輝が陽菜子を見て妙な顔をした。


「どうした?」

「いいえ」

「幽霊を見たような顔をしている」

「それは、どんな顔?」

「青褪めて、唇が白い」

「青褪めて、唇が白い……」


 慶輝は何か言いかけて、それから陽気な調子になった。


「さあ、姫。今日のディナーの服装は決まったのかい?」

「まだよ」


 彼はわざとらしくため息をついた。


「できれば三十分内で、ファッションショーを終わらせてくれたら助かるんだが」


 毎夜、陽菜子が何着も着替えてから、やっと、その夜の服装を決めるのをからかったのだ。


「三十分ね。保証はできないけど」


 陽菜子もそれに合わせて陽気な声をあげた。


「やれやれ」と彼は言った。「服をショッピングモールで買い過ぎた。すごく後悔する瞬間だ」

「お気の毒」


 笑いながら、部屋に入った。

 着替えのためにベッドルームに足を踏み入れた。

 そして……、硬直して悲鳴を上げた。


 ベッドメークされたシーツの上に、便箋が丁寧に一枚一枚置かれベッドを覆っている。


『死んだ』と、すべての便箋に同じ言葉が書いてあった。


 慶輝が走り込んできて、陽菜子を抱いて支えた。その胸のなかで震えながら「誰、誰が……」と、呟いた。


「大丈夫、僕がついている」


 声が遠い。

 意識が遠のく。耳鳴りがして、ひどい頭痛がはじまった。平衡感覚が崩れ、周囲の壁が歪み、天井がぐるぐると回転した。


 ──わたしは知っている。知っているの。玜介……、あなたを刺した人を見ていた。玜介……。


「陽菜子!」


 彼の声が遠くで聞こえる。彼が陽菜子を呼ぶ声に、意識をはっきりさせようともがいた。



(つづく)

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