dark 闇
──シィィィイイ……
「ふぅ〜〜ん、気づいたようね」
低い乾いた女の声が耳奥に木霊する。それは誘惑するような、甘くかすれた声で。
──見つけないで、見つめないで、ちがう。ちがう……。こんなバケモノ。痛い、痛い、痛い。心が痛い。
「陽菜子は知っているのか」と、慶輝の声がする。
「あ・な・た、……望みどおりかしら、王子さま。うれしいでしょ、ちがう?」
渇いた艶っぽい声で女が笑う。
慶輝はどこ?
彼は遠いベッドの端にいた。両足を開いて肘をつき、顎を左手にのせて鏡を見ている。
女を見たい。しかし、息ができない。
身体が意志に反してピクリとも動かない。目覚めたまま、金縛りになっていた。脳だけが目まぐるしく回転している。
美月子?
そんな……、今まで、どこに隠れて。
ベッド正面には白を基調としたチェストがあり、その上に大きな鏡が取り付けてある。
大型鏡に釘付けになった。
女が映っている。
誘惑的な瞳、目がうるみ、鏡越しに慶輝を見ている。唇が半開きで、赤い舌が、ゆっくりと上唇を舐める。まるで獲物を狙う猛獣のように。
なんと心が壊れそうなほど脆く、
女は
「陽菜子を愛しているの?」と、彼女が囁いた。
ぞくっとするほど誘惑的で、かすれた声。
「美月子……」と、慶輝が言った。
「そうよ」
「そうか、気づいているのか」
「ええ、そう、あんたが、望むように。でしょ?」
鏡のなかの女が蛇のように舌をだして、それから声を出さずに笑った。
その顔は……。
その顔は驚くほど似ている。
身体の硬直が解けないまま、美月子を感じる。
美月子は大鏡のなかで、ゆらゆらと揺れている。まるで、いつもそうしているように慣れた様子で……、慶輝に近づく。
──ダメよ。彼を傷つける。
言葉にできず、必死で止めようともがいた。
──なにを止めるの、なにを。バケモノじゃない。わたしは違う。バケモノじゃない。わたしは、わたしじゃない。心が苦しい……。
身体が動かない。自分の身体が自由にできない。
指を曲げようとした。もどかしいほど何も起こらない。意識なくできること、顔を動かす、歩く、話す、その簡単なことができない。脳は活動しているが、筋肉が休止した状態で。
リビングチェストの鏡に映る女は、誘うような表情で彼ににじり寄った。
慶輝は?
憐れむような、悲しげな表情を浮かべている。
「陽菜子」と、彼が呼んだ。
「陽菜子? まだ、あの女に未練があるの」
「陽菜子と話させてくれ」
「それは無理ね。あの臆病な女と話せるわけがないわ」
陽菜子が話せない……。
陽菜子が話せない?
するどい痛みを頬に感じて倒れ、手で身体を支える。
「慶輝……。美月子が、どうして……」
「気がついてしまったのか」
「美月子が、どうして……」
彼に助け起こされ、ベッドにすわった。
チェストの大鏡が目に入った。怯えた表情の陽菜子を反射する鏡。服がはだけ、乳首が見え半裸になりかけの……、慌てて襟もとを重ねて胸を隠した。
「み、美月子は?」
「美月子……」
「美月子よ。今、ここにいた。わたしの妹、幼いころに死んだ。わ、わたしの妹」
「そうか……。美月子は君の妹だったんだね」
「あなたは、知らないの」
「知らないと言えば、知らない。君は見たのかい?」
「幽霊を」
「そう、幽霊だ」
「前から、あなたは知っているみたいだった」
「ああ、知っていた」
混乱しながら、何かを見た。
──シャァァァアアアア
毒ヘビが威嚇するような、しゃがれ声が叫んでいる。
声が……、でない。無理して叫ぶと咳き込み、喉が張り裂け血痰が口もとにあふれた。
──シャァァァアアアア
これは悲劇ではなく、喜劇だ。
悲劇に必要であるはずの憐れみがない。
「あなたは知っていた。知っていた」
喉から出る声に意思などなく、そこに慶輝がいることさえわからない。
身体が宙を飛び、なにかを絞める。そのなにかは熱をもち、両手でつかむにはちょうどいい具合の大きさだった。
ぐっと圧力を加えても、まったく抵抗しない。されるがままに苦痛に歪む顔。
太ももに筋肉質の鍛えた人の肌を感じる。
自分の口から流れる血が、ポタポタと落ちて、なにかを汚す。けっして汚してはいけないものを。なにか聖なるものを。
その聖なるものは、美しい顔を歪めて耐えている。
両手でつかんでいるのは、首で、喉仏で、そして、慶輝の首だ。
彼は抵抗しなかった。
瞳をのぞくと、その奥に自分の顔が映っている。
「ぼ、僕は……。生きて、いたい」
苦しげな声が胸に刺さる。
「でも、あなたが僕を殺したいなら、かまわない。ただ、とても残念だ。僕は、ちょっと前に、あなたを愛していると……、気づいたばかりで。だから、もっと愛したい」
──わたしを惑わさないで。
手を少しゆるめると、息がつまった声で、なおも優しい声で、まるで子守歌を歌っているように告げる。
「僕がいなくなったら、どうする? また、ひとりになるのかい? 君をなんて呼んだらいいんだ。迷う……。陽菜子、美月子。僕は悲しいよ」
悲しい?
陽菜子は手を離した。彼の目から視線を外し、その隣にどさりと横たわる。
「なにがあったの? 教えて」と、呟いた。
「全部、わかったのかい」
「たぶん」
捨て鉢な気分で横たわっていると、部屋の温度が一度さがった気がした。
幽霊があらわれるときは、こんなふうに温度が下がると聞いたことがある。
「そうか」
そう言って、彼はしばらく天井を見て黙っていた。
波の音が聞こえる。
ぽつりぽつりと彼が話しはじめる。
「あれは会社での出来事だった……。事件の数週間前、夜遅くに会社の近くを通りかかると、オフィスに、まだ明かりが付いていた。誰かが働いていて、きっと、あなただと思ったよ。僕を普通に扱う、乳母に似たあなたに興味を持っていた。
僕は裏口から警備員を呼んでドアを開けてもらった。仕事が残っている上司から、君のことだよ。書類を届けて欲しいと言われたってね。本当は、その日はホテルの僕の部屋に泊まっていて、夜の都会を散歩したくなっただけだったが。
自販機で珈琲を買って、君に会う理由にした。
どんなジョークを言えば、笑わせることができるだろう、なんてことを考えながらね。他人の気持ちを考えて行動することは新鮮だった……。
他の電気は消えていて、僕たちのオフィスだけがドアから明かりが漏れていた。きっと、一生懸命にパソコンに向かって仕事しているだろう。君のことを考えた。しかし、僕がドアを開けると、パソコンの前には誰もいなくて、窓からヒマそうに外を眺める女性が立っていた。
女性はドアの音に気がついて僕を見た。その、なんて表現したらいいか……。美月子の姿を見たかい。つまり、彼女はとても妖艶なんだ。ゆっくりとガラス窓から離れると君のデスクに身体をあずけて僕を見つめた。
君に似ていた。だが、いつもの君ではないと、すぐに理解できた。なぜなら、彼女は決して君がしないことをした。
その時の僕は、まだ表面的にしか君のことを知らなかったから。仕事を離れた姿は、こうなのだと誤解したんだ。
だから、僕は、『チーフ、まだ仕事だったんですね』と、考えていたジョークも忘れて陳腐な
口がひどく乾いて、声が掠れた。彼女は薄く喉で笑って『ぼうや、いい所に来たわね』と、なんていうか、恐ろしくセクシーな声で囁いた。
そして……、
僕は、その時にはじめて床に脱ぎ捨てられたストッキングに気がついた。ストッキングの先に下着が絡まっていて、あなたも僕と同じものを見た。それから素足に穿いたハイヒールのつま先で、その下着を引っ掛けた。
あなたは喉で笑いながら、僕の目の前に下着を持ち上げて『退屈な白いパンティだと思わない?』と呟いた。僕はぞくぞくするのを止められなかった。君は美しい。あえて言うなら、天使のような美しさだ。しかし、その夜の君は悪魔のような妖艶さだった。抵抗できない妖かしのような。
彼女は、自分の下着を足で高くあげて、スカートの中身がかろうじて見えそうなところで止めた。そして、『取って』と言ったんだ。僕は操られるように、白い下着を取った。『ストッキングもよ』僕は言われるままに行動した。跪いてストッキングを取ろうとすると、彼女が目の前にいて、自分のスカートをゆっくりと持ち上げたんだ」
バサバサバサという音が屋根上から聞こえる。
雨?
「たぶん、スコールだよ。気になるのかい」と、彼がささやいた。
くるりと身体を回転すると、熱のこもった彼の肌に直に触れた。
白い薄物を彼の身体からはがす。素肌は湿り気を帯び、筋肉質なのに滑らかで。口を這わしていくと、彼の手が髪をなでる。
それから、何度も抱き合った。汗みどろで、まるで獣のように、夜は長く、体液や汗や、闇がシーツを湿らすほど深く。
お互いにもう動くこともできないほど強く激しく。原初の人間の営みのように。疲れ切った敗残兵のようにベッドに横たわっても、まだ、指は互いに愛撫することをやめない。
雨が強くなり、屋根を叩いていた。
生きるためなら狂うしかない。
──だって、毒を飲んだもの。
(つづく)
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