暗闇から薄墨色へ



 白いもやが窓の隙間から入り込んでくる。水平線にオレンジ色が染み出し、甘美で疲れ切った夜が消えようとしていた。

 身体を動かすと節々が痛む。


 慶輝はベッドに腰をおろし、口角をあげた彼独特の優しく笑みを浮かべている。


「話して」

「……ああ、どっちの話を?」

「あの日のことを、もう一度」


 慶輝は淡々とかすれた声で話す。それはいつもの彼ではなかった。でも、いつもの彼って誰だろう?


「あの……翌日、オフィスで、あなたに会った。あなたは少し悲しげで献身的に働いていた。それは恐ろしいほど普通で、まったく変化がない。僕は傷ついたんだよ。女に遊ばれるなんてはじめての経験だった、例え年上でもね」

「……残念ね」

「それは皮肉かい。それからの僕は追いかけずにはいられなかった。それとなく夜のことを、あの激しい欲望の時間をほのめかしたが、あなたは何も感じないようで、その様子は至って普通だった」


 誰かの嘲笑あざわらう嗄れた声が聞こえる。


「僕自身でさえ半信半疑になってきた。夢を見たのだろうかと思うほどに、あなたは自然だ。誰にでも平等に優しく、そして、誰も寄せつけない美しい上司だった」


 半身を起こし、指で彼の喉もとに再び触れる。汗でじっとり滲んだ肌に指が吸い付きそうだ。首を締めた箇所が赤くなっている。


「痛む?」

「いや」

「わからないわ。なぜ、わたしに関わるの」


 彼は起き上がると、陽菜子を膝のなかに抱いた。背の高い彼がそうすると、すっぽりと身体が収まってしまう。まるで、ゆりかごの中にいるようで心地よい。

 心臓に耳をあてると、トクトクトクッと早い鼓動が聞こえた。


「僕は……、幼い頃に実の母親から離れ、母親の愛に飢えて育ったんだ。月並みな話だけどね。母は使用人で、父の正妻は女の子しか産めなかった。そういう訳でもないが、自分と向き合うことが難しくて。親の愛情を正しく受けることが出来なかった、そんな子どもが陥る心の不安を僕も抱えていた。


 あなたの夫が殺害された事件。テレビ報道で見たときは驚いた。すぐに電話したことを覚えているかい? あなたの声は哀しみに満ちていた。ちょっと妬けたな。


 僕の友人が警察関係のキャリアだと話したね。警察の取り調べで嘘を述べることは難しいと聞いた。

 つまり虚言を弄しても、無意識のボディランゲージから見破れるそうだ。例えば、手や指の動き、目の様子、そうした自然の反応を隠すことは難しい。しかし、あなたの取り調べをした人物も観察していた専門家も、真実を話しているようにしか見えないと断言した。


 僕はあなたの別の側面を知っていた。それで、ある仮説を立てた。解離性同一障害という病気を知っているでしょう。いわゆる多重人格だ。


 米国での最新研究では多重人格などなく、その振りをすることで犯罪を否定して逃れるという説もあり、病気自体に懐疑的になってもいるが……」


 正面の鏡に陽菜子達が写っていた。お互いに鏡を介して視線があった。ひとりは優しく、ひとりは怯えて。


「その発症メカニズムは子どもの時代のネグレクトや、親に対して信頼を持てない体験、つまり、幼い頃に心的ストレスを受けた空想癖が多い人格が、一定のきっかけがあると発症する」

「なにを言いたいの」

「わからないのかい? あなた自身のことを話しているんだ」

「わたしが多重人格だと……」

「よく、考えてごらん。あなたはとても良い人だ。誰のためにも献身的に働き、文句も言わない。親にも、夫にも、会社の上司や部下にも、すべてを自分で抱えて、ただ耐えている。人間は、そういう風には生きることができない。どこかでストレスを発散する場所が必要なんだ」


 陽菜子の一部が拒否するように、逃げようとした。


「人は複雑だ。良い面も悪い面もあり、天使と悪魔が同居するのが人間だ。その片一方だけでは生きていけない。そして、悪い面を自覚しながらコントロールして、バランスを取りながら成長することで、自立した大人になる」

「……」

「僕がこのリゾートに来たのは……。あなたに安心して過ごせる場所が必要だと思ったからだ。ここで、はじめて自由に何も縛られずに過ごした。だから、美月子の幽霊を自覚したと思う」

「なぜ、そんなことをするの」

「わからないのかい。愛していると言ったはずだ」

「あなたの言うことが本当だとして、こんな女を愛せるはずがない」

「愛している。僕たちは同じだ。一緒に笑える人がいなかった。寂しいときに抱きしめてくれる人がいなかった。悲しいときに頭をなぜてくれる人もいなかった。だから、こうしたいんだ」


 いきなり、広い胸の中に強く抱きしめられた。


「こうして、寂しいときに抱きしめたい」


 暖かく大きな手が頭をなでている。


「こうして、大丈夫だよと言いたい」

「……。わたしに何を望んでいるの。本当にはいない、妄想のわたしに」

「僕はあなたに本当の意味で生きてほしい。あがいて、生きて、そばにいてほしい」


 心の奥で美月子が笑っていた。

 妹の死で陽菜子に無関心になった母を恨み、無精子症で傷つき陽菜子を苦しめることで捌け口を見いだした玜介を恨み、憎む、悪魔のような自分が嘲笑っていた。


 目を閉じた。そら恐ろしい記憶を感じる。

 あの夜に自らの深淵でもがく彼女を解放した。


 愛人が無言電話をして来た夜、夫を誘惑した。玜介は驚いて、そして、冷酷に拒否した、まるで汚いものでも見るように。


 そう、その翌日、慶輝を誘惑した。誰でもよかった。自分を認めてくれる男が欲しかった。


 記憶が統合されていく。彼の優しい愛撫を思い出した。絶頂に達したときの喜びを。


「わたしは、わたしは」


 ただ自分を消してしまいたい。決定的な別れが怖く、傷つくことから逃げ。訳知り顔の優しさに逃げた。若い女のもとで一夜を過ごす玜介を、罰することができない自分に苛立った。


 猫がネズミを虐めるように、玜介は人を虐めることで闇を発散して、そして、自らも傷ついていた。


 あの夜。女と一晩過ごしたあと、謝りにきた玜介をバッグに忍ばせたナイフで刺した。


 彼は胸に刺さったナイフを驚いた表情で見ていた。

 悲鳴も洩らさなかった。玜介は自分を持て余し死に急ぐように危険に飛び込む。ある意味、彼の希死念慮を叶えたのは、実際は美月子だったのかもしれない。


「……な」と、なにかを彼はささやき、そのナイフの柄をコートの端で拭った。


 


 そう、それは陽菜子しかいない。彼から逃げたいと、無意味で砂のような生活から逃げたいと潜在意識で求めていた陽菜子しか刺すことはできなかった。


「これから、どうしたらいいの?」

「どうしたい?」


 自分が殺したのだ、この手で。その事実を隠すことはできない。その時、ふいに誰かが心の奥底で叫んだ。

『殺せ』と。


「殺せ」


 言葉が勝手に出てきた。陽菜子は鏡に映る青褪めた自分と対峙した。


「殺せと、言っているわ……」

「僕をかい?」

「ええ」


 いっそ甘美と言える声で彼が囁いた。


「このまま、僕を殺したければやるがいい。アリバイを用意しよう。僕は構わないよ。贅沢に暮らせるようにクレジットカードも用意しておこう」


 陽菜子は彼を見つめ、昨夜のように首に手をかけた。それは彼を試すための美月子の罠だ。彼と陽菜子の関係を試す為の……。


 美月子、かわいそうに。幼児のようにあらゆる物を求め、決して満たされぬまま成長した哀れな子、それは限りなく無償の存在しない親の愛を求める幼い陽菜子だった。そして、慶輝は陽菜子にそれを与えようとしているのだ。


 鏡に慶輝の顔が映っている。この優しい別の意味で孤独な男を利用した。


「自首するわ」

「僕って、殺したくないほど、いい男かい」

「馬鹿ね」


 彼は鏡から目をそらし、陽菜子の顔を指でなぞった。その感触はゾクゾクするほど官能的だ。


「全力をあげて、あなたを守ってやる」

「どうやって?」

「覚えているかい? 紀尾井町の弁護士事務所で気を失ったときのことを、あの時、あなたは美月子になった。そして、僕に助けてくれと求めた。あの部屋には監視カメラを取り付けてある。あなたが解離性同一障害を患っている証拠だ。弁護は坂野上に頼むよ」

「わたしは、あなたを愛していると言うべきなのでしょうね」

「僕を愛している?」


 これまでの人生で誰かを正面から真剣に見たことがない。


 愛するとはどういうことなのだろうか?

 その意味がわからない。慶輝と離れると、きっと寂しいだろう。それが愛するということなのだろうか。


「わたしには愛するということが、どういうことなのか分からない」

「あなたは何も知らずに、これまで生きて来たんだね」

「あなたは?」

「僕たちは似ているんだ。覚えているかい。僕もわからない。ただ」

「ただ?」

「あなたがいない人生は、僕にはとても退屈なものになりそうだ」


 窓から地平線が見え、大海原の景色は、どこまでも明るく広がっている。


 慶輝が、その均整のとれた身体をずらした。


 鏡のなかで、陽菜子の唇がかすかに歪み、引きしぼり、天にあがる。

 黒でも白でもない、薄墨色。


 ──やはり、あなたも愚かな男なのね。でも、ここにいてくれて、よかったと思う。



「明日、あなたも、わたしも、生きているとは限らない」

「人間は、みな、そういうことを忘れて過ごしているんだよ。あなたも忘れたほうがいい」

「いつか……、あなたを恨むかもしれない」

「愛しているって聞こえた」


 陽菜子は笑った。


 慶輝の指が頬をなぞる。ベッドの向こうの鏡に映る女は、笑いもせず、ただ涙を流していた。


 ──わたしを許すなんて、……しないで欲しい。狂おしいもの。とても狂おしいものだから。



(つづく)

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