エピローグ  倉方玜介「俺の美しい女」



『人は嘘をつく。自分にさえ嘘をつく。それは脳が嘘つきだからだ』


*************


 丸の内は無機質で品格のある街だ。路上ライブもここではギターよりもバイオリン演奏が似合ったりする。

 そんなオフィスビルで働くことを選んだ妻は、異分子にちがいない。

 まあ、あの女には違和感ばかりだが。


「俺の妻は浮気すると恐ろしいぜ」

「あなたみたいな男なら、我慢するでしょ」

 

 そう言って女は、うっふと作り笑いをしてから、楽しそうに笑った。

 女か……、こいつは誰だ、名前を忘れちまった。


「わたしを愛してる?」


 この儀式的で面倒くさい会話を無視すると、スマホが鳴った。


 かってに女が出るのを横目でながめる。どこまでが残酷な仕打ちなのだろうか、それは自分に跳ね返ってくるまでわからないものだ。


 スマホを女から取り上げて「もしもし」というと、電話は切れていた。


 美月子に謝らなければならないだろう。

 あいつは何も気にしないだろうが。どれだけ酷い扱いをしても、冷ややかな目をして気にもとめない。


「ミツコ」と呼ぶと、女は怒った顔をうかべた。

「それ、誰の名前よ。わたしじゃないわよ」

「おまえって、誰?」


 小柄な女は怒ってベッドから落ちた。いったい何者なのだ。そうだ、たしか保険加入を頼みに来た。それから、しつこく言い寄ってくる。うざい奴に関わったようだ。


 皮肉だな。美月子が、こうだったらいいと思う。


 俺は、いったい何を求めているのだろう。いや、子どもの頃から求めるものなんてわかっていない。心の中心が傾いたまま、俺は手に入らないものばかり求めてしまう。


 今日も眠れなかった。人殺しの息子なら、当然か。


「ねぇ、あなたって幸せに見えない。すっごく腹立たしいけど、でもね、でもね、離れられないの」


 裸の女が無遠慮に話してくる。

 この女だって幸せではなかろう。自分を騙して幸せだと思う鈍感さはありそうだが。自分をわかっていないのだろう。


「じゃあな」

「帰るの」

「仕事だ」


 女の体臭を消したくて、シャワーを浴びた。

 



『帰りは何時?』と、美月子にラインした。

『遅いわ。十一時過ぎかしら』


 いっそ見事なほどそっけない返事だ、いつものように。


 俺の部屋に入るなといえば、ふんという顔をして勝手に入る。あいつが俺の仕事部屋に入って、『いつか、この部屋を燃やしたい』と言ったことがある。

『なぜだ』

『あんたの存在すべてを消してやりたいって思うことがあるのよ』

『ひでえ奴だ』と言うと、美月子は嬉しそうに笑った。

『あら、親切じゃない。あなた、自分の存在を消したいんでしょ』


 ああ、そうだ。俺は消えたい。もう悩むのにも飽き飽きしている。

 

 あの日、丸の内のオフィスまで美月子を迎えに行った。

 冷え込む夜で、外で待つには寒かった。タバコをちょっと吸っては捨て、また火をつけるを繰り返していると、彼女が裏口から出て来た。




 なあ、美月子よ。はじめて出会ったのは大学の頃だったな。


 あの日を覚えているか? 冷たい雨のなかで途方にくれていたおまえ。その肩を濡らす雨が、柔らかい光をまとっていたのを、今も、この瞬間も鮮明に覚えているんだ。


 美月子。

 この名前を呼ぶ度に、俺は苦しいんだよ。


 なぜ、陽菜子と名乗るんだって聞いたのを覚えているか?


「あら、そのほうが外面がいいからじゃない。ベルギーで亡くなった姉なのよ、陽菜子って。あの子を演じると、自分を忘れるの。脳って都合がいいわね。陽菜子になると、本当にあの退屈な女になりきって、すべてを忘れる。わたしは女優なのよ。それも憑依ひょういタイプ」

「まるで、二重人格みたいだな」

「笑える」


 そうだ、おまえは他人の振りが好きだった。

 陽菜子という姉の名前をかたり、それを戸籍名にした。そのとき、おまえは自分が美月子であることを消してしまう。


「そんなことが可能なのか。戸籍まで変えるなんて」

「母はね、あの国で神経が衰弱して、いい子の姉より、わたしが溺れたと思いたかったのよ。だから、わたしを陽菜子と呼んだの。 IQは高いから飛び級しても成績はトップだったわ」

「ありえんだろう、それは」

「ありえないことがね……、海外では簡単だったりするのよ」

「そういう意味じゃない。親が子を捨てるって意味だよ」

「それが、あなたの言葉とは皮肉ね」

「ああ、そうだ。俺たちは親に見捨てられた似た者どうしだ」


 美月子は乾いた声で笑った。その顔は泣き笑いのようで、俺よりも病んでると思ったものだ。




 丸の内周辺は冷たく他人行儀で、だから彼女は仕事場に選んだのかもしれない。いつだって自分の存在を否定している。姉に完璧になりすましてまで。


 深夜、陽菜子になったおまえは、黙って俺のかたわらを歩いていた。

 責めもせず、ただ無言で。その沈黙……。優しさを忘れさせ、孤独をまとう大人の女にしたのは誰の罪なのか。

 

 裏道からメインストリートに出てすぐに、肩を叩かれて振り返った。

 おまえが俺を見つめていた。その冷酷というより、感情のない瞳に惹き込まれて立ち止まった。


 おまえは目に死神を宿した。


「望みを叶えてあげる」と、美月子がささやいた。


 胸の間に何かが鋭く差し込まれる。あまりに鋭く、神業的な行為に痛みはなかったよ。それから、おまえはナイフを抜こうとしたな。


 俺は、なぜかおまえを救いたいって、柄にもない事をしたくなった。首を振って、ナイフの柄をつかむ。おまえの手首をつかんで外した。


「痛いぞ。死ぬって、痛い……」


 コートの端でナイフの指紋を拭き取った。


 そうだ、美月子。

 俺たちはこんなふうにお互いにナイフを隠し持ちながら生きてきた。


 ナイフを持つ俺の手。それを見守るおまえ。


 長い時間。たぶん、本当は長くはなかったのだろうが、にらみ合った。殺人者と暗黙の了解を得るなんてことがあるのだろうか。しかし、おまえはふっと笑った。

 俺の意図を理解したんだ。陽菜子を守るという意味をな。だから、おまえが消えるまで声を出さなかった。


 おまえは何事もなかったかのように歩いて行く。

 俺が、その場に膝をつくと同時に彼女が振り返った。


 愛しい女。お前に愛していると言ったことがあっただろうか? すまない。本当にすまない……、だから、もう、ためらうな。


「おまえは俺の女だ。な、そうだろう? ……な」


 俺の馬鹿げた人生で失敗したことがふたつあるならば、


 そのひとつめは、おまえを愛したこと。

 ふたつめは、おまえに愛されなかったことだ。


    -了-

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