容疑者



「では……。この場所から逃げる犯人を捕らえてないのですか?」

「そういうことだね。奥さんが駆け寄った、二分後に別の場所から男が走り寄った。彼が警察に通報したのでしょうな」

「この方は?」

「通報した後に立ち去った。現在のところ彼が誰なのかわからないがね。この映像によれば、まあ、技術部で詳細な分析をしますが、事件に、かかわり合いになりたくなかったのでしょうな」


 見知らぬ男は本通りの逆方向から歩いてきて、顔をあげ、逡巡しゅんじゅんして、それから早足になった。画面の時刻は、23時26分13秒。陽菜子が走り寄った時間より一分ほど後だ。


「問題はですな、奥さん。お二人が出会ったビルの路地裏、その後に奥さん一人がオフィスビル街の歩道を進む、後を振り返り、そして、戻った。どもね、その映像に、他の人間が撮影されていないという事実が問題でね」


 その言葉を、苦い思いで咀嚼そしゃくした。


 監視カメラは、路地の裏口、向かい合わせのオフィスビルの側面にそれぞれ設置され、そして、路地から本通りに出た周辺だけが死角となっている。つまり、誰が刺したにしろ、逃げる姿は撮影されるはずで、消えることはできない。


「ご理解できましたな。つまり、ここは室内ではないが、監視カメラにより密室と同じ状況を作り出している。あなたより他にご主人を刺せる人間が写っていないという事実がね、どもね、まずいんですなぁ」


 篠崎は空咳をすると「部屋が乾燥しとるぞ」と、つぶやいた。年齢的には40代前半くらいか、薬指に細い結婚指環をはめている。


「ご主人はかなりの遊び人だったようだ。そういうことじゃあ、あなたはご主人を刺殺する動機がおありだ。いや、失敬、パワハラなんて訴えないでくださいよ」

「わたしは、夫を刺したりしません」

「ですがね」

「監視カメラに犯人が映されていないのであれば、あの場所に隠れていたと考えられないのですか?」

「ハハ……、冷静ですな。いや、珍しい」と、篠崎は笑った。「べつに雑談をしたいわけじゃないが。こんなに目鼻立ちが整った美人さんだ。服装も垢抜あかぬけている。先ほどから、嫌な話をずいぶんとお聞かせしたが、それも酷な話をね。それでも、眉ひとつ動かさず、冷静に聞き、冷静に返答をする」


 言葉にトゲが含まれている。煙たがられる嫌味を、わざと自己嫌悪もなく言える男なのだ。


 彼は、するどい目で観察してから、大げさに息を吐いた。


「仕事がら犯罪者はよく見てきたつもりだが。ま、だいたい、人殺しなんてのは、ごくつぶしのアホが多い。まっとうな精神じゃあ、殺人なんてできんこってね。戦争で殺しをして神経をやられるってのは、兵士でもよくある話だ。まして、殺人者なんてもんは、そもそも壊れている奴ばかりだ。しかし、あなたは理知的で落ち着いている」

「……」

「ども、話が妙な方向へと飛びましたな。さて、警察車両や救急車が到着した。その映像を調べても関係者以外は映っていない。つまり誰もいない。あなた以外には」

 

 ──わたし以外にいない……。


 まさか、彼が自殺した? 

 そんなことは絶対にありえない。玜介との付き合いは長い。そして、自殺するような男ではないことは、陽菜子が一番よくわかっていた。

 そうだろうか?

 よくわかっていたのだろうか?


 玜介が不幸のためにできている男だったことも間違いない。


「もう一つの可能性は、自殺だが」と、まるで陽菜子の頭の中を読んでるかのように篠崎が言った。


 首を振った。


「そうですな、これについては詳細な検視報告を待つ必要があるのだが、自殺と他殺では刺す角度が違ってくる。そして、このナイフには」と、彼がビニール袋に入った血痕の残るナイフを目の前にぶら下げた。

「奥さんの指紋しか付いていない」


 あの夜のことを思い出そうとした。確かにナイフに少し触れたかもしれない。しかし、握ってはいないはずだ。指紋などつくのだろうか?


「わたしは……。最初、なにが起きたのかわかりませんでした。夫は驚いたような顔で宙を見ていて、近づいて、それからナイフに触れて、でも、少し触れただけです。つかんではいません」


 はっとした。


「いつ、わたしの指紋を採取されたのでしょうか」

「本当に頭の切れる方だ。そう、はったりですよ。確かに、指紋が半分ほど残っていたが、その指紋が誰とまだ確定していない。状況から、奥さんだと思ったがね」


 彼の視線が、まるで誘導するかのようにテーブルに向かった。そこには証拠品が散らばっている。その時、そこに、あるべきものがないと気がついた。陽菜子はバッグを取り出すと自動的にスマホの番号を押した。何の反応もない。


「ここに……。スマホがないのですが」

「スマホ?」

「そう、スマホです。主人は必ず身に付けていました」

「スマホは」と、言って彼は黙った。

「なかったのですか?」


 彼がうなずいた。


「主人のスマホを探して下さい」


 篠崎は返事をしなかったが、メモをした。


「わかりました」

「もう、よろしいでしょうか。疲れました」

「大変に申し訳なかったですな」と、篠崎は、はじめて声をやわらげた。

「ご不快かもしれませんが、これもわたしの仕事でね。あくまでも、被害者の奥様だってことを理解した上で伺った。失礼なことがあったかもしれませんな」

「いいえ」

「ただ、最後に、これだけはお教えしたい。あくまでも、これは一般論としてですがね。もし、警察調書に嘘を述べた場合、裁判で刑はその分重くなる。そして、警察は必ず嘘をあばく」

「これは、調書なんでしょうか」


 彼はあごを上げて部屋の外を指した。


「この部屋は談話室ですよ。被害者の奥様から、お話をうかがっただけです」

「そうですか」

「まあ、ついでに失礼を承知で申し上げる。あなたはご主人を刺してはいない。そういうことですな」

「そうです」


 篠崎は陽菜子を見つめ、それから「わたしもそうだといいと思うがね」と小さく呟いた。


(つづく)

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