愛していたのかもしれない



「いいえ、奥さん。これも捜査の一環とご理解いただきたい」と、彼は逃げた。

「倉方」

「え?」

「わたしの名前は、奥さんではなく倉方陽菜子です」


 倉方という名前を強調したことが、自分でも理解できない。たぶん、この刑事の術中にはまっているのだろう。彼の態度にイラつき、無意識に『奥さん』という言葉に反発した。


 彼は目を細め、ふんっという表情を浮かべる。まるでヘビのようだ。それも毒ヘビ。


「ああ、どもども、倉方さんだね。奥さん、わかっておりますよ。それで、いつも会社まで迎えに来るんですか? いや、ご主人のこってすがね」

「……。あの夜、浮気のことで夫は謝りにきたのです。でも、簡単に許したくはなかっただけで」

「それで?」


 陽菜子は小首を曲げ、肩をすくめた。どうせ、事実を言っても理解などしないだろう。そう思うと、あきらめしかない。これまでの人生と同じように、またひとつ、あきらめを付け加えるだけのことだ。


「ご夫婦で、そんなゲームをしませんか?」

「ゲームですか?」

「そう、ゲームです」

「ゲームか……。奥さんみたいな魅力的な美人にゲームを仕掛けられて、浮気をしたというわけですかい」


 ゲーム。彼との日常は、まさにゲームだった。

 子どももなく、ふたりだけの生活が続く結婚生活。束縛されることもなく、お互いに自由に仕事をして、めったに会うこともない。


 篠崎は肩をすくめ、背後を振り返ると、「おい、あれ」と言った。

 若い警官が、新たな書類箱を、ドンとテーブルに置いた。チラッとこちらを見て、それから、不可解そうに首をふった。


「これが、ご主人の持ちものなんだがね。背広のポケットに入っていた。あ〜〜、あなた、これ、見えます?」


 そう言って、書類箱からビニール袋を取り出した。

 透明なビニール袋には、白いパッケージをクシャと丸めたタバコ箱が入っていた。夫は学生時代からホープを吸っており、今も変えていない。


『なぜ、ホープにこだわるの?』と、聞いたことがある。

 彼は『別に』と答えた。そもそも、ホープにこだわりなどなかったろう。それよりも、会話を続けるのが苦痛そうだった。


『なにかあるの?』

『なにかって?』

『仕事のことよ』

『夫婦ってのは、そういう会話をしないもんだ』と、彼は鼻をすすった。

『そういう会話をしたら、夫婦じゃないのかしら』

『ああ、どうせ本当のことなんて話さないし、もとから理由なんてない。単なる悪癖でしかない。だから、黙る。まだ恋人の段階なら、嘘をつくんだろうが。その手間を省けるのが夫婦ってものだ』


 苦笑するか、黙るしかない。

 玜介は自分のことを話さない男だ。無口で、たまに口を開くときはシニカルな言葉が飛び出す。そこがまた女にモテる理由でもあって。特別にイケメンというわけでもないが、シワの寄った顔は、味があり魅力的だと思う。


「奥さん」と、篠崎が頭をかいた。

「倉方さんだった。どもども」


 まったく無意味な言葉をつづける篠崎の、その指だけは別の生き物のように、テーブル上にビニール袋を並べていく。


 かぎ類、手帳、鼻をかんだらしいティッシュ、愛用のサイフ。サイフ内と書かれたビニールには二万円と三千円に小銭が数枚。クレジットカードと免許証などが並んでいた。


 それにしても、彼の残したもののなんとわずかなものだろう。

 三十七年の人生でなにを残したかった。それは決して汚れたティッシュとか、古びたサイフではなかったはずだ。


「これらに見覚えは」

「夫の持ちものです」

「他には」

「他に、なんと言えばよろしいのでしょう」

「少し待ってくださいよ」と、篠崎が立ち上がった。


 片隅でパソコンを操作していた若い警官がいた。彼の傍らに行き、乱暴にパソコンを取り上げ、キー操作をすると、くるりとこちらに画面を見せる。


「見てもらえるかね」


 そこには、裏口で待っている玜介の様子が映しだされた。


「丸の内近辺は重要な施設が多くね……、監視カメラが多く設置されていてね。ここで犯罪を犯すことは難しいはずなんだが。人目がないようで、あらゆる箇所に監視カメラが設置されている。ども、便利な世の中になったもんだが。さて、ここは奥さんが働いているビルの裏口の映像で……。ご主人がタバコを吸いながら待ってる。次に」


 玜介が……。

 いつもの皮肉な表情でタバコを吸っている。おそらく自分の置かれた状況、浮気して、謝罪する状況を、めんど臭く思っているにちがいない。


 別の画面があらわれた。

 オフィスビルの側面、本通りを陽菜子が一人で歩いていた。そして、背後を振り返り、一瞬だけ立ち止まった。次の瞬間、陽菜子は飛び出すようにして後に走り、監視カメラから消えた。


「では、犯人が主人を襲ったところが映像に?」

「それがですな。今、ご覧になったように、ご主人が倒れた場所だけ、ちょうどカメラの死角になっていてね」


 はじめて言葉を失った。

 見ようによっては、陽菜子が走りよって刺したと推測できるからだ。その映像を篠崎は繰り返し再生した。カツカツとコンクリートの歩道を走る耳障りな音が、何度も何度も繰り返された。


(つづく)

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