雨の日々



 なぜか、雨の日ばかりが続いている。それとも意識があるとき、たまたま雨がふっているだけだろうか。

 窓ガラスをつたう雨だれを眺めるだけの日々。


 この1週間、固定電話もスマホも電源を切ったので、誰かが連絡してもわからなかった。いずれにしろ、話したいと思う人などいないけれど……。


 陽菜子は困ったときにする癖で、無意識に親指の爪を噛んでいた。白い親指の先が滲んだような血色に染まる。


 こういうのを孤独というのだろうか、薄く考えていく。

 自分が過去に孤独だったのか、夫を失って孤独になったのか、それさえも定かではない。これまでも、もっとも親しい友は『孤独』だったのだから。


 多くの人は、陽菜子を付き合いやすい人間だと考えている。

 しかし、深く知り合えば、夫のように、『簡単には人に心を預けないだろう?』と、言われてしまう。

 多くの人を知っているが、誰ひとり相談する相手がいない。


 雨だれが窓をつたう薄墨うすずみ色の風景を眺めながら、会いたいと思う唯一の人間が、玜介だと気づいて悲しくなった。夫婦であるということは、希薄な関係であってさえ、不思議な絆ができるようだ。


 窓の外は雑木林になっており、その林に太陽光が射したり、月明かりに滲んだり、風に揺れたり、雨が落ちたりするのを、部屋着を素肌に軽く羽織ったまま、ただ眺めて過ごした。


 すべてがわずらわしい。自分が犯人だと思われていることも。


 おそらく、精神科医ならこういう状態をうつと診断するだろう。苦笑するしかないのだけれど。でも、たしかに鬱と思うと、少しだけほっとした。病名は時に役に立つこともある。それは言葉でしかないが、時に、盾にできる。


 自宅は3LDKで、寝室とリビングダイニング、陽菜子と玜介のそれぞれの仕事部屋で構成されている。ここ二、三年は彼が戻ってくることは滅多になかったが。


 窓から離れて、玜介の仕事部屋のドア前に立つ。


 そこに入るには勇気が必要だった。思い出と対峙するよりも、玜介のプライバシーを犯すことに躊躇ちゅうちょしてしまう。彼は勝手に部屋に入られることを極端に嫌っており、掃除も自分でしていた。それは今でも呪いのように陽菜子を縛っている。


「ちょっと見てもいいかしら?」


 独り言を呟きながらドアを開けた。

 埃の舞う部屋内は、しかし、丁寧に整理されていた。ずぼらな性格のくせに、妙に几帳面なところもある。

 ふいに彼の冷たい声が蘇った。


『勝手に部屋へ入ったのか』


 一緒に暮らしはじめた翌日、掃除のために部屋に入ったことを知り、彼の機嫌が一変した。その態度は他人のように冷たく恐ろしかった。


『なぜ、入ってはだめなの?』と聞く陽菜子に、彼は押し黙ってドアを閉めた。


 あの日以来、入ったことのないと思う部屋は、カビ臭く湿気がこもり古くなった書物が発する独特の臭いがした。

 主のいない部屋は、どこか墓場のようで、聖域に立ち入ったような錯覚を覚える――。


 右壁の書棚には、丁寧に分類された書類が片付けてある。どの書類もバインダーに挟まれ、乱暴な手書きでタイトルが書かれてあった。


 なにから手をつけて良いのかわからず、書類を右側から順番に開いた。資料や取材記事、メモ……。


 それは玜介の勤める編集出版社で掲載された物がほとんどであった。経済関連のものもあれば、陰惨な事件の取材も。


 整理する中で、あきらかに他の物と区別し密封された茶封筒があった。表紙にKKファイルと書かれている。

 KK……倉方玜介の略だろうか?


 A4サイズの封筒を手で乱暴に切り裂いた。

『本当に雑な奴だな』という彼の声が聞こえた。


「そうよ、雑なのよ。知っていたでしょ」


 誰に言うともなく声をだした。

 返答はない。

 肩をすくめてから、封筒を逆さにした。


 何も入ってなかったのかと疑問に思った瞬間、奥から何かが落ちた。フローリングの床に鈍い音を立てて、それは机の下に転がっていく。


 軽くため息をつき、床下に寝転がって、机の隙間に指を差し入れた。手に触れたものは冷たく、ひろいだすとアルミ製の鍵だった。全く見覚えがない。


 親指の爪を噛んで、それから、部屋着のポケットに鍵を滑り込ませた。

 しばらく、仕事部屋を探索してから、馬鹿々しくなってドアを閉じた。


『なんにでも手をだすが、すぐに飽きるよな、おまえは』

『飽きるんじゃないけれど、ただ、面倒になってくるの』

『それ、同じ意味だろう』


 玜介の声が聞こえた。

 親指の先に血が滲む。


 痛みとともに泣けてきた。痛みが涙をさそい、いったん涙がこぼれると、止まらなくなった。


「1週間よ。1週間、泣くのを我慢したわ。どう、玜介。わたし、あなたに十分、冷たくできたかしら?」


 自分の言葉に自分で驚いていた。


(つづく)

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